1. おじちゃま、だあれ?
晩冬の卓で、祝賀布のつやと鍵の盆の冷たい光が並ぶ。王の名代が、杯を手に私の右で止まった。
「公爵閣下の誕生日に、国王より祝いを」
蜜蝋と、焼いた鳩の脂の匂いが混じる。向かいに叔父たち、端に大叔母と従妹。客は卓の周り、侍女と侍従は壁際に並び、給仕は空杯を揃えて退く。名代が祝いの口付けをして杯を置いた。当主の杯に唇を付けるのは、作法どおり彼だけだ。祝詞を聞き、銀の冷たさを手に受ける。
私、ローザムンデの二十六歳の誕生日。祝杯を干した瞬間、体が縮んだ――――。
「……え?」
ずり落ちたドレスの重さに、短い手足が埋まる。布を押しのけ、卓横へ這い出す。ほどけた私の深紅の長い髪が床を掃く。さっきまで長身に鉄の背筋、高く結った髪だった。今は、落ちた銀杯さえ両手でなければ持ち上がらない。屈む叔父エッカルトの、油の浮く焦茶の髪が近づく。
「おやおや可愛くなっちゃって……。怖がらなくていい、叔父だよ。君、私が分かるかな?」
侍女が布で包み、私を抱き上げた。支える腕は温かいのに、背中だけが硬くなる。下ろしてほしい、の代わりに布の端を握る。離してほしくない、のほうは言葉にできない。大叔母が皺の寄った手で布を支えた。
「怖くないようにしましょうね。ここに皆おりますよ。あなたは何も心配しなくていいのですよ。ふふふっ」
低い席へ下ろされ、侍従の手鏡を両手で持ち直す。私の金茶の丸い目が、こちらを見返す。ふくふくした頬に、五歳の顔。卓越しに見上げる大人の顎は、声をかけるのもためらうほど遠い。
親族の目の色が変わる。叔父は財務の鍵を、叔母は宝石箱を、従兄は公爵の椅子を見た。
盆の鍵は毎年この日に預け直す。今年はまだだ。客が鏡を覗き込む。
「お顔まで小さく……」
叔母は宝石箱を手元へ引く。
「ローザちゃん、こちらを見なさいな。おばちゃまのお顔、覚えているかしら?」
呪いは魔女に金で頼むもので、頼んだ者が自分の手で包みを飲み物に溶かす。魔女は自分のためには呪わない。この家の支度に給仕は触れず、杯に近づけるのは私と名代と親族だけだ。
この中に、呪いの依頼人がいる。
侍女が布を引いた。
「寒くありませんか?」
大叔母が膝掛けを広げる。
「これも掛けましょうね。小さな体ですもの、冷やしてはいけませんよ」
祝杯の名代は宰相ジークバルト。議会で十年、家の意見をぶつけ合ってきた宿敵だ。親族の手当を帳簿で削ったことに、悔いはない。恨む者の数なら、この卓の椅子の数と同じだ。
〈鉄の女公爵〉と呼ばれた私は、一秒で決めた。
賢く喋れば、私のいない所で相談が始まる。なら、何も分からない子供でいればいい。布から顔を出し、叔父を見上げた。
「……おじちゃま、だあれ?」
叔父の頬がゆるむ。叔母は扇の陰へ口元を隠す。
「まあ……本当に、何も分からないのね。さっきまであれほど怖い顔でしたのに。ふふふふ……」
叔父は私の顔を覗き込んだ。
「子返りの伝えどおりだ。心まで小さくなったんだろうね。これからは私たちの言うことを聞けばいい」
名代が席を立つ。
「この次第を、すぐ国王へお知らせします」
広間を出ていく背を、叔父の目が追った。その手は、もう鍵の盆にある。
◇
夜の広間で、遺言に立ち会った客が紙を開く。親族は私の低い席を囲み、侍女と侍従は衣の始末、ほかの客は奥で帰り支度だ。立会いの客が条文を読む。
「当主が幼くして務めを果たせぬ間は、養い育てる成年の一族が家の財を預かる、とございます。当主はローザムンデ様のままです」
叔父は鍵を揺らした。
「財務なら私だろうね。子守りにも金の心得が要る。日常費を決める印も私が持てば安心さ。衣も菓子も、但し書きさえあれば出せる」
叔母は宝石箱を抱く。
「衣装と教育はわたくしですわ。兄上に淑女を育てられますの? 帳面に寝かせて育ちますこと? 泣いたら但し書きを付けますの?」
従兄が公爵の椅子を叩いた。
「守りは俺に任せろ! ローザを抱えて歩ける奴が必要だ。勘定は叔父上に頼めばいい! 叔父上の但し書きなど、俺はいらん!」
大叔母は私の布を整える。
「母のいないあなたを育てたのは、わたしですよ。急ぐことはありません。ゆっくり大きくなりましょうね」
従妹が落ちた布を拾った。
「私、手伝いなら……閣下のそばで、できます。お邪魔には、なりませんから」
叔母の扇が従妹を払う。
「あなたは黙っていなさいな。大人のお話に、口を挟むものではありませんわ」
大人の膝が、私の周りに壁を作る。誰も、私に何がしたいかとは聞かない。当主の私だけが、話の輪の下にいる。
叔父の黄土色の泳ぐ目が書付へ戻る。立会いの客は紙を畳み、奥の客の輪へ移った。叔父は私にぬいぐるみを渡す。使用人は衣を運びに扉際へ。私の席のすぐ脇で、叔父は叔母へ身を寄せる。
「去年の帳面の穴は養育費に載せればいい。馬具と葡萄酒樽を先払いにして、私の名の商会で受ければ埋まるだろうね。字を拾えても、この子に費目の意味など分からんよ」
叔母の箱が卓に鳴った。膝の間から書付を見上げる。馬の印の横に馬具、葡萄酒樽。先払先には叔父名義の商会。この高さからでも字は読める。読めないふりをすれば、書いた本人が意味まで教えてくれる。
叔父が書付を押さえた。
「家計はこちらの役目だ! 君の飾りに、金を空けておくわけにはいかん!」
「教育の費用を先に積みなさいな! 服も揃わないうちに、家計の話ばかり!」
先払欄へ叔父の手が滑り、叔母は紙を引く。鍵の音に、立会いの客が振り向いた。
「世話には先に金が要るだろうね! 私に立替えろと言うのか?」
「兄上だけが先に取るのは、おかしいですわ! では、わたくしが立替えますの?」
叔母が客へ顎を上げ、立会いの客も卓際へ戻る。叔父の猫なで声が裏返る。
「私が先に名乗った! 順番は守ってもらおう!」
「まだ何も育てておりませんわ! 勘定だけは早いこと!」
ぬいぐるみを膝に置き、馬の印を指す。
「おじちゃま、そのお金、私のごはんに使うの? おうまの鞍と葡萄酒で作るの?」
客が紙を持ち上げた。
「養育費に馬具と葡萄酒樽。先払先は財務役本人の商会です。これを養育のために払うのですか?」
「まだ払ってはいない! 先に受ける案だ。取り分を確保してから世話をする、支度だよ!」
客の手が止まる。取り分だけは、子供にも分かりやすい。
入口から、祝杯の名代だった男が戻ってきた。墨黒の撫で髪の宰相ジークバルトだ。掲げられた王命へ、叔父が書付を差し出す。
「財務を預かる私に、お任せください。家の事情を知らぬ方が子守りを選べば、かえって揉めます」
宰相は書付より先に、王命を私の低い席へ向け直した。原本の端が手に届く。
「先に王命をご覧ください。王宮から戻りました。親族では家が割れるため、利害のない私を後見人に、とのご命令です」
侍女へ衣の重さを確かめさせ、彼は私の前へ片膝をつく。宰相の藍緑の切れ長の目が、紙と同じ高さへ下りる。議会の壇から十年、私を見下ろしてきた目だ。
「子守りを決めるのは、後見人である私です」
支出を止める言葉を探す間に、宿敵が場を閉めた。蝋燭の匂いが濃い。目の奥が熱い。五歳の体は、悔しさまで涙に変えたがる。父の教えは、当主に涙は要らない。瞬きを一つ数え、届くところに置かれた原本の端を引き寄せる。頭上で叔母が箱を寄せた。
「では教育費は、わたくしにお預けくださいますの? この子に恥ずかしい格好はさせられませんわ」
私のためと言う声は、私の頭上ばかりを行き交う。宰相は該当箇所を押さえる。
「財を預かる養育者は私が任命します。決まるまでは出納を凍結し、日常費のみ管理役へ。宝石の持ち出しにも、私の承認が要ります。ご安心を。取り分の相談は、ここまでです」
叔父へ顔を向けた叔母は、私の頭越しに扇を開いた。
「凍結ですって。兄上、明日の支度のお金はどうなさるの?」
「なに、日常費は出る。この子の菓子代くらいなら、いくらでも書けるさ」
五歳児の前なら、大人は何でもしゃべる。




