◇11 空骸黑
◇11
右肩が痛い。
「……」
痛い……なんてもんじゃない。
皮膚は左右に裂けて、奥が見えている。ちょっとでも身じろぎして、空気の揺らぎにそこが触れる度、鎖骨の裏にまで激痛が走る。だから、呼吸はゆっくりとしなきゃいけなかった。
白い光を纏わせた杖の先を、傷口に近づけると、裂けた肉が内側から引き寄せられて、少しだけくっつく。糸を使わずに縫合するようなものだから、簡単にはいかない。その間も右の指先は痺れていて、ずっと感覚がなかった。
「っ、づ……!」
叫びそうになるのを、奥歯をぐっと噛んで堪える。
額を伝った汗が顎から落ちるのは、何度目だろう。いつのまにか、床には染みが広がっている。それだけの長い時間を使って、あたしは治癒魔術を使っていた。
拠点にしていた廃ホテルは、織草帷が結界を壊したので使えなくなってしまった。なので、今は別の場所に拠点を構えている。元々は塾だか自転車屋だったらしいけど、あたしにはどうでもいい。何にせよ、廃墟には変わらないし、どこにいるよりも、こっちの方がよかった。
身体の中身が照らされる度、あいつの——織草帷の顔が浮かぶ。そして、あの時を思い出すと、寒くもないのに全身が震える。
『——あああああああああああ!!!!!』
目の前で雷が落ちたような叫びだった。魔術で耳を撃っても止まらず、流れ出た血の力であたしの肩を削いできた。勢いは止まらず……斐上さんが横からふっ飛ばさなかったら、きっと……あのまま殺されていた。
「……っぁ……」
痛い。
熱い。
……怖い。
傷の縁が、脈拍に合わせて熱を発している。
こんなのを食らって動くなんて、やっぱり正気じゃない。
今も……〝体育館で戦った時も〟……そう思う。
織草帷。
あの女は……おかしい。
腹を、腕を、脚を……身体中を穴だらけにするほど撃った。それなのに——皮膚が削れても、血が吹き出ても、構わず踏み込んできた。
恐ろしかった。
治ることが……じゃない。
あいつが……〝ちゃんと痛がってた〟ことが……だ。
悲鳴をあげて、顔を歪めて——泣きそうになりながら、それでもあたしを倒そうとした。
「……なんで」
巫女の力で不死身になっても、痛みを消せるわけじゃない……らしい。だから、帷は、これまでだって、あたしが負った何倍もの痛みを抱えながら、ずっと化心と戦ってきた……そういうことになる。
「……なんなんだよ……っ、……」
つこうとした悪態が、痛みのせいで途切れた。
痛い。
痛い。
痛い。
同じ感覚が、リピートされ続ける。
痛いのは嫌だ。
苦しいのも嫌だ。
誰だって、そうに決まっている。
なのに、そのはずなのに、あいつは————
こつ、と。
廊下から、足音がした。
肩が大きく跳ねて、杖が指から滑り落ちそうになる。
こつ、こつ。
一定の間隔で近づいてきたその音は、閉じられた扉の前で止まった。
軋む音。
「——傷はまだ深いようだな、黑」
ドアを押して現れた男は、あたしのよく知る人だった。
「斐上……さん」
名前を呼んだら、詰まった息が抜けるようだった。
二人になるだけで、ただの埃臭い部屋でも、立派な〝砦〟に変わったような気さえする。
そんな意味のわからないこと、わかって貰えるわけがないから、あたしの中であたしにしか言わないけど。
「……! その怪我っ!」
斐上さんの肩口から胸にかけて、裂けたような跡があった。薄く鋭いものが通ったような断ち方。ジャケットの内側から滲んだ血が、生地を染めて黒い染みを広げているのがわかった。
「座ってて、すぐに治すから」
杖を握り直して立ち上がる。響いた痛みは、どうでもよかった。
「必要ない、既に塞いでいる」
斐上さんはそのまま、あたしの横を通り過ぎていく。足取りはいつも通り、歩幅も速さも、まるで怪我なんてしてないかのようだった。彼の言う通り、とっくに処置は済ませているんだろう。
埃が薄く積もった机の前まで移動して、足を止める。
そして、左手に持っていたものを——〝透明な箱〟のようなものを置いた。
あたしからは遠くに置かれたそれがなんなのか、初めはよくわからなかった。よくわからないので、腕を動かさないようにしながら、ゆっくりと近づく。
ガラスかアクリルのような四角い箱、その中にぴったりと収まるように、赤黒い物体が入っている。中には同じく透明な液体が詰められているのか、置かれた時に輪郭が揺れていた。
「……」
やがて揺れが落ち着き、それの姿がはっきりと見え始め————どくり、と。
〝脈打った〟。
「……!」
心臓だ。
人の、心臓だった。
塊から伸びる管は、どこにも繋がっていない。それなのに、小さなそれは、規則正しく脈を打っている。その度に、液面が細かく震えて、箱の縁に小さな波が走っていた。
あたしは、それを見たことはない。
けれど、何なのかは知っている。
きっと、それは————
「織草……帷、の」
名前が零れた。
……いや。
正確には、それが彼女のものじゃないことも、知っている。
千年前にいた花の巫女、織草筺花のものだ。
「…………」
どく。
どく。
どく。
脈はゆっくりと、けれども確かに動いていた。眠っている時の心音のように、規則正しく、途切れない。
身体から離れた心臓が、一人でに鼓動を繰り返す。
……〝生きていた〟。
あり得ない光景を、あたしは見ている。
説明のできない気持ち悪さを——たとえば、頭や四肢を捥いでも動いている虫を見ているような、そんな気分。ただそこにあるというだけで、どうにかなりそうだ。
けれども——と、気づく。
こっちが生きていたところで、これが入っていた〝もの〟は——どうなったのか、と。
「あいつは……」
声が掠れる。
「帷は……死んだの」
斐上さんは答えなかった。
ただ、箱をじっと見つめているだけ。
その様子を見て、自分はなんて馬鹿なことを訊いたんだと思った。
「そ、そうだよね! 心臓ないのに、生きてるわけないか。あいつがヤバいのは全部、心臓のせいなんだし」
斐上さんはやっぱり何も言わない。
ジャケットを軽く治しただけだった。
いつもと同じだ。この人は、あたしの言うことに一つ一つ答えたりなんてしない。必要なことだけを、必要な分だけ、伝えるだけだ。むしろ、いつも通りに無視されることで、悪いことは何も起きていないんだと、安心できる。
「二時間後だ」ふいに、斐上さんが言った。「それまでに治しておけ」
「は……はいっ」
背筋が伸びる。
右の肩が、じくりと灼けた。
斐上さんがようやく、こっちを見てくれた。怒っているとか、心配するとかではない、ただあたしがここにいることを確かめるだけの目線。こう見られるのは、嫌いじゃなかった。
「俺は……少し休む」
それだけ言うと、彼は近くの椅子に腰を下ろして、目を閉じた。背もたれが一度大きく軋む音がして、それきり動かなくなった。
「…………ぁ」
寝てるとこ、初めて見たかも。
あの怪我は、帷から心臓を奪うときに負ったものだろう。治っているとは言っても、浅かったとは思えない。だから、疲れて休むのは何も不思議じゃない。それなのに、椅子に沈んだその姿を、あたしはじっと見つめてしまった。
そっと息を吐いて、さっきまで座っていた席まで歩く。起こさないように……ずっと〝そうして〟生きてきたから、物音を立てないように歩くのは、慣れていた。
窓の無い部屋に、剥き出しの配線が這っている。聞こえるのは、水滴が落ちる音と、蛍光灯が点滅する音、そして——規則正しく、鳴る心音。
静かだった。
「——ああ」
声が掠れる。
胸と喉に何かがつかえて、息が詰まったみたいだ。飲み込むこともできないその何かが、あたしの中に留まっている。
……イラついてる?
かもしれない。
肩を抉られて、まだ痛くて、なのにあいつはいなくて、だから————ううん、
違う。
織草帷はもういない。斐上さんが、あたしの代わりにやっつけてくれた。だからもう、怖がる理由も、悔しがる理由もない。
……嬉しい?
そのはずだ。心臓も手に入った。ずっと進めていた計画が、最後の段階に入ったんだから、それは嬉しいことだし、喜ばないといけない。
でも……なぜか笑えない。
口の端は、上がらない。
この感情を言葉にしたその途端に、それが全部誤魔化したものになるような気がする。
あたしは、いま、何を考えているんだろう。
自分のことのくせに、そんな簡単なことが、わからない。
「…………」
わからないまま、あたしの目だけは、箱から動かせないでいた。
どく。
どく。
どく。
あんなものを、何の関係もない人間に入れる。
斐上さんが真相を言うまで、帷は何も知らなかった。何も知らないまま殺されて、何も知らないまま心臓を入れ替えられて、何も知らないまま戦って、そして今度こそ————殺された。
初めは織草鏡花の都合で、そして終わりは——斐上弦慈の都合のために。あたしと……たぶん同じ年くらいの子が、大人の目的に振り回されて……〝使われた〟。
「…………っ」
指先が冷たい。
なんであたしは……〝怒っている〟んだろう。
もっと喜ばなきゃいけないのに、なんであいつの側に立って、自分だったらどう思うか、なんて考えてるんだろう。
織草帷は敵で、あたしは斐上さんの————。
「いった……!」
痛みを思い出したせいで、考えが全部吹き飛んだ。
なぜだか、ホッとした。




