第6話 どうでもよくない
翌日の昼休み。
俺たちはいつものように教室の隅で、他愛のない話をして笑い合っていた。
「あー、昨日の宿題の範囲、ここであってる?」
「んー、見せて。……あ、そこ違うよ、ここからここまで」
葵が困ったように眉を下げ、伊織が柔らかく微笑みながらノートを指さして教える。
目の前の穏やかなやり取りとは裏腹に、俺の胸の奥はかなり複雑だった。
(……葵も、大変だよな)
友人だと思っている二人から、密かな想いを寄せられているのだ。
何も知らないまま、無邪気に伊織の隣で笑っている葵のことを思うと、どうしようもない同情と切なさ、そして罪悪感が胸を突いた。
俺と伊織の想いは、葵にとってはいい迷惑だ。
ふと、俺は隣で頬杖をついている伊織の横顔に視線を移した。
(……つーか、こいつって葵が好きなくせに、他の子たちで忘れようとしてるんだよな)
昨日、薄暗い路地裏で淡々と零された伊織の言葉が脳裏を過る。
どうにかして諦めたくて、適当な女の子で間を埋めようとした――。
(……それって、虚しくないのか?)
綺麗な顔の下でぐちゃぐちゃに歪んだ感情を抱え込み、自分で自分をすり減らしている。
そうまでして手に入らない恋にしがみつく伊織の姿を想像すると、やるせない感情がじわりと広がった。
◇
放課後。
いつものように昇降口の前で、伊織はまた女の子に言い寄られていた。
「ねえ伊織、この後遊んでよぉ」
「んー、悪いけど他当たってくれる?気分じゃなくてさ」
伊織がいつものように気怠げな声で適当にあしらうと、女の子は気を損ねた様子で走り去っていった。
その背中を見送ってから、俺は壁に寄りかかっていた伊織に歩み寄る。
「お前さ、いつか刺されるぞ」
「ちゃんと、そうならない相手を選んでるよ」
伊織は悪びれる様子もなく、スマホに視線を落としたまま柔らかく返してきた。
「お前がそのつもりでも!本気でお前のこと好きな子がいるかもしれないだろ!」
「いないよ、そんなの」
「なんでそんな断言できるんだよ」
俺が食い下がると、伊織は面倒くさそうに小さく息を吐いた。
『伊織くんって顔がいいから、連れて歩くアクセサリーにちょうどいいよね』
以前、伊織と付き合っていた女子が裏でそう笑っているのを、偶然二人で聞いてしまった時の記憶が蘇る。
あの時、伊織は怒るどころか「オレも似たような感覚だし、お互い様」だと平然と笑って受け入れていた。
誰にも本心を許さず、都合よく消費し合うだけの関係。
自分の執着をごまかすためだけに、伊織はあえて、そんな空っぽな相手を選んでいるのだ。
「遊びか本気かくらい見分けつくよ」
伊織はスマホから目を上げ、感情の読めない静かな瞳で俺を見た。
「それに、本気になりそうな子もちゃんと遠ざけてるし」
「おまえは、ほんとにそれでいいのか?」
俺が問い詰めると、伊織はわずかに目を細め、声のトーンを一段下げた。
「……しつこいな。何?絢人には関係ないでしょ」
冷ややかな拒絶だった。
「ないけど……っ!」
俺は強く拳を握り込み、伊織の整った顔を真っ直ぐに睨み返した。
「俺は、お前が葵をどれだけ大事にしてきたか、近くでずっと見てきたからさ……っ!」
少しだけ声が震えた。伊織は訝しげにこちらを見ている。
「だから……お前が、そんな風に自分をすり減らしてんの、正直見てられねえんだよ……!」
思わず必死になってしまい、いつもの軽い調子のままではいられなかった。
そんな俺を見て、伊織はわずかに目を丸くした。
すると、伊織はしばらく俺の顔をじっと見つめた後、ふっと小さく息を吐いた。
「……絢人ってさ」
「……なんだよ」
「この間も思ったけど、意外とそういう顔もするんだね」
「……は?」
言われてみれば確かに、きっと情けない顔をしていたに違いない。
表情を取り繕うだけの余裕はなかったから。
いつもなら笑って適当に誤魔化してしまうところを、今日はそんな余裕すらなかった。
普段なら見せない顔を見られたことが、なんとなく気恥ずかしい。
伊織は手元のスマホをポケットにしまい、壁に背を預けたまま面白そうに首を傾げた。
「オレさぁ。絢人ってもっとこう……能天気で、悩みなさそうで、人畜無害な馬鹿だと思ってたんだよね」
「は、はぁ!?酷すぎるだろ!」
あまりの言いように瞬間的な怒りが湧く。
「いつも顔に分かりやすく『葵のこと大好きです』って書いてあるしさ、ほんと単純っていうか」
「……っ!」
あまりにも容赦ない指摘に、俺は言葉を詰まらせた。
必死に隠しているつもりだった感情は、伊織の目には最初から筒抜けだったらしい。
「ちなみに、無害そうだから放っておいたんだけどさ」
(くそ……っ)
俺は心の中で毒づいた。
伊織の『排除リスト』に入っていなかったことにほっとすればいいのか、それとも恋のライバルとして『一切脅威に思われていなかった』ことに傷つけばいいのか、自分でもわからない。
複雑すぎる感情に俺が奥歯を噛み締めていると、伊織はどこか不思議そうな目をして言葉を続けた。
「だから、ちょっと意外なんだよね。人並みに、泣いたり、傷ついたりするんだなって」
「当たり前だろ!俺のことなんだと思ってたんだよ!」
「うん、そうだよね。ごめんごめん、考えてみれば当たり前なんだけどさ」
まったく悪びれる様子のない、軽い謝罪。
伊織はくすりと笑って、残酷な事実をさらりと口にした。
「ほんと俺、絢人に興味なかったから」
「そういうことは思ってても言うなよ!」
「えー?でも絢人だって言ってたじゃん、俺に興味ないって」
……言った。
確かに昨日そう言った。
興味がないから、誰にも言いふらさないと。
でもあれは、そんな意味じゃない。
「そんなことねえよ」
「……え?」
咄嗟に否定すると、伊織がぴたりと動きを止めた。
「俺は……別に、お前のことどうでもいいとか、どうなってもいいとか、そんなふうには思ってねえよ」
「……なにそれ。適当なこと言わなくていいよ」
伊織は興味を失ったように顔を背ける。
「適当じゃねえって」
「じゃあ何?」
「何って……」
そう聞かれると、困った。
俺たちは別に、二人きりで遊ぶような仲じゃない。
連絡を取り合うことだってほとんどないし、葵がいなければこうして一緒にいることもなかっただろう。
けれど、それでも一年半、嫌というほど同じ時間を過ごしてきた。
葵を甘やかすこいつも、女の子を適当にあしらうこいつも、時折ひどく冷たい顔をするこいつも知っている。
そして今は、その奥でどうしようもなく苦しんでいることまで知ってしまった。
それを全部知った上で、どうでもいいとは思えなかった。
「……なんつーか、俺だって、お前がただのクラスメイトなら放っとくよ」
「……」
「でも、そうじゃねえだろ。俺たち、なんだかんだずっと一緒にいたし」
「葵がいたからでしょ」
「それでもだよ」
自分でも、何をこんなに必死になっているんだろうと思う。
けれど、ここで引き下がるのだけは違う気がした。
「お前が葵のこと大事にしてんのも、ずっと見てきた。やり方は気に食わねえけど……だからって、お前自身がどうなってもいいとは思わねえよ」
伊織が、理解しかねるように訝しげに眉を寄せる。
「……何それ」
「俺にもよく分かんねえよ」
「は?」
「ただ……たぶん」
口にするのが妙に気恥ずかしくて、一度視線を逸らす。
「俺、お前のこと、それなりに友達だと思ってたみたいだわ」
伊織は一瞬、言葉の意味が理解できなかったように俺を見つめた。
それから遅れて、色素の薄い瞳がわずかに見開かれる。
その反応を横目に、俺は気恥ずかしさを誤魔化すように言葉を継いだ。
「だから、これ以上自分を粗末に扱ってんの、見てられねえっていうか……」
沈黙が落ちた。
夕暮れの風が吹き抜ける中、伊織は俺の顔をまじまじと見つめたまま、微動だにしなかった。
「……ふ、なにそれ、恥ずかし」
「うるせぇ……」
実際、恥ずかしいことを言っている自覚はあるので否定は出来なかった。
やがて、伊織は顔を片手で覆い、肩を震わせて低く笑い出した。
「はぁ……ほんと、絢人って馬鹿だよね」
それはいつもの冷ややかな嘲笑ではなく。
どこか呆れたような、そしてどうしようもなく降参したような、不思議な響きを持っていた。




