第3話 知らない笑顔
――それは、昼休みにふらりと立ち寄った図書室でのことだった。
返却期限の迫った本をカウンターに返し、静まり返った書架の間を抜けようとした俺は、ふと視線の先に見知った横顔を見つけて足を止めた。
少し離れた、冬の淡い日差しが差し込む窓際の席に、葵が座っている。
(……葵!)
途端に胸が高鳴り、声をかけようと一歩踏み出しかけた足がピタリと止まる。
向かい合う席に誰かが座っていることに気づいたからだ。
資料を広げながら、何かを話し合っている様子だった。
おそらく図書委員の仕事の話か何かをしているのだろう。
そう気づいて声をかけるのをやめ、背を向けかけたその時だった。
(あれ、あの子……?)
ふと視界の端に映った相手の横顔に、俺は思わず動きを止める。
葵の前に座っていたのは、数日前に渡り廊下で伊織に絡まれていた女の子――嶋坂みゆりだった。
まさか、伊織がちょっかいをかけていた女の子と、葵に接点があっただなんて。
少しばかりの意外さを覚えながら、俺はなんとなくその場で足を止め、二人を遠巻きに眺めた。
――そうして目の当たりにした光景は、ただなんとなく眺めていた俺の目を、一瞬で釘付けにした。
二人は、思っていた以上に親しげだった。
普段葵は、俺や伊織以外の人間とは自分から深く関わろうとしない。
葵はもともと人見知りで、内気な性格なのだ。
そんなあいつが今、心を開いた柔らかい表情で、クラスも違う女子と二人きりで言葉を交わしている。
――瞬間、胸の奥で、わずかに焦燥めいたものがざわめいた。
(……いやいやいや)
俺は慌てて頭を振る。
同じ図書委員なのだから、一緒に作業をしていれば親しくなるのも当たり前のことだ。
葵が俺や伊織以外の人間と楽しげに話しているだけで、こんなふうにいちいち波風を立てていては身が持たない。
大人気ないぞ、しっかりしろ、俺。
心の中で自分を戒め、今度こそ静かに踵を返そうとした――その、直後だった。
(……葵……?)
葵が、目の前の相手に向けて零した笑顔が、俺の目に飛び込んできた。
さっきまで楽しげに言葉を交わしていたのだ。
笑い合うことくらい、何ひとつおかしくはない。
けれど、目の前にあるその顔は、俺の知っているどの笑顔とも違っていた。
葵の笑顔なんて、これまで何百回とすぐ隣で見てきたはずだった。
俺がくだらない冗談を言った時に見せる呆れたような笑顔も、伊織に甘やかされてはにかむ幼い笑顔も。
全部、知っているつもりだった。
けれど、あの表情は知らない。
だって、あれは。
あの表情は紛れもなく――誰かに恋をした人間の顔だったから。
ほんのりと朱が差した白い頬。
相手の仕草ひとつひとつを愛おしそうに掬い上げる、熱を帯びた潤んだ瞳。
少しだけ緊張したように指先を絡めながら、それでも相手から一瞬たりとも目を離せないといった風に、甘く、柔らかく蕩けるような、そんな笑顔。
それは、少なくとも俺に向けてはただの一度だって見せたことのない表情だった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃とともに、残酷な現実が胸の奥へと突き刺さる。
(ああ……そうか)
俺は、なんて愚かな勘違いをしていたのだろう。
このまま『仲のいい友人』として、ずっとあいつの一番近くにいられるのだと勝手に思い込んでいた。
けれど、そんなことはありえないのだと、気づいてしまった。
いや、少し考えれば分かったはずなのに、ただ自分に都合のいい現実逃避をしていただけなのかもしれない。
いつしか葵はきっと誰かと結ばれるのだ。
相手が嶋坂さんかは分からない。
けれど、それが誰であろうとも、絶対に、ただの友人である俺でないことは確かだった。
葵は俺の知らない表情を、恋した相手にだけに見せるのだ。
「……っ」
ズキリ、ズキリと、胸の奥が馬鹿みたいに軋んで痛む。
肺の中の空気が全部奪われたみたいに息が苦しくて、立っているだけで精一杯だった。
これ以上見ていたら、自分の顔がどんな風に歪んでしまうか分からない。
せり上がってくる吐き気にも似た痛みを必死に奥歯で噛み殺しながら、俺は楽しそうな二人の視界に入らないよう、逃げるようにして静かな図書室から踵を返した。
友達のままでいいなんて、嘘だ。
全然、よくなんかない。
息を切らして逃げ込んだ先は、昼休みには誰も寄りつかない、特別教室棟の裏階段の踊り場だった。
ひんやりとしたコンクリートの壁に背中を預け、力が抜けたようにずるずるとその場にしゃがみ込む。
友達のままでいいなんてただの綺麗事だ。
本当は、あの笑顔も、声も、体温も、全部俺だけのものにしたくてたまらなかった。
先程の光景が蘇る。
この想いが叶うことはないのだという事実が俺の胸を強く締め付けた。
「……っ、くそ……っ」
荒い息を吐き出すと、視界がぐにゃりと滲んで歪む。
そうかと思うと、すぐにポロリと熱い滴が溢れ出し、頬を伝って落ちていく。
こんなことで泣く自分が惨めで滑稽で情けなかった。
けれど、今だけは。
今だけは許されたいとそう思った、その瞬間だった。
「……ねえ」
不意に、頭上から無機質な声が降ってきた。
ビクッと肩を跳ねさせて顔を上げると、数段上のステップに、いつの間にか伊織が立っていた。
「こんなとこで何してんの?」




