第16話 充電ペナルティ
空き教室を出て、二人で元の教室へと戻る。
まだ腰の辺りがフワフワしていて上手く歩けない俺を、伊織が腰を抱いて支えてきた。
さっきまでの恐ろしい執着が嘘のように、いつもの穏やかな伊織に戻っている。
ガラッ、と教室の扉を開けると、帰り支度を終えた葵が待っていた。
「あ、おかえりー!ふたりとも、ちゃんと仲直りできた?」
俺たちの姿を見るなり、葵がパッと花が咲いたような笑顔を向けてくる。
その屈託のない眩しさに、ついさっきまであんな濃厚なキスをされていたことが後ろめたくて、俺は思わず目を逸らしてしまった。
「うん、無事にね。ごめんね、葵。心配かけて」
「ううん、全然!よかったね、ふたりとも!」
心底嬉しそうに笑う葵に対し、伊織は俺の肩を引き寄せながら、やれやれと肩を竦めてみせた。
「ほんとごめんね。絢人が馬鹿だから、一人で勝手に勘違いして暴走してさ。ほんと、馬鹿だよねぇ。絢人って」
「なっ……!馬鹿馬鹿言うな!」
「あはは!いつもの二人に戻ってよかった!」
俺たちのやり取りを見て、葵が嬉しそうに笑う。
その無邪気な様子に、やっぱり葵は可愛いなあと心から思った。
……けれど。
それ以上に、俺の肩を抱く伊織の手のひらの熱を妙に感じて、落ち着かなかった。
◇
5日間に及ぶ俺の無駄な逃走劇を経て、ようやくいつもの日常が戻ってきた。
――そう、いつもの平和な日常が。
「だから!いい加減離せって!」
「今、充電中だからやだ」
「はあ? 充電?」
「そう。絢人にずっと無視されてて本気で辛かったから、今その分を補給してるの」
「う……っ」
背後から抱きついてくる腕に力を込められ、『無視されて辛かった』という部分を妙に強調して耳元で囁かれる。
それを言われると俺が弱いということを、こいつは完全に分かっててやっているのだ。
人の罪悪感を的確に抉ってくる計算高さが手に取るようにわかる。
けれど、俺が一方的に逃げ回って伊織を傷つけたのは紛れもない事実なわけで、そう言われてしまえば甘んじて受け入れるしかなかった。
「はあ……」
俺が抵抗を諦めて深いため息を吐くと、向かいの席で俺たちのやり取りを見ていた葵が、くすくすと笑い声を上げた。
「あはは、絢人の負けだね」
「っ、葵……!助けてくれよ……」
「ええ?うーん、しばらくは伊織の好きにさせてあげてもいいんじゃないかな?」
「あ、葵……!?」
まさかの見捨て宣言に目を見開く。
いや、でもよく考えれば、葵がそう言うのも無理はないのだ。
俺が伊織を避けていた5日間、あからさまに落ち込んで機嫌を悪くしていたこいつを一番近くで見ていたのは葵なのだから。
葵が伊織の味方をするのは当たり前だと言える。当たり前、なのだけど。
「う、裏切り者ぉ……」
「そうそう、葵はよく分かってるね。ってことで、これはオレを無視した罰。大人しく受け入れてよ」
言うが早いか、伊織は俺の背中にぴたりと胸板を密着させ、腰に回していた腕をさらに強く締め上げた。
「……っ、ちょ、おま……っ」
制服越しなのに、伊織の腕の熱がやけにリアルに伝わってくる。
さらに、抱きすくめるついでとばかりに、伊織の長い指先が俺のワイシャツの裾から滑り込み、脇腹のあたりをこれ見よがしにゆっくりと撫で上げた。
ビクッ、と背筋が跳ねる。
触れられた肌が、こいつの体温以上に熱く感じて頭が真っ白になった。
日常に戻ったと思っていたけれど、実際には何も戻ってなどいないのだ。
以前の俺なら、伊織がこんな風に触れてくるのはただの過剰なスキンシップで、からかわれているだけだと思っていた。
けれど今は違う。知ってしまっている。
『好きだよ、絢人』
こいつが、俺に対して明確な執着と好意を持っているということを。
「……から……」
「ん?何、絢人。そろそろ観念して――」
「恥ずかしいから、やめろよ……っ」
耐えきれずに伊織の方を振り返り、俺は真っ赤になった顔で睨みつけるように懇願した。
こんな風に弱音を吐いて頼み込む自分が情けないと分かっていつつも、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
こんなクラスメイトが大勢いる教室のど真ん中で、これ以上変なところを触られたらたまったものではない。
どうせこの懇願も「自業自得でしょ」と鼻で笑われて却下されるに決まっている。
そう分かっていても、言わずにはいられなかった。
――けれど。
予想に反して、伊織は弾かれたようにパッと俺から手を離した。
「……え?」
拘束が解かれ、驚いて振り返ると、伊織は片手で自分の口元をギュッと覆い、俺から顔を逸らすようにして立ち尽くしていた。
いつもは涼しい顔をしている耳の先まで、じんわりと赤く染まっているのが見える。
「……今のは、反則でしょ……」
口元を覆った指の隙間から、ひどく掠れた、ぼそりとした呟きが漏れた。
なんだかよく分からないが、俺の「恥ずかしいからやめてくれ」という希望は無事に通ったらしい。
俺はホッと胸を撫で下ろしながら、急に大人しくなった伊織を不思議な気持ちで見つめ返していた。
◇
放課後。
月に一度の美化委員の集まりでのことだ。
割り当てられたプリント整理の仕事をこなしていると、ふと、一緒に作業をしていた同じ委員会の女子が手を止めてこちらを見た。
「ねえ。桃野江くんと葛町くんって、付き合ってるの?」
突然投げられたその爆弾のような言葉に、俺はプリントを持ったまま文字通り凍りついた。
「え、えっ?な、何言ってるんだよ」
声が裏返る。赤くなっていいのか青くなっていいのか分からない。
実際、俺は今どんな顔をしているのだろうか。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っている。
「あ、ごめんごめん、冗談!最近いっつも二人がひっついてるから、ついね!」
女子生徒がケラケラと笑いながら手を振った。
(な、なんだ……冗談か)
「んだよ、変なからかい方すんなよ〜」
俺はホッと息を吐き出し、どうにかいつもの軽口で返した。
実際、伊織が俺にひっついてくる時、周りの奴らがチラチラと見てくるのは知っていた。
ただ、最初こそ「どういうことだ?」と驚きの混じった視線ばかりだったが、伊織があまりにも堂々とスキンシップを取ってくるせいで、最近では『あれが日常』だと言わんばかりの生温かい視線に変わってきているのを感じていた。
「でもさあ、葛町くん変わったよね。前はどっちかっていうと、雪本くんばっかり構ってた気がするけど」
「ああ……なんつーか、あいつは基本周りに対してドライだけど、一度気に入ると一直線なタイプだからな」
「なるほどねえ。今は桃野江くん一直線なんだ」
「え?いや、今のはただの例えっつーか……」
俺が慌てて訂正しようとすると、彼女は手元のプリントを揃えながら、ぽつりとこぼした。
「でも、なんか葛町くん、前より今のほうが幸せそうっていうか、楽しそうだよね」
「……え?」
その言葉に、俺は思わず動きを止めた。
前より、楽しそう。
そう言われて、すっと腑に落ちるものがあった。
あいつはずっと、葵に対して報われない片思いをして、必死に自分を押し殺していたのだ。
好きだという本音を隠し、届かない想いをごまかすために適当な女の子と遊んで、虚しく自分をすり減らしていた。
けれど今の伊織は、俺に対して自分を偽ることなく、真っ直ぐな想いをぶつけてきている。
だからこそ、周りから見ても一目瞭然なほど、以前よりもずっと楽しそうで、生き生きとして見えるのだろう。
俺に気持ちを向けることで、あいつが少しでも救われているのであれば。
それをなんだか……少しだけ、嬉しいと思ってしまった。
……とはいえ。
その想いを「分かりました」とあっさり受け入れるかというと、それは全く別の問題なわけで。
「……どうすりゃ良いんだろうな……」
誰にも聞こえないくらいの声でぽつりとそう零し、小さくため息を吐いた。
答えは依然として見つかっていない。
けれど、ただ一つ、確かなことは。
『諦めたいから適当な女の子で気を紛らわせてるだけ。……まあ結局、誰といてもあんまり効果はないんだけど』
そう言った時の、空虚な声と目を思い出す。
もうあんな顔はさせたくないということだった。




