第5話 秘密の共有者
(……見なかったことに、しろ)
ガラガラと崩れ落ちる心を無理やり繋ぎ止め、俺はそう考えながら一度廊下を少し戻った。
そして、わざと足音を大きく立てて、勢いよく教室のドアを開け放った。
「わりぃ!待たせたな!」
わざとらしいほどに大きな、いつもの明るい声。
俺の声に、伊織が弾かれたようにバッと顔を上げた。
その端正な顔には、普段の気怠げな余裕など微塵もない、珍しく明らかな動揺が張り付いていた。
(やっぱり……)
伊織のその顔が、さっきの光景が現実なのだと突きつけてくる。
確信に胸が痛むのを無視して、俺はひたすら笑い続けた。
「んん……あれ、絢人。終わったの?お疲れ様」
伊織の動揺に気づくこともなく、葵が目を擦りながら身を起こす。
「ごめん、寝ちゃってた……待った?」
「いや!今来たとこだから大丈夫!起きたばっかだけどすぐ行けるか?」
俺は努めて普段通りに振る舞うと、ふにゃりと笑って葵が答えた。
「行ける!行こ!」
ああ、可愛い。
いつもなら、そうやってただときめくだけだが、今日だけは少し恨めしい気持ちになる。
葵はなんて罪作りなんだろう、と。
◇
放課後の駅前のカフェ。
それぞれお目当ての期間限定ドリンクを手に、三人で窓際の席につく。
俺だけが、二人とは違う味を選んでいた。
「うま!」
一口飲んで声を上げると、向かいに座る葵が目を瞬かせた。
「そっちもおいしそうだよね」
「飲むか?」
ごく自然に差し出しかけて、俺はハッとした。
(待て、これって……間接キス……!)
友人同士とはいえ、意識している相手だ。
急に顔に熱が集まるのを感じて、俺は慌ててストローを引っ込めた。
「わ、わりぃ!やっぱ今のは……」
「え?いいの?」
無し、と言いかけた俺の焦りなど全く意に介さず、葵が純粋な瞳で首を傾げる。
「!!あ、ああ!全然いいけど!」
ドキドキと鳴る心臓を抑えながら、俺が再びカップを差し出そうとした、その時。
横からすっと伸びてきた白い手が、俺のカップを奪い取った。
「えっ」
ちゅ、と。
隣に座っていた伊織が、なんの躊躇いもなく俺のストローに口をつけ、喉を鳴らした。
「なっっ!?」
「へえ。ほんとだ、おいしいね」
俺の悲鳴のような声を完全に無視して、伊織は涼しい顔で微笑んだ。
そして、そのまま向かいの葵へと俺のカップを差し出す。
「はい、葵」
「あ、ありがとう」
伊織に渡されるがまま、葵が俺のストローを咥えて一口飲む。
「……ん、本当だ!これも美味しいね」
葵がにっこりと笑ってカップを返す。
伊織はそれを受け取ると、ストローの飲み口を親指で無造作に拭い—、俺の目の前にことりと置いた。
「はい、ありがとう絢人」
ひどく甘く、優しい声だった。
けれど、俺を見据えるその双眸は底冷えするほど暗く、微かな苛立ちと嗜虐的な色を含んで歪んでいる。
(こ、こいつ……っ!)
俺と葵の間接キスを阻止した上に、わざわざ自分を挟んで、葵の唇の痕跡を自分の指で拭い去ってから返すという、最悪の牽制。
俺は、目の前に置かれたカップを前に、ただ顔を引きつらせることしかできなかった。
◇
駅の改札前で、俺たちはいつも通り解散するはずだった。
「じゃあね、二人とも。また明日」
「おう、気をつけてな」
改札に向かって手を振る葵を見送ってから、俺は自分とは反対方向の電車に乗るはずの伊織に背を向けようとした。
「あ、オレ今日こっちに用があるから」
「……ん?」
伊織が俺の横に並ぶ。こっちって、俺と同じ電車ってことか?
改札に吸い込まれようとしていた葵が、振り返って首を傾げる。
「また女の子?」
伊織はふっと口角を上げ、悪びれもせずに肩をすくめた。
「さあ、どうかな」
ひらひらと手を振って葵と完全に別れた後、俺はひどく気まずい沈黙に包まれていた。
(なんで同じ方向なんだよ……)
隣を歩く伊織の横顔を盗み見ることもできず、ただ流れる景色を見つめながら足早に歩く。
夕暮れの教室での光景で頭の中を埋め尽くされて、胃の奥が気持ち悪かった。
「……ねえ」
「!?」
不意に、人通りの少ない裏道に入ったところで伊織が立ち止まった。
心臓が跳ね上がる。
俺は必死に平静を装って振り返った。
「な、なんだよ」
「……見てたでしょ」
「な、なにを!?」
声が上ずってしまった。
伊織はポケットに手を入れたまま、夕闇に溶けそうなほど暗く、冷たい瞳で俺をじっと見据えた。
「見たよね。俺が、葵にキスしてたとこ」
心臓がドクンと嫌な音を立てて大きく脈打つ。
息が、止まるかと思った。
「……っ、なんで……」
「なんで言うのかって?」
「……!」
俺の言いたいことを見透かした伊織は、つまらなそうに鼻で笑った。
「だって明らかに様子が変だったし、見られちゃったのは明らかだったからさ。……口止め、しとかないとでしょ?」
「……は?」
まさか、俺が誰かに言うとでも思ったのだろうか。
「……誰にも、言わねえよ」
「どうかな」
「言わない!」
俺は咄嗟に声を荒らげた。
確かに、伊織の立場からすれば不安になるのも当然だ。
けれど、人の気持ちをべらべらと勝手に他人になんてこと、俺は絶対にしない。
睨みつけるように見返すと、伊織は予想外の反応に少しだけ驚いたように目を丸くした。
「……怒ってないの?」
「怒る……?」
「だってオレ、頭とはいえキスしたんだよ?絢人のだーい好きな葵にさ」
「あ……」
(……言われてみれば!)
伊織の言葉に、俺は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
俺は、伊織が葵を好きだという事実があまりにも衝撃的すぎて、『葵が伊織にキスをされた』ということに対する感情が完全に抜け落ちていたようだ。
というか、俺の大好きな葵って。
やっぱりバレてたんだな、俺の気持ち。
「……もちろん、勝手にあんなことするのは良くねえとは思うけど」
「……」
「気持ち、分からなくもねえし。っつーかさ、お前だって俺の気持ち気づいてたのに誰にも言ってねえだろ?」
「……どうかな、言ってるかもしれないよ?」
「わざわざ言わねえだろ、だってお前俺に興味ないじゃん」
「……は?なにそれ。そんな信用の仕方ってある?」
「俺も同じだよ、別に俺お前に興味ねえし。だから、安心しろよ。わざわざ誰にも言ったりしねえから」
「……ふーん」
納得したようなしてないような、そんな様子だ。
それにしても、いつもの過保護な振る舞いに恋愛感情が伴っていたとは。
伊織の執着めいた想いに改めて気づき、少しだけ怖くなる。
……ん?
あれ?ちょっと待てよ。
伊織は葵が好き。これは紛れもなく真実だ。
だったらあれは、何だったんだ?
「……なあ伊織」
「何」
「俺、この間……お前が嶋坂さんに言い寄ってるの、見たんだけど」
「ん?ああ、見てたんだ?」
伊織の顔には、微塵も悪びれた様子がなかった。
「あれって、もしかして……」
――牽制?
そう考えたことに気づいたのだろう、あっさりと肯定される。
「うん、そうだよ。葵に近づく女は、基本的にオトしてるからさ」
「……は?」
(何を……言ってるんだ?)
耳を疑った。
「葵ってさ、平凡な感じではあるけど、地味ーにモテるんだよね。優しいしさ、癒し系っていうの?やっぱそんな葵の魅力に気づいちゃう奴って、どうしても出てきちゃうわけ」
伊織はまるで『今日の天気』でも語るように、平然と言ってのける。
「だからオレが、葵に近づく邪魔な虫を追い払ってあげてるんだ。でも、嶋坂みゆり……あの子、なかなかなびかなくて困ってるんだよね」
「……っ」
ぞっとした。伊織は本気で言っているのだ。
けれど、違和感があった。
葵に好意を寄せる女子なんて、今まで片手で数えるほどしかいなかったはずだ。
「……じゃあ、葵に近づいてない子たちは?お前いつも遊んでるじゃねえか」
いつもの女遊びをしている様子を思えば、好きな相手が居るようには思えなかった。
俺が絞り出すように問いただすと、伊織は少しだけ自嘲するように目を伏せた。
「あれは……、全部葵を忘れるためだよ」
「え……」
「諦めたいから適当な女の子で気を紛らわせてるだけ。……まあ結局、誰といてもあんまり効果はないんだけど」
悪びれもせず、けれどひどく空虚な声で放たれたその言葉に、俺は息を呑んだ。
次から次へと女の子を取り替えていたのは、単なる女遊びじゃなかった。
どうしようもなく膨れ上がる葵への感情から逃げるための、虚しい足掻きだったのだ。
その一方で、葵を好きになる、あるいはなりそうな子に近づいては追い払っていた。
平然と、それが当たり前のように。
「……伊織、お前おかしいよ!」
「うんまあ、別にやりたくてやってる訳じゃないけどさ。仕方ないでしょ?」
「そんなの……女の子にも、それに、葵にも失礼だ!」
俺が声を張り上げると、伊織はひどく冷たい、軽蔑するような目で俺を鼻で笑った。
「綺麗事だね。じゃあ、絢人は耐えられるの?あの女に葵をとられそうだから、階段で泣いてたんじゃないの?」
「!?」
「あは、図星だ。あんな顔するくらい好きなくせに、オレのやってることが本当に理解出来ないの?」
残酷な言葉が、刃物のように俺の胸を抉る。
何も言い返せない俺の無力さを、伊織の嘲笑がどこまでも暴いていく。
けれど、このまま黙っているわけにはいかなかった。
「……俺は、お前みたいなことはしない」
俺は顔を上げ、伊織の整った顔を真っ直ぐに睨み返した。
「ようするにお前は、葵が恋愛しそうになると裏でこそこそ邪魔してるってことだろ?恥ずかしくないのかよ、本当の気持ちを伝える度胸もないくせに!」
その瞬間。
伊織の顔から、ふっと微かな笑みが消え失せた。
「……は?」
低く這うような、冷たい声。
普段の余裕を完全に剥ぎ取られた伊織が、初めてあからさまな殺気を纏って俺を睨みつける。
背筋が凍るようなプレッシャーに一歩後ずさりそうになったが、俺ももう引き下がれなかった。
「図星だろ。葵に嫌われるのが怖くて、本当の気持ちなんて隠したまま、卑怯なことしてるだけじゃないか!」
「……お前に、何がわかるわけ?」
伊織が一歩、俺に詰め寄ってくる。
その整った端正な顔が怒りで歪み、底知れない狂気がその瞳の奥でゆらゆらと揺れていた。
「お前に想像できる?毎日毎日、あいつの隣でオレがどれだけ耐えてるかさあ……!」
初めて見せる伊織の剥き出しの執着と泥臭い苦悩に、俺は息を呑んだ。
「……だったら、なんで告白しねえんだよ」
俺は震える声を絞り出し、伊織を真っ直ぐに見据えた。
「告白したら、終わりだからに決まってるでしょ」
伊織は吐き捨てるようにそう言って、自嘲するように鼻で笑った。
「友達としてすら傍にいられなくなるなんて絶対無理。耐えられない」
諦めたいと願いながらも、傍にいることをやめられない。
「それに、そもそもオレは、葵のことが本当に大事なわけ。困らせるようなことするわけないでしょ。オレの気持ちなんて伝えたら、困って悩んで苦しむってこと、分かりきってるんだからさ」
歪んだ行動とは裏腹に、伊織の葵への想いは、驚くほどに真っすぐで純粋だった。
ぽかんとしている俺に伊織が話を続ける。
「何そのアホ面。……それで?散々偉そうなこと言ってた絢人はどうするわけ?自分こそ、葵に気持ちをぶつけて、二度と隣に並べなくなる覚悟でもあんの?」
図星を突かれ、俺は言葉に詰まった。
できない。そんな勇気、最初からない。
「……できるわけ、ないだろ」
伊織は嘲笑うように息を吐くと、背中を向け、それ以上何も言わずに闇の中へと歩き出していった。
一人残された薄暗い路地裏で、俺はガタガタと震える膝を抑え、その場に崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。
伊織のことなんて、何も知らなかった。
知る必要もないと思っていた。
なのに今、俺はあいつの誰にも言えない秘密を知っていて、あいつもまた、俺の誰にも言えない秘密を知っている。
もう、今までと同じ距離には戻れない。
そんな予感だけが、妙に生々しく胸の奥に残っていた。




