第14話 ベッドの上の熱
――どうしてこうなった?
今、俺の部屋には伊織がいる。
事の発端は放課後。
捻挫した俺を心配して、伊織が家まで肩を貸して送り届けてくれたのだ。
そこまでは良かった。
本当にありがたかったし、素直に感謝もしている。
問題は、玄関先で出くわした俺の母親である。
『あらやだ絢人!あんた足どうしたの!?……えっ、遠野くんが家まで送ってくれたの?もう、本当にありがとうねぇ!さあさあ、あがっていって!ちょうどケーキ買ってきたところなのよ!』
息子の怪我に驚きつつも、見目麗しい伊織の姿を見るや否や、母親はものすごい勢いで家に引き入れようとした。
すると、適当に愛想よく理由をつけて躱すだろうと思っていた伊織が、
「いいんですか?じゃあ、お言葉に甘えて」
と答え、あっさり靴を脱いでしまったのだ。
そして現在。
俺の部屋に案内された伊織は、机の椅子に腰掛け、珍しそうに部屋の中をぐるぐると見回している。
「……なんだよ。俺の部屋なんて見ても面白くねえだろ」
「ううん。絢人の部屋初めてだから、新鮮だなと思って」
「そりゃ、今までお前が俺の家に来ることなんてなかったし……」
葵を交えて三人で遊ぶ時は、大抵外か、葵の家だった。
だから、こうして互いのパーソナルスペースに踏み込んだことなどなかったのだ。
「……なんか、絢人の匂いがするね」
「お、俺の部屋なんだから当たり前だろ!」
俺はベッドの上に座ったままカッと顔を熱くした。
葵に言われるならまだしも、なんで伊織に言われてドギマギしてるんだ俺は。
そもそも、男友達が部屋に来ることなんて別に珍しくはないはずなのに。
どうしてか、伊織が俺の部屋の空気を吸って、俺の領域に存在しているという事実だけで、ひどく落ち着かない気持ちになる。
「……足、痛む?」
「え?ああ、いや。平気」
「そ」
伊織は椅子から立ち上がると、ゆっくりと俺の座るベッドの方へ近づいてきた。
そして、当然のように俺のすぐ隣に腰を下ろす。
きしっ、とマットレスが沈み込み、すぐ横から伊織の体温と、微かに甘い香水のような匂いがふわりと漂ってきた。
「……近い」
「別にいいでしょ。怪我人なんだから、すぐ支えられる場所にいないと」
「ベッドに座ってんのに倒れるわけないだろ……」
「念のため」
伊織は全く悪びれる様子もなくそう言うと、俺の右足首――湿布を貼っている部分に向かって、そっと指先を伸ばした。
直接触れるわけではなく、熱を持っているか確かめるように、すぐ近くの空気を撫でるだけの慎重な手つきだ。
「……ほんとに大丈夫?」
「平気だって何度言わせるんだよ。ただの軽い捻挫だっつの」
そう言って笑ってみせると、伊織はわずかに目を見開いたあと、真っ直ぐにこちらを見つめ返してきた。
色素の薄い瞳が、ひどく真剣な色を帯びている。
「もう怪我とか、危ないことしないでね。……絢人が痛い思いするの、嫌だから」
静かで、温度の低い声。
だけど、その言葉の裏にある感情は、火傷しそうなほどに熱くて真っ直ぐだった。
俺の足首の近くにあった伊織の手がゆっくりとシーツの上を滑り、ベッドに置いていた俺の手にすっぽりと重なる。
――なんだこれ。反則だろ。
そんな顔で、そんな風に触れられたら、勘違いしそうになるじゃないか。
……いや、勘違いってなんだ?!
自分でも急に跳ね上がった心臓の理由がわからなくて。
俺は重なった手から伝わる熱を持て余したまま、ただ黙って俯くことしかできなかった。
すると、沈黙に耐えきれず固まっている俺を覗き込むように、伊織が少しだけ顔を近づけてきた。
「……手、跳ね除けないんだ?」
ぽつり、と。
すぐ近くで落とされた静かな声に、びくっと肩が跳ねる。
顔を上げると、至近距離に伊織の整った顔があった。
いつも通り淡々としているけれど、その色素の薄い瞳の奥にはほんの少しだけ、意地悪なような、安堵したような色が滲んでいる。
「あ、いや!これは、その……っ」
慌てて手を引き抜こうとしたけれど、伊織の指がスッと俺の指の間に滑り込み、逃げ道を塞ぐように絡め取ってきた。
「伊織っ……!」
「じゃあ……どこまでなら、許してくれる?」
重なった手から、伊織のもう片方の手がゆっくりと俺の腕を伝い、脈打つ手首の内側を親指でそっと撫でた。
「ひゃっ、……ば、か、伊織……っ」
ゾクッとした感覚に、情けない声が裏返る。
伊織の顔がさらに近づき、吐息が触れ合うほどの距離でその薄い唇がゆっくりと弧を描いた――その時だった。
コンコンッ!
「はーい、二人とも!ケーキ持ってきたわよ!」
間の抜けた明るい声と共に、母親がトレイを持ったまま勢いよく部屋に入ってくる。
「っ、お、おう!サンキュ!!」
「京子さん、ありがとうございます」
俺がバッと弾かれたように距離を取ると、伊織は何事もなかったかのように、完璧な愛想の良さで微笑み返した。
さっき玄関先で『京子って呼んでね!』と言われたのを、ちゃっかり実践しているらしい。
こいつ、こういうところは本当に要領がいい。
母親は「ふふっ、ゆっくりしていってね!」とご機嫌に言い残し、嵐のように去っていく。
残されたのは、ショートケーキが二つ置かれた机と、再び気まずい沈黙が落ちた部屋。
(……や、やばい、心臓飛び出るかと思った……!!)
俺はバクバクとうるさい胸の音を悟られないよう、ただ手元のフォークを意味もなく強く握りしめていた。
沈黙が痛い。
目の前に置かれたショートケーキのフィルムを剥がすのも忘れ、俺は意を決して口を開いた。
「あの、さ……もうやめねえか?」
「なにを?」
フォークを手にしたまま首を傾げる伊織の声は、驚くほど平坦だった。
それが逆に怖くて、俺は伊織の顔を見れないまま、テーブルの木目を睨みつけて言葉を続ける。
「さっきみたいな、こと。……お前は単にからかってるだけなんだろうけど、俺は、ああいうの慣れてないからさ、正直困るっていうか……」
そう言って、小さく息を吐く。
俺の反応を面白がってるだけだ。そう分かってはいても、これ以上ペースを乱されるのは心臓に悪すぎる。
本当に困るのだと、きちんと話せば、きっともうやめてくれるだろうと思った。
けれど。
「……からかってる?」
返ってきたのは、温度を徹底的に奪い去った、酷く冷たい声だった。
思わず顔を上げると、伊織は全く笑っていなかった。
淡々とした表情のまま、その色素の薄い瞳だけで、射抜くように真っ直ぐ俺を見据えている。
「オレが、絢人をからかってるように見えた?」
「え、いや……だって」
「からかってないよ」
はっきりとそう言い切った伊織は、持っていたフォークをコトリと皿の上に置き、再び俺へと身体を向けた。
「オレはただ、絢人に触れたいって、そう思ってるだけ」
「なっ……!?」
なんだって……!?
いよいよ意味が分からなかった。
からかいではなくオレに触れたいと思うその気持ちが、全く理解出来ないのだ。
「……絢人は、オレに触られるの嫌だった?」
逃げ場を塞ぐような、低くて静かな声。
怒っているのか、それとも傷ついているのか、伊織の平坦な表情からは読み取れない。
「い……、嫌、とかじゃなくて……ただ、びっくりしたっていうか……っ」
「……ふうん、そっか。嫌じゃないんだ」
俺のしどろもどろな言い訳を聞いた瞬間。
伊織の纏っていた冷たい空気がふっと緩み、いつもの甘い微笑みが唇に戻った。
「ならよかった。……ケーキ、食べよっか」
何事もなかったかのように、伊織は再びフォークを手に取ってケーキを切り分ける。
俺は完全に伊織のペースに飲み込まれ、ドッと疲労を感じながら、無言で頷くことしかできなかった。
◇
伊織が帰った後の部屋は、やけに静かで、少しだけ冷たく感じた。
「……っあー、もう!」
一人になった途端、誤魔化していた熱が一気に顔に集まってきて、俺はベッドの上に勢いよく倒れ込んだ。
疲れと足の痛みのせいか、それとも極度の緊張から解放されたせいか。
シーツに顔を押し当てて悶えているうちに、俺の意識は泥のように微睡みの中へと落ちていった。
――夢を見た。
さっきの、続きの夢だ。
『じゃあ……どこまでなら、許してくれる?』
甘く低い声とともに、脈打つ手首の内側を撫でられる。
現実ではそこで母親がノックをしてきたはずなのに、夢の中の部屋には誰も来なかった。
至近距離にある伊織の色素の薄い瞳が、逃げ場をなくすように俺を真っ直ぐに射抜いている。
近づいてくる、端正な顔。
触れ合うほどの距離で交ざる吐息に、心臓がうるさいくらいに跳ね回って――。
そして、伊織の薄い唇が、ゆっくりと俺の唇に重なった。
「っ……、」
驚くほど柔らかくて、熱い。
触れるだけの静かなキスだったのに、頭の芯が痺れるほど甘くて。
跳ね除けることなんてできなくて、俺は夢の中で、伊織の肩にそっと手を伸ばして……。
「――っわああっ!?」
ガバッ、と勢いよく上体を起こす。
窓の外はすっかり暗くなっていて、部屋の中には静寂だけが落ちていた。
「はぁっ、は、っ……ゆ、め……?」
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。
全身に嫌な汗をかいているのに、唇にだけは、あの甘くて熱い感触がリアルに焼き付いていた。
「うそ、だろ……?」
無意識に自分の唇を指でなぞり、そのまま両手でボフッと顔を覆う。
熱い。顔中から火が出そうだ。
「なんでこんな夢……っ。つーか、なんで伊織なんだよ!」
耐えきれず、ベッドの上でジタバタと身悶えする。
「そこは葵だろ……っ!?」
だって、俺の好きな相手は葵なのだ。
あんな甘い夢を見るなら、当然、葵が出てくるはずだ。
それなのに。
なんでよりによって、友達の伊織を相手に、あんな……あんな、キスなんかっ!
『ただ、絢人に触れたいって、そう思ってるだけ』
パニックになる頭に、伊織のあの静かな声がフラッシュバックする。
夢の中で、跳ね除けるどころか伊織の肩に手を伸ばそうとしていた自分を思い出して、俺は「あーっ!」と再びシーツに頭を突っ込んだ。
とてつもなく伊織に申し訳ない気持ちになる。
明日からどんな顔してあいつに会えばいいんだと、俺はただベッドの上で頭を抱えることしかできなかった。
◇
翌朝。
昨夜の夢のせいで一睡もできなかった俺は、最悪のコンディションのまま登校した。
教室の自分の席にぐったりと突っ伏していると、聞き慣れた落ち着いた足音が近づいてくる。
「……おはよう、絢人。足、どう?」
心臓がビクンと跳ねた。
突然の伊織の登場に、声が盛大に裏返る。
「お、おう!おはよう!足は、ぜ、全然平気だから!」
「そう、良かった」
「……っ」
伊織の顔を見た瞬間、昨日のキスの感触がフラッシュバックしてしまって、まともに視線を合わせられない。
俺のあからさまに不自然な態度に、伊織はわずかに眉をひそめた。
「……顔色、すごい悪いよ。熱、あるんじゃない?」
そう言って、伊織がいつものように自然な動作で、俺の額に手を伸ばしてくる。
その綺麗で長い指先が視界に入った瞬間。
夢の中で俺に触れてきた、あの甘い体温が鮮明に蘇った。
「っ……触んな!!」
バシンッ!
朝の教室に、ひどく乾いた音が響いた。
弾かれたように立ち上がった俺は、無意識のうちに、伸ばされた伊織の手を思い切り振り払っていた。
「あ……」
我に返った時には、もう遅かった。
振り払われた自分の右手を空中に彷徨わせたまま、伊織はピタリと動きを止めている。
「……悪い、でも、ほんとに大丈夫だから」
伊織は葵が好きなのだ。
それでなくても、今の伊織は大事な友達だというのに。
あんな不純な夢の相手にしてしまった罪悪感で、まともに顔を見ることができない。
「……そう?無理しないでね」
強く振り払われたのに、それでも俺を気遣う伊織。
その優しさが、今は痛かった。




