第7話 同じ穴の狢
あの日を境に、俺たち三人の関係はほんの少しだけ形を変えた。
いや、葵から見れば今まで通りの「仲のいい三人組」のままなのだろう。
けれど、俺と伊織の間には、確かな変化があった。
数日後の、昼休み。
いつものように三人で机を寄せ合わせ、昼食をとっていた時のことだ。
「んーっ、今日のお弁当の卵焼き、すっごく美味しい!」
「へえ、よかったね。……あ、葵、口の端にケチャップついてる」
「えっ、ほんと?」
伊織は自分の弁当箱を置き、ごく自然な動作で指を伸ばすと、葵の口元についたケチャップを優しく拭い取った。
そのまま自分の指についたそれをペロリと舐めとる伊織に、葵は「わっ、ごめん伊織!汚いよ!」と慌てて照れ笑いしている。
(相変わらず、葵には激甘だな……)
過保護すぎる伊織の振る舞いも、あの底知れない執着の表れだと知ってからは、嫉妬よりも呆れの感情の方が強かった。
俺は手元のコンビニパンをかじりながら、いつものように明るい声を出す。
「伊織って葵の母親みたいだよな」
わざとらしく茶化して笑う。
いつもなら、伊織は俺の言葉など無視するか、「うるさい」と冷たくあしらうところだ。
けれど。
「……別に。葵がどんくさいだけだし」
伊織は気怠げにそう返すと、ふと視線をこちらに向けた。
俺の手元にある、パサパサのコンビニパンと紙パックのお茶。
伊織はそれを見て、わずかに呆れたように息を吐いた。
「絢人ってさ、ほんと毎日そういう適当な飯ばっかだよね。見てるこっちが胃もたれしそう」
「うっ、ほっとけ!今日は寝坊して弁当作る時間なかったんだよ!」
痛いところを突かれてムキになると、伊織はふっと口角を上げ、自分の立派な弁当箱から唐揚げをひょいっと一つ摘み上げた。
そして、そのまま俺の買ってきたパンの袋の上に、ぽいっと無造作に落とす。
「え?」
「あげる。多すぎて食べきれないし」
俺が目を丸くして伊織を見ると、伊織はもうこちらには興味がないとでも言うように、頬杖をついてそっぽを向いていた。
「えっ、いいの!?伊織、唐揚げ好きなのに!
」
「いいの。……そいつ、うるさい犬みたいに物欲しそうな顔して見てたから」
「そんな顔してねえよ!っつーか誰が犬だ!」
俺が文句を言いながらも唐揚げを口に放り込むと、葵が「あはは、絢人よかったね」と嬉しそうに笑った。
(……なんだよ、アイツ)
今までなら、俺に自分の弁当のおかずを分けるなんて絶対にありえないことだった。
相変わらず態度は憎たらしいし、視線の先は常に葵を追いかけているけれど。
それでも、唐揚げを一つ恵んでくれた伊織の横顔には、以前のような冷たい拒絶の壁はなくなっていた。
俺たちの抱えている感情は、相変わらず重くて、どうしようもない泥沼のままだ。
けれど、こうして不器用に構ってくる伊織の姿を見ていると、この歪な日常も、案外悪くないんじゃないかと思えてた。
◇
放課後。
「あ、日誌出し忘れてた!ちょっと職員室に行ってくるね」
そう言って葵が席を立ち、教室には俺と伊織だけが残された。
以前の俺なら、葵がいない空間で伊織と二人きりになるなんて、気まずくて耐えられなかっただろう。
けれど今は、ほんの少しだけ違う。
「……お前、葵の後ろ姿見すぎだろ」
俺が呆れたように声をかけると、伊織は頬杖をついたまま、視線だけをこちらによこした。
「絢人だって見てたくせに」
「うっ……!お、俺はただ、早く帰ってこないかなって……!」
「はいはい。そういうことにしておいてあげる」
伊織は鼻で笑うと、手元のシャーペンをくるくると回した。
葵がいないというのに、会話は思いのほか自然に続いている。
以前なら考えられなかったことだ。
「……あーあ、今日の数学の課題、全然終わってねえ」
俺が机に広げたプリントを見て盛大にため息をつくと、伊織が面倒くさそうに目を細めた。
「授業中寝てばっかいるからでしょ」
「な!なんで知ってんだよ!……仕方ないだろ、先生の声聞いてると自然に眠くなるんだよ」
伊織は短く息を吐いて、自分の席からすっと立ち上がった。
そして、俺の隣の席――さっきまで葵が座っていた椅子に、ごく自然に腰を下ろしたのだ。
「え……?」
「貸して」
伊織は俺の手からシャーペンを抜き取ると、俺のプリントを引き寄せた。
「ここ、公式当てはめるだけじゃん。なんでこんなのもわかんないの」
「……教えてくれんの!?」
驚いて目を丸くする俺に、伊織は氷のように冷ややかな、けれどどこか呆れたような視線を向けた。
「勘違いしないで。絢人が居残りで補習なんてことになったら、葵が『俺も残る!』とか言い出して面倒なことになるから。……葵の時間を無駄にさせないための、ただの予防策」
口から出る言葉は相変わらず葵のことばかりで、素直さの欠片もない。
けれど、そう言いながらも、伊織の教え方は驚くほど丁寧で、プリントを指さす白い指先は俺のペースに合わせてゆっくりと動いていた。
「……サンキュ」
俺が小さく呟くと、伊織は「集中して」と短く返しただけだった。
相変わらず冷たくて、葵至上主義で、素直じゃない。
それでも、隣から聞こえる柔らかく低い声と、俺を見捨てずに構ってくれるその不器用な優しさに、俺は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
◇
「……だから、ここで公式に代入してマイナスになるわけ。わかった?」
「あ、なるほど……!お前教えるの上手いな」
伊織は学年でいつも10位以内に入るくらいには頭が良い。
それでいて顔もいいのだ、女の子にモテるのも当然と言える。
「絢人が普段いかに何も考えずに生きてるかってだけでしょ」
「言い過ぎだろ!」
相変わらずの毒舌に俺が口を尖らせた、その時。
「ただいまー!ごめん、先生の話長くなっちゃって……えっ?」
ガラッと教室の前扉が開き、日誌を抱えた葵が小走りで戻ってきた。
そして、自分の席に座る伊織と、その隣で身を乗り出すようにプリントを覗き込んでいる俺の姿を見て、パチリと目を丸くした。
「……伊織が、絢人に勉強教えてる……!?」
まるで珍獣でも見るかのような葵の反応だ。
それはそうなるだろう。
俺だってこの状況に驚いたのだから。
「おかえり葵!」
「おかえり、葵。早かったね」
伊織はゆっくりと顔を上げる。
ついさっきまで俺に向けていた呆れ顔は嘘のように消え去り、葵を見た瞬間に、その端正な顔が甘く柔らかい微笑みに溶ける。
(……ほんっと、葵にだけは甘いよな)
わかりやすすぎる態度の急変に俺が内心で呆れていると、伊織はすっと立ち上がり、本来の持ち主である葵に席を譲った。
「絢人が終わらないって騒ぐからさ。放っておいたら、葵も待たされるだろうし、仕方なく、ね」
「はいはい、すみませんね」
俺がふてくされた返事をすると、葵は目を瞬かせた後、ふにゃりと嬉しそうに笑った。
「ふふっ。よかった」
「なにが?」
「だって、最近二人ともすごく仲良くなったから。俺、嬉しいな」
葵の純粋すぎる言葉に、俺の心臓がドクリと跳ねた。
(仲良く、なった……?)
それは、葵が想像しているような爽やかで美しい友情なんかじゃない。
互いの底知れない執着と、醜い独占欲と、絶対に振られたくないという臆病さ。
この泥沼のような秘密を共有してしまった『共犯者』だからこそ生まれた関係だ。
俺が言葉に詰まっていると、伊織とふと視線がぶつかった。
伊織の瞳の奥にも、俺と同じような感情が揺れているのがわかった。
葵には絶対に知られてはいけない、重くて暗い秘密の共有。
やがて、伊織は葵から視線を逸らさずに、ふっと微かに口角を上げた。
「……そうだね。同じ穴の狢、ってやつかも」
その言葉に込められた『本当の意味』を理解できるのは、この世界で俺だけだろう。
「おなじあなの、むじな?」
不思議そうに小首を傾げる葵。
伊織は「なんでもないよ」と優しく葵の頭をポンと撫でると、そのまま俺の方をちらりと振り返った。
「ほら、絢人。葵も帰ってきたし、さっさと片付けなよ。ぐずぐずしてると置いて帰るから」
「あ、ちょ、ちょっと待てよ!」
いつものように冷たく急かしながらも、伊織の足はちゃんと俺がプリントをカバンに押し込むのを待ってくれていた。
(……同じ穴の狢、か)
葵の隣を歩く伊織の背中を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
相変わらず俺の恋は報われないままだし、伊織の執着も狂ったままだ。
それでも、夕日に照らされる三人の影は、以前よりもほんの少しだけ、居心地のいい形に変わっていた。




