第8話 輪郭
放課後の教室で俺たちが帰りの支度をしていると、入り口から「雪本くん、ちょっといいかな」と控えめな女子の声がした。
「あれ、高橋さんだ」
「知り合い?」
「ああうん、図書委員会で一緒の子。ごめん、ちょっと行ってくるね」
少し申し訳なさそうに小走りで教室を出ていく葵の背中を見送りながら、俺はいつものように明るい声を張り上げた。
「おっ、モテ期到来じゃん!しっかり話聞いてこいよー!」
心の奥がギリギリと嫌な音を立てて軋むのを必死に無視し、ただひたすらに「物わかりの良い親友」の顔を作って。
葵の姿が見えなくなり、顔に張りついた笑顔をようやく下ろそうとした、その時だった。
「……絢人さあ」
すぐ隣から聞こえた、ひどく冷ややかな声。
振り返ると、鞄を肩にかけた伊織が、氷のように冷たい瞳で俺を見下ろしていた。
「その吐き気のする愛想笑い、やめなよ」
「……は?」
「見ててキモいって言ってんの」
「キモ……ッ!?」
あまりにも容赦のない言葉に、俺は息を呑む。
伊織は一歩俺に近づき、明確な苛立ちを込めた低い声で続けた。
「馬鹿みたいに笑ってさ、無理してんのバレバレなんだけど。絢人のそういうとこ、見ててイライラするんだよね」
伊織の言葉が、俺の急所を的確に抉ってくる。
『本当は嫉妬で狂いそうなくせに、なんで綺麗事並べて笑ってんだよ』と、その目が俺を責め立てていた。
ギリッと、奥歯を強く噛み締める。
ずっと必死に押し殺してきた本音を土足で踏み躙られ、どうしようもない惨めさと怒りが込み上げてきた。
このままでは酷い言葉を浴びせてしまう。
俺は無言で鞄を掴み、すたすたと教室の扉へと向かった。
「は?ちょっと……」
背後から伊織の僅かに動揺した声が聞こえた。けれど、振り向かずに教室を出る。
なんでそこまで言われなければならないんだ。
そう憤りながら廊下を歩いていると、突然腕を掴まれ、そのまま空き教室の中へと引きずり込まれた。
「……っ!?な、だ、誰……」
驚いて振り返ると、腕を掴んでいたのは伊織だった。
どうやら追いかけてきたらしい。
「……なんだよ」
「急に、行くことないじゃん」
その言葉に思わずカッとなる。
「お前があんなこと言ってくるからだろ!愛想笑いするなだの、見ててキモいだの!」
「それは……だってほんとのことだし」
悪びれないその言葉に怒りが湧く。
「だったら……」
震える声が、口から漏れる。
「だったら、どうしろっていうんだよ……っ!」
怒鳴った瞬間、目頭がカッと熱くなるのを感じた。
瞬きをした途端、ぼろりと涙がこぼれ落ちる。
(ヤバ、なんか涙が勝手に……っ)
慌てて手の甲で目元を拭うが、一度堰を切った涙は次から次へと溢れて止まらない。
(くそ、なんでこんなことで……)
自分があまりにも情けなくて、唇を噛み締めながらも俺は伊織を睨み返し、声を振り絞った。
「だって、笑うしか、ないだろ……っ」
「……」
「顔に出したって、葵を困らせるだけじゃねえか……っ!」
一番近くにいたい。
でも、絶対に恋人にはなれない。
自分のこの醜い独占欲を少しでも見せれば、優しい葵は困惑し、今の関係すら壊れてしまう。
だからこそ、笑うしかないのだ。
静まり返った教室に、俺の情けない鼻をすする音だけが響く。
痛いところを突かれて泣き出した俺を、伊織はいつものように鼻で笑って見下すのだろう。
そう思って俯いていた、その時。
「……はは」
頭上から、小さく息を漏らすような笑い声が降ってきた。
俺は弾かれたように顔を上げた。
「何笑ってんだよ……!」
俺が湿った声で睨みつけると、伊織はわずかに目を丸くした後、ふっと口元を緩めた。
「ああ、ごめん」
それは、いつもの冷ややかな嘲笑ではなかった。
「なんか絢人が無理して笑ってんの見るとイライラするんだよね」
「そんなこと言われたって」
「だから、無理して笑ってるあほ面よりは、こっちの方がいいと思って」
「……え?」
思いがけない言葉に、俺は呆然と伊織を見つめ返した。
それはまさかつまり、こいつは俺を心配してくれていたのだろうか。
無理している自分に対して、無理をするなと、そう言ってくれているのか?
ずっと、誰に対しても人当たり良く、悩みのない「いい奴」として振る舞ってきた。
それが一番波風を立てないし、周りもそういう俺を求めていると思っていたから。
こんな嫉妬に狂った醜い本音や、みっともない泣き顔を見せても、「こっちの方がいい」と誰かに言われるなんて思いもしなかった。
伊織の優しさを感じて、少しだけ心が落ち着いていく。
けれど今度は、こんなぐちゃぐちゃの泣き顔をまじまじと見られているということに今更ながら気づき、急激に羞恥心が込み上げてきた。
「……っ、俺は嫌だよ、こんな顔見られんの」
俺は顔を背け、手のひらで乱暴に涙を拭った。
耳の裏までカッと熱くなっているのが自分でもわかる。
言い返してこない伊織を不審に思い、そっと視線だけを戻す。
すると、伊織は何も言わず、ただ静かな瞳で俺の赤くなった顔をじっと見つめていた。
そこに、いつもの人を食ったような嘲笑や、からかう色は一切ない。
その真顔が余計に居心地悪くて、俺は思わず声を荒らげた。
「……っ、何見てんだよ!嫌だっつってんだろ!」
「んー、面白いなぁと思って」
「はあ?!見世物じゃねえよ!」
俺が背を向けて袖口でゴシゴシと乱暴に目を擦っていると、背後から伊織が小さく息を吐く音が聞こえた。
「……目、赤くなるよ。それ以上擦ったら、葵にバレるけどいいの」
淡々とした、どこか呆れたような声。
伊織はそれ以上俺を追い詰めることはなく、すっと窓の外へと視線を外してくれた。
「葵が戻ってくるまで、まだかかりそうだし。顔、洗ってきたら?」
冷たいのか優しいのかわからないその響きに、俺は毒づく気力も失せて、ただ「……わかってるよ」と小さく返すことしかできなかった。
◇
――なんだろうな。
最近少しだけ気になることがある。
そう、絢人の存在だ。
昔からオレは、葵さえいればそれで良かった。
葵は優しすぎて、誰かのために平気で自分が損をするような危なっかしいところがあった。
小学生の時だったか。いじめられていたクラスメイトを庇って、代わりに傷だらけになったことがあった。
自分が怪我をしたことなどそっちのけで、「あの子が怪我しなくてよかった」とへにゃりと笑う葵を見た時、オレの胸の奥で何かが決定的に形を変えた。
別に自分が守られたわけではなかったけれど。
それでも、葵の純粋すぎる優しさに幼いオレはひどく心を揺さぶられた。
自分よりも他人を優先するなんて、そんな人間がいるとは思ってもいなかったのだ。
だったら、この子のことはオレが守ってあげなくちゃ。
葵が自分を顧みずに誰かの為に傷つくのなら、葵が傷つかないように、オレが傍で守ってあげようと、そう心に誓った。
オレがずっと隣にいて、この無防備な優しさに付け込む連中から遠ざけてあげなくちゃと。
それからはずっと、葵の隣を誰にも譲らず、男女問わず邪魔な人間をうまく排除してきた。
それなのに、高校に入ってから、葵は急に絢人と仲良くなった。
とはいえ、見るからに人畜無害そうな、底抜けに明るいただの馬鹿。
オレの執着に気づく様子もなく、ただ無邪気に葵に懐いているだけの存在。
葵に害をなすことも、オレにとって脅威になることもない。
わざわざ意識を向ける必要すらなかった。
だから放っておいた。
絢人が葵に好意を持っている以上、いざという時には葵を守る防波堤としてもそこそこ使えるだろう。
オレにとって絢人という人間は、ただそれだけの、葵の隣でヘラヘラと笑っているだけの存在だったのだ。
……そのはずだったのに。
『顔に出したって、葵を困らせるだけじゃねえか……っ!』
脳裏に焼き付いているのは、あのぐちゃぐちゃな泣き顔だ。
先日、踊り場ではじめて絢人の泣き顔を見た時も、正直かなり驚かされた。
いつも何も考えていなさそうな顔で笑っていたくせに、本当はあんな一面も持っていたのかと。
普通に考えれば、当たり前のことなのかもしれない。
けれど、オレにとっての絢人はほとんど背景の一部でしかなかった。
笑っている顔しか知らなかったのではない。
そもそも、その奥に何があるのかなんて考えたことすらなかったのだ。
それなのに今は、あいつの泣き顔ばかりが妙に鮮明に頭に残っている。
限界まで無理をして、本当はオレと同じくらい醜い感情を抱え込んで。
それを見透かされて、子供みたいにぼろぼろと涙をこぼして。
『俺は嫌だよ、こんな顔見られんの』
赤くなった目元を乱暴に擦って顔を背けたあの姿が、なぜだか頭から離れない。
ただの馬鹿だと思っていた男の生々しい感情に触れて、オレの中の何かがおかしくなっている気がする。
……いや、それ以前に。
あいつの、吐き気のするような愛想笑いも。
オレのことなんて放っておけばいいのに、わざわざ口出ししてくる鬱陶しいお節介も。
葵の隣で笑う絢人の姿も。
やけに鮮明な輪郭を持って目に入ってくるのだ。
いつもなら、視界の端に映ったところで、意識に留めることさえなかったはずなのに。
もう一度、絢人のぐちゃぐちゃで、可哀想で、惨めな姿が思い浮かんだ。
その瞬間、胸の奥を、名前のつかない仄暗い感情がほんの一瞬だけ掠めていった。




