1話 生まれ変わってゴブリンに
彼は浮遊感を覚えていた。実際、彼の体は浮いていた。自分が下へ勢いよく下がっていくのを感じる。
それに反発するように、空気が風となって自分の身体を音を立てながら押し戻そうとするのを身体全体で感じるのだが、不思議なことに、彼は自分の身体を見ることができなかった。ただ、視界のみがある。
彼は自分の上に、黒々とした、巨大で果てしなき影をみとめた。
――あれは?
その一切の濁りもない黒い影は、空一面を塞いでいる。そこが空だと、身体が感じる重量のせいでわかる。
身体の左右には、燃え滾る炎が渦巻いて、地面を割いているのが見えた。地面の亀裂からも紅蓮の火が火柱を捩じらせながら噴出していた。
――ここは、なんだろう?
地獄だろうか、とも思う。熱い、と彼は思った。ここはひどく熱い。炎が地表で逆巻いている音が聞こえてくる。大地は赤と茶色で、隆起したり巨大な岩のように張り出したり、途方もなく地面を割く谷間であったりした。
彼は目を閉じた。――瞼の感覚はない。だけれど、彼はそのような意識を、感じた。
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。ぼんやりとした意識がはっきりすると、彼は今度は完全に闇の中にいた。誰かが近くにいる、と彼は思った。深い闇の中だから何者の姿も確かめることができない。だが彼は誰かが近くにいると確信していた。身も震えるほどの恐ろしい気配がするのだ。
――おれを……呼んでいる?
ずるり、と何かが這う音がした。
――だれ?
這う音に、水の滴る音が混じった。ほのかに身体が熱い……。
彼は再び、自分の身体が沈み込んでいくのを感じる――。
彼は微睡んでいた。視界はぼんやりとしていて、物の輪郭が現れたり消えたりしていた。しばらくすると、彼は誰かが自分をのぞき込んでいるのだと気が付いた。彼はなんとなく、それに答えるように目を見開いて、景色をはっきりさせようと思った。緑かかって見えるそれは、はじめは揺らいで見えたが、だんだんと輪郭をはっきりとさせるようになった。
顔に深いしわを刻んだ化け物が目の前にいた。化け物は深緑色の肌をもち、ひどく醜い。彼は愕然として身体を震わせた。つい叫び声を上げたつもりが、出てきたのは泣き声だった。自然と自分が泣くから、彼はこれにも驚いた。泣き声以外のものがのどから出なかった。
え、と彼は内心で動揺する。
醜い化け物は彼をのぞき込むようにする。年老いていて、動きはゆっくりとしていた。この化け物は右目を大きく見開いて、彼の顔の間近に持ってくる。化け物の顔は恐ろしい。彼は逃げようとするが、手足はばたつくばかりだった。
(なに? どうして?)
相変わらず、その問は言葉にならない。
化け物が口を開いた。その口は大きく、口の端は頬を割くようにすら見える。中の歯はいびつな並びで、みな先が尖っている。汚れているのだと思う、歯は黄色い。そういう色のつき方だった。舌は口の中で収まっているが、尖端がとがるように細まっていて、分厚い。
「ロムル――おめえ、目がよ」
言ってから、化け物は顔を離した。
彼は混乱しっぱなしだった。化け物が喋ることにも驚いたし、言葉が自分に通じることにも驚いた。ロムル、と化け物は言った。それは誰かに呼びかける風だった。彼は自分をじっと見つめていた。目をぐっとこちらへ近づけて……。
彼はひとしきり泣き続けた。身体が泣くのをやめさせてくれなかったのだ。その間、手足にぐっと力を入れて握り続けていた。これもまた、身体が勝手にそうするのだった。泣いてる間に、自分の身体にうまく力が入らないこと、そのせいで身体が不自由なことがわかった。そして感覚から、自分の手足が極端に短くなったことにも気が付いた。まるで幼児のように。
涙がおさまって一息つけた。どこからか、あの年老いたように見える化け物が現れて言った。
「ああ、ロムル。泣き止んだか」
この化け物は、また自分のことをそう呼んだ。
この化け物の耳は先が尖がってやや後方に伸びている。鼻が大きく、これが顔を一層醜くしていた。
ロメルと呼ばれた彼は化け物に持ち上げられた。自分が化け物にいとも簡単に持ち上げられたとき、彼は内心息をのんだ。
化け物は彼を自分の腹のあたりで抱いた。自分の周りには小さな化け物の子供がたくさんいた。みんな裸で置かれている。彼らは乱雑に置かれていて、重なりあったり、あおむけだったり、伏せていたりした。自分はその中の一人、いや一匹なのだった。
――自分は赤子になったのだ。だから、自分は泣き叫ぶし、手足がうまく動かせないのだ。
(ロムル……それが、おれ? ……ここは?)
彼は茫然とした意識を努めてはっきりさせようとした。どうして自分はここにいるのかを考えた。
「お前だけだ」
化け物はしゃがれた高い声で語りかけるように言った。
「こんなに眼をきょろきょろさせやがるのは」
言って、化け物は彼を自分に向くようにしてから掲げた。彼は化け物を見る。彼は何かを言おうとしたが声は言葉にならずに、幼稚なただの音になった。
「おめえの眼はきれいだあ。え? どうしてお前だけそんなにきれいな眼をしてるんだ?」
化け物は彼を見た。彼も化け物を見たが、何も答えられなかった。
再び寝かしつけられた彼は、記憶を手繰る。確か自分は部屋を飛び出した。激しい怒りと不安を、彼は鮮明に覚えていた。そこから、夢中で家を出て、街の中で立ち尽くした。……そう、そして、自分は道路へ出てトラックにひかれたのではなかったか……。




