第3話 直訴と、崩れ落ちる余裕
シオン殿の熱を帯びた求愛の言葉に、私はただ目を瞬かせることしかできなかった。
公爵家で長年虫けらのように扱われてきた私が、これほど身分の高い方に「大切にしたい」と望まれる日が来るなど、想像すらしたことがなかったからだ。
「シオン殿……お気持ちは大変嬉しいのですが、私はルシアン様に拾われた身です。私の一存ではお答えすることが……」
私が戸惑いながら言葉を濁した、その時だった。
ゆったりとした、足音のしない歩みで、ルシアン様が私たちの輪の中へ入ってきた。
「おや。うちの可愛い働き蜂を、随分と熱心に口説いているじゃないか。シオン」
ルシアン様はいつも通りの優雅な微笑みを浮かべ、甘く柔らかな声を響かせている。けれど、その底知れないエメラルドの瞳の奥は、極寒の吹雪のように冷え切っていた。
シオン殿はルシアン様の姿を認めるなり、その場に深く跪き、真っ直ぐに顔を上げた。父親である当主もまた、息子のただならぬ覚悟を見守るように頭を垂れる。
「ルシアン様。不躾を承知で申し上げます。あなたがメルティア殿を、ただの気まぐれな暇つぶしとして傍に置かれているのでしたら……どうか、私に彼女をお譲りください」
「ほう?」
「私は彼女を妻として迎え、生涯をかけて守り、幸せにしたいと心の底から願っております。どうか、この命に代えても……っ!」
額を床に擦りつけんばかりに直訴するシオン殿。
その真っ直ぐな言葉を聞いた瞬間。
――ピタリ、と。
ルシアン様の唇から、常に張り付いていた完璧な微笑みが消え失せた。
「……は?」
紡がれたのは、絶対零度の響きを持った、ひどく低い声だった。
途端に、大気が悲鳴を上げた。目に見えない凄まじい威圧感が龍宮全体を押し潰し、呼吸すらままならないほどの重圧となって空間を支配する。大理石の床がメキメキと音を立ててひび割れ始めた。
「俺のものを、お前に……譲る?」
「ル、シアン様……っ」
「身の程を知りなよ、若鳥が。彼女は俺が見つけた、俺だけのものだ。二度とその薄汚い口で彼女の未来を語るな」
冷酷に見下ろすルシアン様の瞳孔は、細く絞り込まれていた。
これまで、雌竜たちの熱烈な求愛や権力闘争にも「へえ、いいよ」とのらりくらりと躱し、何事にも執着を示さなかった彼が、初めて他者に向けて明確な『殺意』と『独占欲』を爆発させたのだ。
大人の余裕など欠片もない、怒れる最強の竜の本性。
圧倒的な力の差に、名門の騎士であるシオン殿すら顔を蒼白にして地に伏せることしかできなかった。
「ルシアン様、やめてください……っ!」
私がたまらずルシアン様の袖を引くと、彼はハッとしたように私を見つめ、ひどく不機嫌そうに一瞬だけ目を細めてから威圧感を収めた。
そのまま何も言わず、私の手首を掴んで強引に自らの私室へと連れ帰ってしまった。
***
その出来事から数日後。
ルシアン様の不機嫌は続いており、私は龍宮の奥にある厨房で、一人でお茶の支度をしていた。
そこへ、数人の高位の雌竜たちが冷たい眼差しで近づいてきた。
「人間の小娘の分際で、ルシアン様はおろか、名門のシオンまでたぶらかすなんて。本当に目障りだわ」
「ルシアン様の気まぐれもここまでよ。これを飲んで、さっさと龍宮から消えなさい」
そう言って彼女たちが無理やり私の口に流し込んだのは、テラコッタ色にくすんだ怪しげな液体だった。
喉を通った瞬間、全身の血液が沸騰したかのような激痛が走った。
「が、あぁっ……!」
床に倒れ込み、激しく咳き込むと、どす黒い血が止めどなく口から溢れ出した。
それは竜族の争いでのみ使われる猛毒。魔力を持たないただの人間が口にすれば、数分と持たずに内臓が溶け落ちて死に至る劇薬だった。
「ふふっ。これでようやく清々するわね」
「ルシアン様には、この下賎な娘が逃げ出したとでも報告しておきましょう」
嘲笑う雌竜たちの声が、遠く霞んでいく。
視界が真っ暗に染まり、体温が急速に奪われていく。あんなに酷い仕打ちを受けても生き延びたかったのに、こんなにあっけなく終わってしまうなんて。ルシアン様の温かい眼差しをもっと見ていたかった。
意識が手放される直前。
分厚い厨房の扉が吹き飛ぶ凄まじい轟音と共に、金色の髪を振り乱したルシアン様が飛び込んでくるのが見えた。
「メルティア……っ!?」
血だまりの中で氷のように冷たくなっていく私を見たルシアン様の顔から、すべての表情が抜け落ちた。
「ル、ルシアン様、これは彼女が勝手に……」
見え透いた言い訳をしようとした雌竜たちを、ルシアン様は振り返ることすら手間で惜しいというように、片手を軽く払った。
バキィィィッ! という恐ろしい骨の砕ける音と、雌竜たちの絶叫が弾ける。彼女たちは見えない巨大な力に壁へと叩きつけられ、無残な姿となって崩れ落ちた。
「……俺の持ち物を壊したのは、お前たちか」
地の底から響くような、禍々しい怒りに満ちた声。
ルシアン様は息絶えようとする私を固く抱きしめながら、生まれて初めて、狂わんばかりの恐怖に打ち震えていた。
彼女が消えてしまう。退屈だった世界の中で、俺の心を初めて鮮やかに揺さぶってくれた、たった一つの至宝が。
――もう遅い。自分が彼女を『番』として愛していることなど、とっくに気づくべきだったのだ。
「死なせない。絶対に、君だけは」
ルシアン様は私を抱きかかえたまま、祈るように自らの額を私の額へと押し当てた。




