第4話 視線の先
「なんで……ここに……」
伊織は俺に目をやること無く階段をトントンと降りてくる。
「なんでって、ここ誰も来なくてオレのお気に入りだから」
マジかよ。
誰も来ないと安心していたのに、まさか伊織が来てしまうなんてと僅かに後悔する。
「っつーか、お前、葵知らない?あいつに借りてたノート、返し――」
気怠げに言いかけて、伊織の言葉がピタリと止まる。
言いながらオレの顔を見てしまったらしい。
伊織の端正な顔からふっと表情が抜け落ち、色素の薄い瞳が、しゃがみ込む俺の濡れた頬をじっと見下ろしている。
慌てて顔を伏せようとしたが、もう遅かった。
「……何、泣いてんの」
低く、どこか探るような響きを帯びた声。
俺はブレザーの袖口で乱暴に目元を擦り上げると、喉の奥の震えを必死に飲み込みながら立ち上がった。
「……別に、なんでもねえよ! ちょっと、目にゴミが入っただけで……!」
無理やりいつもの明るい声を作って笑ってみせたものの、強張った頬の筋肉がうまく動いてくれない。
惨めで、情けなくて、今すぐこの場から消えてしまいたかった。
伊織はしばらく無言のまま、俺の赤くなった目元をじっと見つめていたが、やがて興味を失ったように視線を外し、微かに鼻で笑うように息を吐いた。
「ふーん……ゴミねえ」
揶揄するような、冷ややかな声。
伊織はそれ以上何も追及することなく、俺の横を通り抜けてそのまま階段を降りていこうとする。
きっとこれから、葵を捜しにいくのだろう。
(……いや、ちょっと待て。もし伊織が、このまま葵を探して図書室に行ったら……)
葵と嶋坂さんが、二人きりで楽しそうに笑い合っていた光景がフラッシュバックする。
伊織が嶋坂さんのことを気に入っているのだとしたら――あるいは、ただ葵にノートを返しに行くだけだったとしても。
今あそこに伊織が行けば、間違いなく二人の空気を壊してしまうだろう。
俺は咄嗟に階段を降りかけた伊織の袖を背後から掴んだ。
伊織がピタリと足を止め、心底面倒くさそうに振り返る。
「……何?」
「えっと、今は、その……」
氷のような視線に射すくめられ、言葉に詰まる。
俺は必死に頭を回転させて言い訳を探し、震えそうになる声を必死に繕った。
「葵なら……さっき先生に呼ばれてたから……今は、図書室にはいない、ぞ……」
(……あっ、しまった)
口にした直後、自分の失言に気づいて一気に血の気が引いた。
伊織は一言も『図書室に行く』なんて言っていなかったのに、自分からその場所を白状してしまったようなものだ。
案の定、伊織の瞳がわずかに細められる。
「……図書室にはいない、ねえ」
伊織は俺に掴まれたままの自分の袖口を一瞥すると、どこか見透かしたような、ひどく冷たい笑みを唇の端に浮かべた。
「なに、オレを葵のとこに行かせたくないわけ? なんで?」
「そ、れは……っ」
「もしかして、絢人がここでメソメソ泣いてたのとなんか関係ある?」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
図星を突かれた俺が息を呑んで硬直すると、伊織はその分かりやすい反応を見て、すべてを察したようにゆっくりと息を吐き出した。
「……ああ、なるほどね。そういうこと」
一体、何をどう繋げて納得したのか。
伊織の纏う空気が、先ほどまでの無関心なものから、ふっと微かな苛立ちと嘲笑を混ぜた冷酷なものへと変わる。
「絢人ってさあ、ほんと馬鹿だよねえ」
「は……?」
「葵のこと、嶋坂に取られちゃってもいいの?」
思いがけない言葉に、俺は弾かれたように顔を上げた。
なぜ、伊織が図書室に嶋坂さんがいることまで勘づいているのか――いや、それ以上に。
伊織の瞳は俺の泣き顔を小馬鹿にするように見下ろしているが、その実、あいつの意識は俺になど欠片も向いていないように見えた。
「と、とられるもなにも、俺は、別に……!」
必死に否定しようとする俺の言葉を遮るように、伊織は短く「ふーん?」と声を漏らした。
そして、それ以上は俺に興味を失ったように袖を振り払い、図書室とは反対の方向へと気怠げに歩き出していった。
◇
翌日の昼休み。
いつものように三人で集まり、他愛のない会話で笑い合う。
「あー、今日の小テスト最悪だった……」
葵が机に突っ伏して嘆き、伊織が呆れたように鼻で笑う。
「お前、昨日もゲームしてたろ。自業自得」
そんな二人のやり取りを見つめながら、俺はいつも通りの明るい声で茶化しつつ、ふと伊織の横顔に視線をやった。
『葵のこと、嶋坂に取られちゃってもいいの?』
昨日の放課後、階段で浴びせられた冷たい言葉が脳裏を過る。
いいも悪いも、ない。
葵は俺のものじゃないし、この気持ちを伝える気もない。
どんなに辛くても、このまま傍にいられるだけでいいと、そんな結論に至った。
ようは今までと何も変わらないのだ。
これまでもこれからも、俺は葵をそっと想い続けるだろう。
「そういえば、放課後三人でこの前の限定ドリンク飲みに行かない?」
ふと顔を上げた葵が、思い出したように提案してきた。
「あー、わりぃ。俺、今日委員会の集まりがあって遅くなるから二人で行って来いよ」
「えっ、そっか。……ううん、じゃあ伊織と待ってるよ。特別教室で自習でもしながらさ」
そう言って葵は柔らかく微笑んだ。
いつだって人を気付かえる優しい葵。
そんな葵の提案を断ることなど、俺には出来なかった。
俺が「分かった、悪いな」と笑って返すと、伊織はスマホから目を離さないまま「ん、分かった」とだけ短く答えた。
◇
放課後、夕日が差し込む静かな特別教室。
「……ふわぁ……」
「葵大丈夫?さっきから欠伸ばっかりしてるけど」
机にノートを広げたまま、涙目で大きな欠伸をした葵に、向かいの席に座る伊織が呆れたように声をかけた。
「ごめん……昨日の夜、ちょっと考え事してたら眠れなくて……」
「ふーん……そ。……あ、葵、ちょっと動かないで」
「え?」
「まつげ、目に入りそう。取るから、じっとしてて」
伊織が身を乗り出し、葵の顔にすっと手を伸ばす。
柔らかく低い声に、葵は素直にこくっと頷いて目を閉じた。
夕日を浴びた、白い肌と長い睫毛。
伊織はそれに触れようとした指をふと止め、無防備な葵の唇へと、吸い寄せられるように顔を近づけ――
「……ねえ伊織、取れた?」
葵のその言葉に伊織はハッと我に帰り、咄嗟に体を離した。
「……あー、うん。取れたよ」
「ありがとう」
葵がパチリと目を開け、言葉を続けた。
「……ねえ伊織、嶋坂さんって知ってる?」
「うん、……まあ」
伊織の僅かな動揺など全く気づかないまま、葵が少し照れくさそうに口を開く。
「昨日、委員会の仕事を一緒にしてたんだけど……すごく、優しくていい子なんだ」
はにかむように頬を染める葵を見て、伊織の瞳の奥がスッと冷たく濁る。
けれど伊織は、すぐにいつも通りの気怠げな表情を取り繕うと、手元のシャーペンを弄りながら短く息を吐いた。
「……ふーん」
「頭が良くてね、図書良いの仕事も丁寧で……ふわぁ」
葵の話があくびで途切れる。
「……ちょっと寝たら?絢人が来たら起こしてあげるから」
伊織が優しくそう言うと、「ごめんね」と小さく呟き、腕を枕にして葵はゆっくりと目を閉じた。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
伊織は、シャーペンを机に置き、頬杖をついてその寝顔をじっと見つめ下ろした。
普段の飄々とした態度は完全に消え失せ、隠しきれない熱と執着が、その双眸にどろりと渦巻いている。
「……無防備」
ぽつりと零れ落ちたその声は、ひどく甘く、低く響いた。
◇
委員会の仕事を終わらせた俺は、急ぎ足で特別教室へと向かっていた。
思ったよりも遅くなってしまった。
二人とも、きっと首を長くして待っているだろう。
廊下の角を曲がり、教室の前扉に手をかけようとした、――その時。
(……え?)
ドアのガラス窓越しに見えた光景に、俺は息を呑んで立ち尽くした。
夕日が赤く染める教室の中。
伊織がじっと、机に突っ伏して眠る葵を見つめていた。
俺なんかに向けるあの冷ややかな嘲笑とはまるで違う。
ただひたすらに熱っぽく、一途で、痛いほどの情念がこもった横顔。
伊織は、壊れ物に触れるようなひどく優しい手つきで葵の黒髪を撫でると、そのまま、愛おしそうに葵の頭にそっと唇を落とした。
ドクン、と。
嫌な音を立てて、心臓が跳ねた。
(嘘だろ……?)
今見た光景が信じられなかった。
けれどこれは現実だ。
今、伊織は葵に、キスをしたのだ。
『とられちゃってもいいの?』
ーーああ、そうか。
あの時の言葉は。
ただの俺への煽りではなく。
伊織は……――伊織も、葵のことが、好きなんだ。
夕暮れの教室で、俺はただその光景を見つめることしかできなかった。




