◇7
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また人が死んだ。
抗えなかった。
後ろで倒れたのが、男か、女か、若いのか、年老いているのか、わからない。
悲鳴も、呻き声も、聞こえなかったからだ。
しかし、目を向けて、確認することもできない。
事実を直視するのが、恐ろしかった。
見えているのは、血に濡れた右手だけ。
傷は、とっくに治っていた。
「〈切り裂け〉!」
そのまま手を強く振りかぶり、掌に溜まった血液を、彼めがけてぶち撒ける。
「〈二度と還らぬ砂の城〉」
斐上は動かない。
避ける必要がないと言わんばかりに、彼はただ一言、唱えるのみ。
ピタリ、と、わたしの血は、ガラス窓にインクがかかったみたいに、虚空にベッタリと張り付いた。
「また……!」
例の、透明な壁か……!
幅は列車のそれとほぼ同じ、厚みは斐上の身体から数十センチはある。
「――くっ!」
両手で壁を叩く。
まるで水族館の巨大水槽だ。
分厚く、硬く、重い。
壁の向こうの斐上は、相変わらず感情のない目でわたしを見下ろしていた。
「……もう、やめて」
喉の奥から、せりあがるものを、彼にぶつける。
「やめて……ください……!」
再び、血に濡れた両手を叩きつける。
鈍い音が響いた。
声だけだ。
声だけしか、通らない。
「みんな、何の罪も無い、ただ電車に乗ってきただけの人です……なのに、どうして……」
どうすれば……この行為を止められる?
これ以上のことが起きないために、何ができる?
既に四人が死んだ。
わたしが傍にいながら、誰一人、守れなかった。
視界に映るのは空中に張り付いたわたしの血。まだ乾いていない、血が多く付着した箇所から、滴が線を引いていた。それが、目の前の壁の質量と厚みを、嫌でも思い知らせてくる。
わたしの訴えに対し、斐上が動じる様子はない。退屈な報告を聞いたように、彼は平静を保っていた。
「妙な物言いだ。では彼らが罪人だったら、殺してもいいと?」
「……!」
「誰であろうと、罪を測る権利や、罰を決める権利はないだろう。それなのに命の価値について論じるのは、自らが正しい側にいると思い込んでいるからだ」
「何を……」言っているのか、わからなかった。
思考が結びつかない。
「何故殺すのか、理由は既に言ったはずだがな……お前の心臓を奪う前に、多くの〝死〟を見せるためだと。花の巫女の器として再起動したお前は、記憶と感情の多くが欠落していたのだろう? ならば、〝化心を滅ぼすモノ〟として覚醒させるために、その欠落したものを新たに補う必要がある。一番効率が良い方法は、化心と戦う経験を積むことだった。その証拠に――お前は多くの化心と戦ってきたが、たとえば蝶の化心と戦った頃よりも、今のお前は随分と〝人間らしくなった〟と思わないか?」
そう聞いてきた斐上は、しかし返答を待っているようではなかった。
ただ自身の中で得た結論を、滔々と語っているにすぎない。
そして今この瞬間でさえ、わたしがどう反応するのかを、観察しているように思えた。
対してわたしは……ただじっと睨むことしかできなかった。
言い返すための言葉が、浮かばなかった。
斐上が続ける。
「化心との戦いを通して、お前の心臓は刺激され、全盛期までとはいかないまでも、花の巫女としての力を取り戻し始めた。致命的に足りなかった刺激は、〝死〟による喪失感だけ……〝運悪く〟お前は化心との戦いで、死亡者を出さなかったからな。織草葵をお前自身の手で殺してくれればその部分も達成できると踏んだが……予定が狂った。故に、こうして〝量で誤魔化す〟策をとっている」
なんでもないという風に。
斐上はそう言った。
人の死を。
人生を。
心を。
まるで――――何のように?
形容する単語が、思いつかない。
「これだけの死を見るのは初めてだろう、織草帷。顔を見るに、心には多大なストレスがかかっているとみえる」
自分がどんな顔をしているか、わからない。
当たり前だ、自分の顔を自力で見ることはできない。だけど、斐上がそう言うということは、きっとそんな顔をしている。
斐上は初めて――口元を歪めた。
「ならば良かった。お前の心が育ったのなら、ここにいる彼らは、死んだ甲斐があったということだ」
「ふざけるな」
掠れた、低い声が漏れた。
自分の声とは、思えなかった。
「お前は……ただの、人殺しだ……!」
この男は狂っている。
常軌を逸している。
理解できないものを前にして、声が震える。
けれども、言わずにはいられない。
だって、これは、許されないことだから。
「正しさとか……目的とか、知らない。でも、どう繕っても、お前がやったのは、それだけだ。命を奪う理由には、ならない……!」
「そうだな。お前の言う通りだ、織草帷」
壁の向こうにいる斐上は、否定も弁明もなく、あっさりと、そう答えた。
「俺は人殺し以外の何者でもないし、手段としての殺人に、躊躇も快楽も持ち合わせない」
「…………」
もはや、人間の言葉は通じない。
まともな対話を望んでいる場合じゃない。
わたしがやるべきは――
「――ひとつ、訊くが」
彼の目が僅かに細まるのが見えた。口元と合わせて、その表情は、笑みに似ていた。
……ああ。
わたしは、愚かだった。
その笑みを見た時点で、彼の言葉を一音でも聞くべきじゃないと、断ずるべきだった。
極端な話、耳でも塞いでいれば良かったのだ。
そうすれば、これ以上心が乱されることはなかったのに。
最後の最後で、わたしの中の〝致命的な部分〟を掴まれるのを、許してしまった。
「――雲坂寧音を殺すと決めたとき、お前の心は、人殺しのそれだったか?」
静かだった。
元々音の乏しい空間ではあったが、今はさらに静寂を感じた。列車の走行音はもちろん、周囲にいる乗客の存在感さえ、どこか遠くにあるような気がした。
脳が冷え切り、澄み渡っていく。
張り詰めていた細い糸が呆気なく断ち切られるような、冷たい感触だけが、わたしを支配していた。
心が、凪いでいた。




