第17話 「一回」の定義
「はあー、お腹いっぱい……」
昼休み。
今日は葵が「嶋坂さんとお昼食べてくる」と少し照れくさそうに教室を出ていったため、俺は伊織と二人で昼食をとることになった。
せっかくなら外で食べようぜ、と俺が提案し、人が滅多に来ない屋外の非常階段の踊り場に腰を下ろして弁当を平らげたところだ。
冬の冷たい風が心地よく、日差しもあって悪くない場所だった。
「ごちそうさま。絢人、口元にご飯粒ついてるよ」
「え、マジ?」
俺が手で探ろうとした瞬間、ふいに伊織の白くて長い指先が俺の頬に触れた。
すっと親指の腹で口の端を拭われ、そのまま伊織の指が俺の唇の輪郭をなぞるようにゆっくりと滑る。
びくっ、と肩が跳ねた。
ただご飯粒を取ってくれただけのはずなのに、違う意味にも取れるような触れ方に、一気に顔に熱が集まるのがわかった。
「……とれた?」
「うん」
答えると同時に、伊織は指先についた俺のご飯粒をなんの躊躇いもなく自分の口へと運んだ。
「なっ……!そ、そんなの食うなよ……!」
「ん?別にいいでしょ」
ご飯粒を取り終わったはずなのに、伊織は一向に身体を戻そうとしない。
お互いの息がかかりそうなほど距離が近く、その色素の薄い瞳が、逃げ場を塞ぐように俺をじっと射抜いている。
「……ねえ、絢人」
「な、なんだよ……」
「……キス、していい?」
「は!?」
あまりにも唐突な言葉に、俺は弾かれたように身を引いた。
いや、引こうとしたが、背中がすぐに冷たい手すりにぶつかってしまう。
「と、突然なにいって……!」
「だめ?」
「だ、だめに決まってんだろ!」
俺が真っ赤になって叫ぶと、伊織はわずかに目を細め、さらに顔を近づけてきた。
ふわりと甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「どうしても?」
伊織のひどく真剣で熱っぽい瞳が俺を射抜く。
あまりの圧に心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、俺の口からは苦し紛れの防御線が飛び出した。
「つ、付き合ってもいないのに、き、キス……なんて、出来るわけないだろ!」
これ以上ない正論のはずだった。
だが、伊織は痛くも痒くもないといった様子で、さらりと事実を突きつけてくる。
「もうしたじゃん」
「あっあれは……!」
確かにそうだけど……、って、いやいや流されるな俺!
「っつーか、俺言ったよな?!まだよく分からないって!お前も今はそれで良いみたいなこと……」
「うん、言ったよ」
伊織は悪びれる様子もなく、ふっと蠱惑的な笑みを唇に浮かべた。
その整った顔に浮かんだ危険な色気に、背筋がゾクッとする。
「でもオレ、『誘惑しない』とは一言も言ってないよね」
「ゆっ、誘惑……!?」
「そ。オレに誘惑されてよ、絢人」
完全に予想外の角度からの反撃に、俺はパクパクと金魚のように口を開閉させることしかできない。ずるい。そんな理屈があるか。
「そ、そもそもここ外だし、誰か来るかもしれないし……!」
「じゃあ、誰も来ないところならいいの?」
「そういう意味じゃな……っひっ?!」
首筋にそっと手を添えられ、親指でうなじを優しく撫でられる。
ぞくぞくと背筋を這い上がるような甘い痺れに、俺の抵抗する気力はみるみるうちに削られていった。
俺が動揺していると、伊織はふと視線を伏せ、少しだけ寂しそうな、ひどく脆い声を出した。
「……それとも、やっぱり葵みたいに可愛くないとダメ?」
「っ!」
その声は、いつもの飄々とした伊織からは想像もつかないほど、微かに震えて弱々しかった。
自分は葵には敵わないと、まるでそう言っているようで。
(くそ……、こんな弱気な顔されたら……)
駄目だと分かっているのに、伊織のこんな様子を見せられるとどうしても抗いきれなかった。
いつの間に俺はこんなにも伊織に弱くなってしまったのだろう。
「……っ」
「……」
「……い、一回、だけ……だぞ」
ギリッと目を瞑り、俺はついに蚊の鳴くような声で白旗を上げた。
静寂。
待てど暮らせど、何もしてこない伊織を不思議に思い、恐る恐る薄目を開けると――伊織は目を丸くして、ポカンと俺を見つめていた。
「……いいの?ほんとに?」
「っ、お前が言い出したんだろ!」
「いや、だって……ほんとに『いい』って言われるとは思わなくて」
「はぁ?!」
(こいつ……っ!)
からかわれたような、自分から恥ずかしい許可を出してしまった気恥ずかしさで、カッと顔が熱くなる。
「だ、だったらやっぱ無しだ!今の無し!」
たまらずプイッと顔を背けようとしたが、すぐさま両手で頬を挟まれ、強制的に正面へと戻された。
「駄目。一度『いい』って言ったんだから、ちゃんと自分の発言には責任持たないとね?絢人」
「……っ」
反論してやりたかったが、確かに一度頷いてしまった手前、今さら取り消すこともできなくて、俺は渋々言い返すのを諦めた。
伊織の顔にはいつもの余裕ぶった、けれどひどく嬉しそうな笑みが戻っていた。
「……でもさあ、嬉しいには嬉しいけど、ちょっと絢人ちょろ過ぎない?」
「なっ!」
断ればしつこく食い下がってくるくせに、いざ許可したらしたでこんな風に言われるなんて、心外にもほどがある。
「だって、こんな簡単に絆されちゃってさあ。他のやつに言い寄られた時も、そのまま流されちゃいそうで心配なんだけど」
からかうような、それでいて少し不機嫌そうな伊織の声色に、俺はカチンときて思わず声を張り上げた。
「あるわけないだろそんなこと!」
「えー、でも絢人ってほんと無防備で……」
「お前以外とするつもりなんてねえよバカ!」
「……え?」
伊織の動きが、ピタリと止まった。
「……あ」
俺も、自分の口から飛び出した言葉の意味を、一拍遅れて理解した。
静まり返る非常階段。
冬の風の音だけがやけに大きく聞こえる。
お前、以外と。
つまりそれは。
(……いま俺、なにを言った……!?)
顔から火が出るどころの騒ぎではない。
全身の血液が一気に沸騰したような感覚に陥り、俺は真っ赤な顔のまま、限界まで目を見開いている伊織と見つめ合ったまま硬直した。
一秒、二秒。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、俺たちの間だけが異常な熱を帯びて静まり返る。
やがて、伊織の大きく見開かれていた瞳が、ゆっくりと、ひどく甘く眇められた。
いつもの余裕ぶった嘲笑でも、計算高い作り笑いでもない。
獲物を完全に追い詰めた肉食獣のような、それでいて、今にも泣き出しそうなくらいの歓喜に満ちた、危険な笑顔だった。
「……へえ」
「あ、いや!ちがっ!今のは言葉のあやっつーか!」
俺は慌てて手すりから背中を離し、ブンブンと両手を振って必死に弁解しようとした。
けれど、伊織は逃がしてくれなかった。
ドンッ、と。
伊織の両腕が俺の顔の横を塞ぐように手すりにつかれ、完全に退路を断たれる。
「ち、近いって、伊織……っ!」
「オレ以外とは、しないんだ?」
「〜〜〜ッ!お、お前以外に俺にこんなことする奴なんかいねえんだよ!」
「そうじゃないでしょ?」
至近距離で覗き込んでくる色素の薄い瞳には、一切の逃げ道を許さない仄暗い執着が渦巻いている。
「オレ以外とは、したくないってことでしょ?違う?」
「……っ」
図星を突かれて言葉に詰まり、ついに何も反論できなくなった俺を見て、伊織は「ふふっ」と声に出して笑った。
そして、逃げ場のない俺の頬を両手でそっと包み込むと、甘く囁く。
「ねえ。1回って、唇を離すまでだよね?」
「え? ……んっ!?」
突然、あっさりと唇を塞がれた。
「んんっ……!」
冬の冷たい空気の中で、密着した唇だけがひどく熱い。
伊織は言葉通り、本当に一度も唇を離さなかった。
俺が驚いて息を呑んだわずかな隙をつき、触れ合うだけのキスから、そのまま滑り込んできた舌が口内を深く侵食してくる。
「んっ……ぁ、や……っ」
唇を重ねたまま、ちゅっ、と甘く卑猥な水音が響く。
息継ぎすら許されないほど執拗に、それでいて溶かされるように優しく舌を絡められ、俺の頭の中からまともな思考が根こそぎ奪われていく。
背中に回された腕が俺の腰を強く引き寄せ、伊織の体温と香水の匂いが全身をすっぽりと包み込んだ。
(……ああ、俺、本当にこいつに絆されてる……)
抗議しようと伊織の胸ぐらを掴んだ手は、いつの間にか力なくその服の生地を握りしめているだけになっていた。
もう、ただの友達だとか、勘違いだとか、そんな言い訳で逃げ切れる段階は、とうの昔に過ぎてしまっていたらしい。
◇
どれくらいそうしていただろうか。
酸欠で頭が真っ白になりかけた頃、ようやく、ちゅっ、と名残惜しそうな水音を立てて伊織の唇が離れた。
「ぷはっ……、はぁっ、はあっ……!」
新鮮な空気を求めて大きく肩で息をする俺は、すっかり足の力が抜け、手すりを背にしてぐったりと崩れそうになっていた。
それを、伊織の腕がしっかりと腰を抱え込んで支えている。
「……大丈夫?絢人」
息一つ乱していない事も無げな声に、俺は潤んだ目元のまま、弱々しく伊織を睨みつけた。
「はぁっ……、長……いんだよ、この……ばか……っ」
「でも『1回』、だったでしょ?」
悪びれるどころか、心底嬉しそうに目を細めて笑う伊織。
本当に憎たらしい男だ。
理不尽で強引で、口では一生勝てる気がしない。
けれど、それでも本気で突き飛ばすことができない自分が、一番腹立たしくて、どうしようもなかった。
◇
息が整ってきたタイミングで、俺はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「なあ、お前ってさ、一体俺のどこが好きなんだよ」
「……ん?」
俺がそう尋ねると、伊織はきょとんとして瞬きをする。
いつの間にか好意を持たれていた。
そう、いつからなのか、どうしてなのか、俺には全然分からないのだ。
「やっぱり、葵への気持ちを隠してる同志としてそこから……」
「うん、全然違うね」
食い気味に、しかも笑顔であっさりと否定された。
仲間意識からじわじわと情が湧いたのかとも思ったれけど、どうやら違うらしい。
ますます分からない。
「前にも言ったけど、最初はオレ、絢人のことただの能天気バカだと思ってたんだよ」
「う……っ」
確かに前にもそう言われた。否定できないのが悔しい。
「でも、泣いてる顔見たら、こんな顔もするんだって思って」
「……言ってたな。ほんと、今聞いても俺のことなんだと思って……」
「もっと見たいなって、思ったんだよね。ああいう顔」
「……へ?」
なんだって?
「ぐちゃぐちゃの顔が可愛くて、ちょっとゾクゾクしちゃってさあ」
「ひぇ……っ」
その整った顔に浮かんだ嗜虐的な笑みに、思わず怯えた声が出る。
いや、ちょっと待てよ。
そういえばこいつ、確かに俺が泣いた時、顔をじっと見てきて『面白い』って言ってたな。
泣かなかった時にも『いや、今日は泣かないのかなって』って……。
言ってた。
確かに言ってたぞ、こいつ。
俺は思わず、恐ろしいものでも見るような目で伊織を見ながら、じりっと身を引いた。
「ちょっと、ドン引きしないでよ」
「いや引くだろ! お前まさか、葵にもそんなこと思ってるんじゃ……」
「まさか。葵のことは心から大切に思ってるよ、今も昔もね。泣き顔なんて絶対見たくないし、自分も含めて、泣かせる奴は許さない」
即座に、きっぱりと否定される。
その声には一切の淀みがなく、伊織が葵をどれだけ大事に想っているかが痛いほど伝わってきた。
「ならいいけど……っていや!やっぱよくない!葵と俺で扱い違いすぎないか!?」
「そんな事言われてもなあ。オレ、絢人の困った顔すきなんだよね」
「ふざけんな!」
抗議する俺をよそに、伊織がずい、と顔を近づけてきた。
「ちょ、おい、なんだよ突然」
「ふふ、こうやってオレの言葉に一喜一憂する絢人、最高に可愛い」
「っ、俺で遊ぶな!」
「どうしようかなぁ」
文句を言い返そうと口を開いた瞬間。
ちゅ、と。
重なったのはほんの一瞬、触れるだけの軽いキスだった。
「な……っ」
「あは、真っ赤」
あまりにも突然の不意打ちに、俺は目を見開いたまま完全にフリーズしてしまった。
明らかなからかいの笑みを浮かべる伊織に、腹が立って二の句が継げない。
(……ん?っていうか、今……)
一拍、いや二拍ほど遅れて、ようやく今の状況が脳に追いついてきた。
こいつ、今。
「おま……っ! ついに許可取らずにやりやがったな……!?」
「ああ、ごめんね。つい我慢できなくてさ」
言葉とは裏腹に、まったく悪びれる様子のない伊織が、楽しそうに目を細めて笑う。
相変わらず飄々としていて、ずる賢くて、俺の扱いを完全に心得ている。
また丸め込まれた。
そう思って唇を噛んだ俺に、伊織はふと声のトーンを落とした。
「ああ、でもね、絢人」
「……なんだよ」
「傷つけたいわけじゃないんだ。だからオレが無視した時、絢人にあんな顔させちゃった時のことは、反省してるよ」
「!」
――ああ。
それは、伊織との関係が俺の一方的なものだったと思って、諦めようと思った時のことだろう。
『……なんで、そんな顔してんの』
確かにあの時の伊織は、ひどく困惑していた。
今思えば、俺が傷ついたのと同じくらい、いやそれ以上に、伊織自身も傷ついているように見えた気がする。
「……ふふ。でもちょっと嬉しかったんだよね。オレの為に絢人があんなに必死になってくれてさ」
「おまえな……」
「でも、あんな風にされたらさ、好きになっちゃうのは当たり前でしょ?」
「は?」
確かに必死ではあった、あったけれど。
当たり前ではなくないか?
「あれで好きになったっていうのか?」
「え、うーん?そう言われると、そういうわけでもないかな。少しずつの積み重ねっていうか」
伊織は少し考えるように視線を彷徨わせた後、真っ直ぐに俺を見た。
「正直、いつから好きなのかはオレにも分からないし、『ここが明確に好き』って一言では言えないんだよね。……もしかしてこれじゃ、オレが絢人を好きだってあんまり伝わらないかな?」
「……いや、もう十分です」
「あはは、なんで敬語?」
小さく笑う伊織を見つめながら、俺は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
つまり。ようするにこいつは。
他ならぬ俺の、誰にも見せたくないようなカッコ悪いところや、感情任せのぐちゃぐちゃな内面までもを、丸ごと全部好きになってくれたということなのだ。
理由なんて一言で表せないくらい、……俺のあらゆる面を好きだと。そう言われたも同然だった。
(くそ……、聞くんじゃなかった)
カッと顔が熱くなる。
伊織の少し歪んだ感情も、真っ直ぐでひたむきな愛情も、振り回される理不尽ささえも。
全て『嬉しい』と、そう思ってしまう自分を、否定出来なかった。
伊織の熱が、少しずつ、けれど確実に俺の心を溶かし切ろうとしている。
それは確かな予感で。
ーーーもうすぐで、俺の中の『答え』が出る気がした。




