◇8
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どうすれば、この男の凶行は止まるのか。
抱いた問いが、ぐるぐると巡る。
言葉は通じるのに、会話ができない。
価値観や道徳……それ以前の〝どこか〟で、彼とは決定的に違えているのだ。
だからこそ、止めるには————否。
止めるって、なんだ?
たとえばそれは、アレが動かなくなることか?
杖を奪えば、手足を縛れば、口を塞げばいいのか?
「…………」
でも、それなら、
動かなくさせればいいなら、
答えは……とても簡単だ。
寧音の名前を出された瞬間から芽生えた、ある種の〝冴えた〟感覚は、いつのまにか、安堵にも似たものに変わっていた。
顔を上げる。
「お前を——」
〝殺す〟。
〝生きていない〟状態にする。
決断した途端に、すとん、と何かが窪みにはまったような気がした。
「〈染み込め〉」
命じる。
対象は、壁に張り付き続けているわたしの血。
切り裂くことが叶わず、無駄に撒き散らしただけと思われたが……まだ、力は残っていた。
「何を——」
斐上が眉を顰めた。
直後、わたしの目論みは表出する。
「〈広がれ〉」
みしり、と。
硬いはずの壁の奥で、軋む音がした。
亀裂が走る。
一本、二本——まるで、蜘蛛の巣のように。
いつの間にか、二人を隔てる壁は……赤く染まっていた。
どうやっても壊すことのできなかった絶対的なものに、初めて能力が干渉した。
斐上のデザイアが何をする力なのかは、未だ掴めていない。
この壁がどういう原理なのかも、正確に把握できていない。
しかし、事実としてわかっているのは……互いの〝声〟が聞こえるということ。
声は、空気の震えだ。
それが通り抜けられるということは、この壁には、空気が抜ける〝隙間〟があるはずだ。
否。
そのように〝解釈〟した。
これは術によって〝空気を押し固めたもの〟であり、完全に塞がったものではない……と、定義して、その隙間に血を巡らせることにしたのだ。
心術は、思い込む力。
葵さんとの戦いを経て、学んだことだった。
「〈砕けろ〉」
次の瞬間。
赤の景色は、内側から膨れ上がり、弾け飛んだ。砕けた破片が、竜巻のように散って、掻き消える。
斐上の牙城を……崩した。
「器の言霊でさえ、魔術を壊すか……!」斐上が苦々しく言う。「既にそこまで馴染んでいるとはな、お前は随分とアレに気に入られた——」「〈研げ〉……っ!」
手元に残った僅かな血を刃に変え——果物ナイフ程度のサイズだが——斐上に飛びかかる。
「——ッ!」
わたしの赤と、わたしではない赤が散る。
散った赤が、わたしの右手を、少し塗る。
当たった。
切った。
抉った。
まだ、足りない。
致命傷には、至っていない。
届かせるには、あと、ひと押し。
心臓が高鳴った、気がした。
「〈二度と還らぬ砂の城〉————」
手負いとなって尚、斐上は唱える。
ガコン、と頭上で音が鳴った。
網棚だ。
列車に備え付けられている、金属の荷物置き場。それが水飴のように、ぐにゃりと歪み、垂れ落ちる。流れたそれは、わたしの右手首、腕、肩に絡みつき、即座に〝硬さ〟を取り、拘束した。
……動けない。
振り上げた腕が、捻じ曲がった金属の檻に、縫い留められている。
「は——」
またしても、不可解な現象。
ひとつのデザイアで、様々なものに干渉できる能力。たしかに、強力だと認めるしかない。
「……だとしても」
それが、なんだっていうんだ。
動けない程度で、動かないとでも思ったのか。
身体を封じたとしても、届くものはある。
心臓が再び鳴った。
今度は正確に、感じられた。
借り物の、花の巫女の力が、わたしの中で呼応する。
——言ってしまえ。
——そうでなければ、あれを。
一番強くて、一番昏い言葉が、湧き上がる。
「〈死ね〉————」
唇が象り、言葉が紡がれる。
寸前、【誰か】が止めたような気がしたが、どうでもいいと突っぱねた。
そして————。
倒れたのは、わたしだった。
「……——ぁ」
口から、血が溢れた。
咳でも、傷でもない。
身体の芯から押し出された、どす黒い塊。
膝が、折れる。
いや——折れることすら、できない。
捻じ曲がった金属の檻が、崩れ落ちることさえ許さず、わたしを縫い留めている。
指の一本すら、動かせなかった。
……治らない。
切り傷も、打撲も、撃たれた穴さえ、一瞬で塞いできたこの身体が——この〝何か〟を、治そうとしない。
「なん——で」
見上げる。
斐上は生きていた。
腕から血を滴らせながら、檻に掴まれ、項垂れるわたしを見下ろしていた。
「人を呪わば穴二つ、か」斐上の冷めた目がわたしを刺す。「その〝言葉〟は、お前の手には余ったらしい」
そう言うと、斐上は杖を持ったまま、わたしに背を向けた。
顔は見えない。ただ、杖を上げる姿だけが見える。
その先端は、対峙しているわたしに向いていない。
そして——乗客にも向いていない。
意味を測りかねていたのも束の間、射線上にあるものが〝どこなのか〟を察した瞬間。わたしは激しく抵抗した。
——嘘だ。
——そんな、恐ろしいことが。
「やめ……!」
声が、出ない。
喉に絡んだ血の塊が、言葉を押し潰す。
杖の先に、白い光が凝っていく。
そうして、魔力の塊は——〝運転席〟に向かって放たれた。
それは座席を、壁を、扉を——いくつもの隔たりを、まるで無いもののように貫いて、列車の先頭へと吸い込まれていった。
遠くで、何かが弾ける音が、ひとつ。
それきり、何も聞こえなくなった。
列車は、止まらなかった。
減速も、しない。
運転士を失った特別快速は、何事もなかったように、ただ前へ、前へと走り続けている。
制御を失ったからか、心なしか速まっている気すらする。
窓の外を、灯りが高速で流れていく。
近づいてくるのは、次の駅の灯りだ。
ホームが見える。
この列車は止まれない。
このままじゃ、そこにいる人たちは。
——動け。
止まれ。
——動いて。
止まって。
お願いだから——!
『——速報です』
『今日午後三時過ぎ、縹丘線を走行していた特別快速の電車が、停車駅である鴇谷駅のホームに高速で進入したまま脱線し、複数の車両が横転する大きな事故がありました』
『警察と消防によりますと、これまでに、乗客やホームにいた利用客あわせて十四人の死亡が確認されたほか、少なくとも百人以上が病院へ搬送されています。横転した車両の中には、今も多くの人が取り残されているとみられ、死傷者の数は、さらに増えるおそれがあります』
『電車を運転していた運転士とは、連絡が取れていません。当時、なぜ駅の手前で減速しなかったのか——ブレーキが正常に作動しなかった可能性も含めて、警察などが原因を調べています』
『繰り返します。今日午後三時過ぎ——』




