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15/18

第15話 正夢


あの日から、俺はあからさまに伊織を避けるようになった。


目が合いそうになれば露骨に逸らし、休み時間は理由をつけて席を立ち、放課後も逃げるように帰る日々。


(……いつかとは、逆だな)


ふと、そんなことを思う。

かつて、理由もわからず俺のことを無視し続けていた伊織を問い詰めるために、俺の方から強引にその腕を引っ張って連れ出したことがあった。

あの時は、離れていこうとする伊織を俺が必死に追いかけていたのに。

今は俺の方が、伊織から逃げ回っている。


伊織はそんな俺を無理に追ってくることはなかった。

けれどそれは、俺のことをどうでも良いと思っているからじゃない。

遠くでじっと俺の様子を伺っていたり、遠慮がちに話しかけてきたりと、俺を気にかけてくれていることには気づいていた。

それでも俺は、どうしたら良いのか分からなくて、そんな伊織を避け続けている。


(……ごめん……)


罪悪感で押し潰されそうだった。


◇


そんな不自然な逃亡生活が五日ほど続いた、ある日の放課後のこと。

教室で帰り支度をしていた俺の背中を、ポン、と軽く叩く手があった。


「絢人」


「うおっ!?……なんだ、葵か」


振り返ると、葵が心配そうな顔をして首を傾げていた。


「絢人さ、最近伊織のこと避けてるでしょ。……喧嘩でもした?」


「えっ!い、いや!喧嘩っていうか、その……」


図星を突かれてしどろもどろになる俺を見て、葵はふわりと、太陽みたいに笑った。


「何があったか知らないけどさ。伊織、すっごく寂しそうにしてたよ」


「あ……」


知ってる。

あいつの元気がないことは分かっていた。

俺のせいだ。


「伊織のこと、嫌い?」


そう問われて、思わず大声を出した。


「そ、そんなわけ……!」


「だよね、良かった!」


ぱっと明るく笑いながらも、葵は真剣な声で言葉を続けた。


「伊織は絢人のこと、すっごく大事に思ってるよ。だからね、仲直りしてあげてほしいんだ」


「……!」


分かっている。

最近のあいつが、出会った頃では考えられないほどに俺を大事にしてくれていることは。

だけど、大事にしてくれているからこそ、あんな夢を見てしまった自分が許せなくて、伊織にあわせる顔がなかった。


「絢人も、本当は仲直りしたいって思ってるんでしょ?」


「それは……」


当然だ。

出来れば今すぐにでもあいつに謝りたい。

手を振り払ってごめん、無視してごめん、と。


だけど、理由を聞かれてしまったら、どうすれば良いと言うのだろう。

そもそも俺に、あいつの傍にいる資格なんてあるのだろうか。


「ほんとはね、俺が嫌なんだ」


葵がぽつりとそう呟いた。


「え……?」


「最近、二人が仲良くなって、安心してたんだよ。伊織はなんていうか……、僕には優しいけど、他に友だちが全然居なくってさ」


「ああ……」


葵も、あいつの交友の狭さを心配してたんだな。


「だけど、絢人と仲良くなってからは毎日すっごく楽しそうで、本当に良かったなって思ってたんだ!だから、いつもの二人に、戻ってほしいなって……」


「葵……」


裏表のない、真っ直ぐで優しい言葉。

最低な理由で伊織から逃げ回り、罪悪感でぐちゃぐちゃになっていた俺の心に、その純粋な思いやりがじんわりと温かく沁み込んでいく


「……あおぉぉい……っ!お前マジでいい奴だな……っ!」


「えっ、わわっ!?」


俺のことも、伊織のことも、こんなにも大切に思ってくれている。

その事実がどうしようもなく胸に迫ってきて、俺は堪えきれずに葵へとガバッと抱きついた。

突然のことに葵は目を丸くして驚いていたけれど、すぐに「よしよし」と柔らかく笑って、俺の背中をポンポンと優しいリズムで叩いてくれた。


俺と伊織の本当の想いは、きっと葵には一生届くことはない。

けれどその代わり、切れることのない絆が俺たちには確かにあるのだと、そう思った。


そうして、葵と俺の間には温かな空気が流れていた。

ーーが、一瞬で氷点下に凍りついたのは、その時だった。


「……何、してるの」


地を這うような、ひどく冷たい声。

ビクッと肩を跳ねさせて入り口を振り返ると、そこには、感情の一切抜け落ちた目でこちらを見据える伊織が立っていた。


「い、おり……」


息が止まる。

数日ぶりにまともに顔を合わせた伊織は、今まで見たこともないくらい、恐ろしい空気を纏っていた。


伊織は無言のままこちらへ近づいてくると、葵に抱きついていた俺の腕を強引に引き剥がし、そのまま手首をギリッと強く掴み上げた。


「いっ……!」


「ごめんね、葵。ちょっと絢人借りる」


「えっ?!あっ、うん!いってらっしゃい!」


有無を言わさぬ伊織の圧力に、俺は抵抗する隙も与えられず、そのままズルズルと教室の外へと引きずられていく。


「ちょ、ま、伊織!引っ張んなって、痛い、痛いから!」


「…………」


何を言っても、伊織は無言で俺の腕を引いて廊下を進んでいく。

俺の抗議の声は、放課後の静かな校舎に空しく響くだけだった。


一方、誰もいなくなった教室に取り残された葵は、遠ざかっていく二人の背中を見送りながら、のんきに微笑んでいた。


「早く仲直りできるといいね」


◇


辿り着いたのは、西棟の使われていない空き教室だった。

乱暴に引き戸が開けられ、中へと放り込まれる。


「痛っ……!お前、いきなり何す――」


バンッ!


抗議の声を上げるより早く、背後の扉が凄まじい音を立てて閉められた。

ビクッと肩を震わせた俺の目の前に、伊織が迫る。

そのまま肩を強く押され、壁へと押し付けられた。


「……いお、り」


逃げ道を塞ぐように両腕を壁につかれ、完全に伊織の腕の中に閉じ込められる形になる。

至近距離から見下ろしてくる伊織の瞳は、やっぱり酷く冷たくて、底なし沼みたいに黒く濁っていた。


「……五日間」


「え……」


「五日間、ずっと俺を避けてたよね。目も合わせない、話しかける隙も与えない」


低く、地を這うような声。


「……オレ、何かした?」


「そ、それは……っ」


……言えない。

お前を相手に最低な夢を見たせいで、顔を見るのが気まずかっただなんて。


俺が言葉に詰まって目を逸らすと、伊織の綺麗な指が俺の顎を乱暴に掴み、無理やり正面を向かせた。


「っ……!」


「オレには触られたくないくせに、葵には自分から抱きつくんだ?」


ギリッ、と。顎を掴む指の力が強くなる。

痛い、というよりは、その指先から伝わってくる伊織の感情の重さに、息が詰まりそうだった。


「オレがどんな気持ちで……どれだけ我慢してたか分かる?」


静かな怒りと、隠しきれない泥のような執着が混ざり合った、痛いくらいの視線。


「葵に抱きついてるのを見た時、オレがどんな気持ちになったか分かる?……分からないよね」


「ちが……っ!俺は葵とどうこうってわけじゃなくて……!ただ、あいつが優しいこと言うから、つい……っ」


「優しいって何?何を言われたら抱きつくことになるの?」


悲鳴のような俺の言い訳を、伊織の冷たい声がバッサリと切り捨てる。


「絢人ってさ、結局、オレのことなんてどうでもいいんでしょ?」


「な……っ!どうでもいいわけないだろ!お前は、俺の大事な……っ」


『友達』


その言葉が、なぜか喉の奥でつっかえて出てこなかった。

俺の言葉が途切れたのを見て、伊織の顔がふっと歪む。


「……ずるいよね、絢人って」


吐息が混ざるほどの距離。

伊織の親指が俺の顎からゆっくりと滑り、震える俺の唇をそっとなぞった。

触れているだけの、恐ろしいほど優しい手つき。

けれど、至近距離で見つめてくる伊織の瞳は、ひどく傷ついたように揺れていた。


「大事だって言いながら……オレのこと平気で無視してさ」


「っ、それは……」


「あの日、あんなにオレの手を強く振り払うくらい……」


なぞっていた親指がピタリと止まり、伊織の顔が自嘲するように歪む。


「オレが嫌だった?」


その声には、怒りよりも深い、どうしようもない絶望が滲んでいた。


ドクン、と。

心臓が、今までで一番嫌な音を立てて軋んだ。


「違う、嫌だったわけじゃない!本当に違うんだ……っ!」


もうこれ以上黙っていることは出来ないと思った。


俺がどんなに最低な理由で逃げ回っていたか。

理由を知ったら、きっと不快な思いをさせるだろう。

だけど、だからといって伊織を傷つけて良い理由にはならないのだと、今ようやく気がついた。

俺は壁につかれていた伊織の腕を、無意識に両手で強く掴み返す。


「……嫌じゃなかったって?あんなに拒絶したり無視したりしてたのに?そうやって適当なこと言うのはやめ……」

「……っ、夢を!見たんだよ!」


伊織の声を遮り、思い切り叫んだ。


「夢……?」


突然何を言い出すんだと言わんばかりに、伊織がわずかに目を見開く。


「……から……」


「……?え?」


恥ずかしさのあまり声が萎んでしまった。

このままでは伊織の耳には届かない。


くそ……!言うって決めたんだ、ちゃんと、ハッキリと言わないと……!


「……っ、だから!お前が!」


「オレが?」


「へ、変に……触ってくるから……!だから……!」


「……?」


腹を括ったはずなのに、恥ずかしさでどうしてもしどろもどろになってしまう。

要領を得ない俺の言葉に、伊織は怪訝そうに眉をひそめた。


「お、お前と……!」


「オレと?」


「キ……っ」


「キ?」


言え。 言うんだ俺……!


「……っ、キス!する夢!……見ちまったんだよ……!」


「え……?」


言った。 言ってしまった。

顔中から火が噴き出しそうだ。

誤解を解くためとはいえ、なんでこんな恥ずかしいことを、よりによって本人に向かってぶちまけているんだ俺は……!


「だっ、だから!だから……お前の顔をまともに見れなかっただけで……嫌だったわけじゃないんだっ、ほんとに……っ!」


必死に弁解をまくし立てると、俺は覚悟を決めるようにギュッと目を閉じた。

ドン引きされる。気持ち悪いと思われる。

伊織の反応が怖くて全身を硬くした、次の瞬間。


「……ふーん、そうだったんだ」


降ってきたのは、予想に反して、酷く甘く、熱を帯びた声だった。


恐る恐る目を開けると、そこにはさっきまでの冷たい絶望なんて嘘のように、ひどく機嫌の良さそうな伊織の顔があった。

予想外の反応にオレは固まった。


「え……?」


そんなオレの様子に構わず、伊織は言葉を続ける。


「ねえ、それってつまりさ。絢人はオレとキスする夢を見ちゃって、それで照れてオレの顔が見れなかったってことだよね?」


「な……っ!?」


改めて事実だけをまとめられると、恥ずかしさのあまり本当に死んでしまいそうになる。

というか、さっきまでのあの殺伐とした空気は一体どこへ行ったんだ。


「ち、ちがう!いや、違わないけど!俺はただ、申し訳なくて……っ」


「申し訳ない?」


伊織が不思議そうに小首を傾げる。

俺はさらに目を逸らし、逃げるように早口でまくし立てた。


「だってそうだろ。お前は葵が好きだし、それに俺たちは友達だし……。それなのに、あんな不純な夢見るなんて、お前に失礼っていうか……っ」


「……」


だんだんと尻すぼみになっていく俺の言葉を聞いて、伊織はピタリと動きを止め、きょとんと目を丸くした。


「……なにそれ」


「え……?」


「絢人って、ほんとに馬鹿だよね」


伊織は、はあ、と心底呆れたような深い溜息をついた。


「オレが、葵を好きだって……まだそう思ってるの?」


「え?え?だ、だって……」


伊織は葵が好き。

それはごく自然で、絶対に覆されることのない前提事実でしかない。

……よな?


「もちろん葵のことは大切だよ。当たり前でしょ?……だけど、」


そこで一度言葉を切ると、伊織はゆっくりと顔を寄せてきた。

ただでさえ逃げ場のない壁際。

すでにお互いの体温が伝わるほど近かった距離がさらにゼロへと縮まり、伊織の整った顔が視界を埋め尽くす。

形の良い唇が俺の耳たぶに触れそうなほど近づいて、熱い吐息が直接肌をくすぐった。


「あの日、オレが誰に触れたいって言ったか……もう忘れちゃった?」


「……っ!?」


鼓膜の奥まで甘く響くような、低くて粘り気のある声。

ゾクッと背筋に電流が走ったように粟立ち、俺は思わず肩をビクンと跳ねさせた。


心臓が、自分でも引くくらいうるさい音を立てて暴れ回っている。

驚いて伊織の顔を間近で見上げると、色素の薄いその瞳は、夢の中で見たのと同じ……いや、それ以上に熱っぽく、俺だけを捕らえて絶対に逃がさないというような、酷く甘い執着に満ちていた。


逃げ場のない視線に縫い留められ、俺は声も出せずに固まった。

そんな俺の様子を見て、伊織は満足そうにふっと口角を上げる。


「ねえ。夢の中のオレとのキスって……どうだった?」


「ど、どうって……っ」


「嫌だった?」


「へ……っ!?」


「気持ち悪かった?」


顔を覗き込むようにして、伊織が問い詰めてくる。

さっきまで俺を怯えさせていた冷たい怒りは欠片もなく、今の伊織は、完全に罠に嵌めた獲物を愛でるような顔をしていた。

その色素の薄い瞳が、俺の唇をじっと見つめている。


「そ、そんなこと、は……っ」


首を振ろうとして、声が掠れた。

気持ち悪かったなんて、口が裂けても言えない。

だって俺は、夢の中でキスされた時、伊織の肩に自分から手を伸ばそうとしてしまったのだから。


俺が言葉に詰まりながらも否定した瞬間。

伊織の目が細められ、ゾクッとするほど甘くて危険な光を帯びた。


「……へえ?そんなことないんだ」


「あっ……」


伊織の手が壁から離れ、俺の頬をそっと、けれど逃げられないようにしっかりと包み込む。

そのまま、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔を近づけて、伊織は酷く艶やかな声で囁いた。


「だったら、良いよね。正夢にしても」


「え……」


反論する隙なんて、一秒もなかった。

驚いて開いた俺の唇を塞ぐように、伊織の薄い唇が、重く、熱く重なった。

夢の中で感じた、柔らかくて熱い感触。

けれど、現実はそんな生易しいものじゃなかった。


「んっ……、っ」


驚きで開いたままになっていた唇の隙間から、伊織の舌が容赦なく滑り込んでくる。


(えっ、ちょ、舌……っ!?)


夢の中ではただ触れ合っただけだったのに。

現実の伊織は、五日間……いや、もっとずっと長い間溜め込んでいた感情のすべてをぶつけてくるみたいに、深く、貪るように俺の中をかき混ぜてきた。


「ん、ぁ……っ、いお、り……っ」


甘く痺れる感覚が背筋を駆け上がり、頭の芯が真っ白に飛んでいく。

息が上手くできなくて、本能的に逃げようと身を捩るけれど、伊織の手が俺の首筋から後頭部へと回り込まれて強く捕まれ、微塵も動けない。

もう片方の手は俺の腰を強く引き寄せ、逃げ場のない壁と伊織の体の間に完全に閉じ込められてしまう。


「は、ぁっ……んんっ……!」


吸い上げられ、絡めとられ、舌先が触れ合うたびに背骨が溶けそうなほどの熱が全身を駆け巡る。

立っていることすらできなくなって膝から崩れ落ちそうになった俺を、伊織の力強い腕がガッチリと抱き留めた。


「……は、っ、んぁ……っ」


「……絢人、あや、と……っ」


何度も角度を変えて、息継ぎの隙すら与えないほど深く、熱いキス。

唇の端から零れる俺の名前を呼ぶ伊織の声は、今まで聞いたことがないほど切羽詰まったように掠れていて。

それがからかいなんかじゃなく、どうしようもない『執着』の表れなんだと嫌でも分かってしまう。


俺はもう、抵抗するどころか、崩れ落ちないように伊織の広い肩に必死にすがりつくことしかできなかった。


◇


どれくらいそうしていただろうか。

永遠にも思えるような長い時間の後、チュッ、と最後に軽く音を立てて、ようやく伊織の唇が離れた。


「ぷぁっ、はぁっ、はぁっ、っ……!」


新鮮な空気を求めて、浅い呼吸を何度も繰り返す。

腰は完全に砕けきっていて、伊織の腕がなければそのまま床にへたり込んでいただろう。

視界が涙で潤んでチカチカする中、俺を抱き留める伊織を見上げると、あいつはひどく満ち足りたような、甘くとろけた瞳で俺を見つめ返してきた。


「っ……お前、し、しつこすぎるだろ……っ!」


酸欠で真っ赤になった顔のまま、俺は伊織の胸板を弱々しく叩いた。

精一杯の文句を言ってやったつもりなのに、声が情けないほど震えていて全く威厳がない。


「ごめん。でも、これでも足りないくらいなんだけど」


「ば、っ、バカかお前……っ!」


悪びれる様子など微塵もない伊織が、愛おしそうに目を細める。


「嫌だった?」


そんな心底嬉しそうな顔をされて、嫌だったなんて言えるはずがない。

というか、正直な話、嫌ではなかったのだ。


「ふふ。もし嫌だって言っても、もう逃がしてあげないけど」


伊織は俺の濡れた唇を長い指先で優しく拭いながら、これ以上ないくらい優しい声で囁いた。


「好きだよ、絢人」


「……っ!?」


好き。

伊織が、俺を。


いや、分かる。

流石に分かる、分からされたと言ってもいい。


あんなに情熱的に求められて、それでもまだ『こいつは葵のことが好きだ』なんて思うほど、俺も流石に馬鹿じゃない。


何故そうなったのかは分からないが、こいつが好きなのは、どうやら紛れもなく俺のようだ。


伊織から向けられるその感情が嫌かと言われれば、決してそんなことはなかった。

あの不純な夢の話をぶちまけた時、俺は絶対に「気持ち悪い」と軽蔑されて嫌われると覚悟していたのだ。

だからこそ、拒絶されるどころかあんなにも甘く受け入れられたことに、自分でも驚くほど深く安堵してしまった。

実際にキスをする夢だって見てしまったくらいだし、伊織に触れられるのは決して嫌ではなかった。


けれど、だからといって、伊織のことが好きかと言うと正直自分でも分からない。

俺の中にずっとあった『葵が好きだ』という想いが、綺麗さっぱり消え去ったわけではないのだ。


「……ごめん、俺はまだ、よく分からない……」


これが今の俺の嘘偽りない、精一杯の答えだった。

伊織が真っ直ぐに俺への気持ちを伝えてくれた分、誠実に答えなくてはいけないと思った。

この曖昧な答えが誠実かと言われれば、微妙なところではあるが。


すると、頭上からふっ、と優しく笑う声が聞こえた。


「分かってるよ、そんなこと」


「え……?」


「でも、オレに触られるのもキスされるのも、嫌なわけじゃないんでしょ?」


「……っ!!ま、まあ……一応……」


図星を突かれて真っ赤になり、言葉を失う俺を見て、伊織は満足そうに笑った。


「それで十分だよ。……今は、ね?」


その甘く危険な微笑みを見て、ああ、きっと俺は一生こいつから逃げられないのだろうと思った。

けれど不思議と恐怖はない。

むしろ、逃げ場のないこの腕の中を、心地よいとすら感じてしまっている自分がいるのだから、俺も相当馬鹿になっているらしい。

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