2. 砂糖の数
夜の廊下は、祝宴の熱が嘘のように冷える。長椅子に下ろされると、靴の先が床に届かず宙に浮いた。足を下ろし直しても、床は遠い。侍女が肩掛けを取りに先の部屋へ入る。角の陰で、叔父は下端を折った紙を叔母へ開いて見せている。
「今年の鍵は預け直されていない。だが、先代の委任状を見せれば手元に残せるだろうね。期限の行は折ればいい。宰相も客も中身は知らん。家の管理役だって、先代の委任に口を挟むまいよ」
叔母が長椅子へ顔を向け、紙の端から私へ目を移す。
「兄上、ローザちゃんに字を見られますわよ?」
「拾い読みができても、意味までは分からんさ。君はそこで、おとなしく遊んでいなさい。紙より兎のほうが楽しいだろうね」
言われたとおり、兎の耳を結んではほどく。柔らかな耳はすぐ元に戻るのに、あの紙の折り目はきっちり押さえつけられていた。父の字で書かれた委任状だ。
戻った侍女に居室へ運ばれる。暖炉には火が入っていた。待っていた宰相は衝立の向こうへ下がる。イムケの栗色のきつい編み髪が衣の留具へ屈んだ。そのまま軽い部屋着を広げる。
「こちらの衣でよろしいでしょうか? 袖が長ければ、私がお直しいたします。楽になさってくださいね」
重い袖を離し、薄い布へ手を入れる。腕を上げても引き戻されず、布がすんなりついてきた。たったそれだけで、肩のあたりが楽になる。
「これがいいの。前のお袖は、私が歩くとついてきちゃうよ。止まっても、お袖はまだ歩こうとするの」
「まあ。では、こちらの重いほうは畳んでおきますね。お袖にも、お休みいただきましょう」
紅茶が低い卓へ置かれ、イムケの黒褐色のまっすぐな目が私の顔を確かめた。湯気に、柑橘の皮の香りが混じる。太い眉を少し寄せ、イムケは茶器の盆を抱える。
「茶器を片付けたら、扉の外に控えております。お疲れなら、すぐお呼びください。どうぞ無理はなさらず」
扉が閉じ、盆の音も遠ざかる。
『はぁ……。困ったことになったわ……』
砂糖を三つ、迷わず茶へ落とした。名代の口付けは作法どおり。
議会の外で私と利害を持たず、私を幼くする得もない男だ。その宰相が匙を見て口を開く。
「閣下。紅茶に砂糖を三つ入れる五歳児はおりません」
「ん?!」
会って五分で見抜かれた。
銀の匙を握ったまま止まる。小さな手のせいにしたいが、匙はまだ茶の中だ。
「くっ! 甘党の子供もいるでしょ? 匙の動きだけで、中身まで決めつけていいの?」
宰相は自分の杯を置き、薄い唇を緩める。
「はは。二十年前、お父上の勘定稽古で拝見した手順です。帳面は正しても、甘味は減らさない。その頑固さまで同じですね?」
「十九年よ、数字は正確に! ふんっ!」
椅子の背へ体を起こす。父の勘定稽古で、七つの私と十歳の彼が初めて会った。あの日の顔はもう思い出せないのに、年数だけは忘れない。議会で十年、家の意見をぶつけてきた相手だ。甘味の勘定まで議題にするな。
宰相の笑みが少し深くなる。
「その訂正の速さも覚えております。子供のふりを通すには、私の誤りをお許しにならねば。そこがいちばん難しそうですが……。くっくっく」
「わざと間違えたわね……。なんて、悪い性格なの? 子供のふりより、そちらを我慢するほうが難しいわ」
「議会では、閣下が私の誤りをよく笑っておられましたよ。今夜だけ私に譲ってくださってもよいでしょう? くふふふ」
匙を引き抜き、皿へ伏せる。宰相は私の茶から視線を外した。笑いが消えると、声の冷たさだけが残る。
「そこまで頭が回るなら、身体が小さくなっただけですよね? 先ほどの書付も、中身を理解して皆様へ示されたのですね?」
「ええ。あのぬいぐるみで、耳まで塞げると思ったらしいわ。しょうもない連中!」
菓子皿へ手を伸ばした。銀の縁は冷たいのに、菓子には届かない。
「……うっ」
だが、この皿を寄せて、が口に引っかかる。父の教えどおり涙など要らないが、皿に届かないだけで視界の端がにじんだ。
宰相が皿を寄せる。礼が遅れ、私は伸ばした腕を引っ込める。
「……まだ、皿を寄せろとは言っていないわ」
「悔しがるのは、お召し上がりになってからどうぞ。くふふ」
菓子を取ると、もう皿の縁に腕を押しつけずに済んだ。私が言えなかった頼みだけが、届く場所に置かれている。礼の代わりに、まずは私の約束を差し出す。
「私はあなたに嘘はつかないと誓おう。聞いたことと、見たことしか言わない。作り話で勝つ気はない」
王命の原本を畳む彼の手が、菓子皿の手前で止まった。
「養育者に任じられるのは、成年の一族だけです。誰を選んでも、呪いを頼んだ者へ財を渡しかねません。吟味を延ばし、候補は邸内に留めましょう。さて、私には何を求め、何を返されますか?」
皿の代わりに紙を引き、机の端へ揃える。
「戻れたら、監査案に一票。私の帳簿は、私にも読ませなさい」
「安くはない。ですが、閣下の一票なら釣り合います。帳簿はお渡ししましょう」
廊下で鍵が鳴った。声を細く戻す。宰相が扉へ向く前に、菓子は口へ収めておく。甘さが舌に広がって、少しだけ腹立たしさが溶ける。
「さいしょうさま、おじちゃまが来たよ。鍵がじゃらじゃらいうの」
◇
宰相の手を借り、小広間まで歩く。大きな手は私の歩幅に合わせ、一度も引っぱらない。叔父は鍵を握り、叔母と客は卓に並んでいた。銀白の薄い分け髪の痩せた男、ゲーアノートが委任簿を運び、長い鼻筋ごと背を伸ばす。イムケは居室へ戻る。叔父が鍵を握り直すと、その声だけがよく通る。
「財務の鍵は、先代の委任で私が預かる。後見人殿の出る幕ではない」
卓の委任状は、下端を折ってある。覗く私へ叔父が端を差し出した。宰相の隣で、ゲーアノートの橙茶の小さな目が条項を追う。家令の委任簿は、もう今年の頁が開いている。宿敵の手配はずいぶん早い。
私は紙の端をつまみ、叔父を見上げる。
「おじちゃま、この紙で、おふね折ってもいい?」
叔父が喉を鳴らして笑う。
「はは、いいとも。折るだけなら文字も消えん。君には退屈な紙だろうね。遊んでいて構わんよ」
「わぁい!」
折り目を開いた。舟のへりにするには、隠れた端まで伸ばす必要がある。
「そぉれ!」
父の字の最後の行が、蝋燭の下に出た。家令がその端を客へ向ける。
「おや? 期限は当主の相続まで、とございます。先代の委任は相続時に終了。今年の預け直しも、委任簿にはございません。折られていたのは、この期限の行でございます」
「へっ?!」
叔父の鍵が卓に触れ、客の目が原本へ集まった。紙はもう、元の幅に広がっている。叔父はその折り目を撫でる。
「あ、あははは……。相続で切れたのは確かだ。今年も儀の途中だったから……預け直しは受けていない。だが、扱いを知るのは私だよ。そこは認めてもらいたいね」
「扱いと権限は別です。鍵はゲーアノートへ。公爵閣下には、帳簿をご覧になる席を設けます。引き継ぎへのご協力に感謝します」
叔父の手から鍵が離れた。卓に残った紙の折り目は、伸ばしても消えない。蜂蜜色の巻き髪を揺らし、叔母フレデリーケが衣装を広げる。今度は鍵の代わりに、襟の値踏みだ。
「教育はわたくしがいたしますわ。紙より、こちらをご覧なさいな。ローザちゃん、この襟ならお気に召すでしょう?」
叔母の菫色の細めた目が返事を待つ。家令は養育費書付を裏返し、赤い封材の注文控えを並べた。叔父が紙を引く。
「封材は家の用だ。私の出納を疑うなら、使い先も確かめてもらいたいね。鍵の話だけで、何もかも疑われては困るよ」
叔母が衣装を畳む横で、宰相が控えを開く。
「教育は仮の役です。明日の晩餐で、皆様の申出を伺います。ご準備に感謝します」
「では朝の教育に、宝石商を呼びますわ。本物を知らずに淑女にはなれませんもの。見る目を育てるのも、教育ですわ。うふふふ」
親族も客も退席し、家令が鍵を持って出る。宰相と居室へ戻り、扉が閉じた――。
帳簿の席は得たが、ままならなさに面白くない。皿に届かなかった腕でも、この家の勘定は私の手へ取り戻す。
私は低い卓の空き場所を指した。
「明日は、あなたより先に見つけてみせる。私の家の勘定だもの」




