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紅華の原 蒼の空  作者: 奈鹿村
プロローグ
2/7

あれ……おれ死ぬ?

 彼は中学校時代から酷くいじめられていた。まずクラスのスポーツをやっているような同級生から、容姿を馬鹿にされはじめた。別段、彼はそれほど太っているわけではなかった。ただ、心なしか人より太って見える程度だった。それでも取り立てて太っていると馬鹿にされたのは、彼をいじめる人間たちにとって、いじめる理由などなんでもよかったからだろう。


 最初はクラスメイトの数人が日常的に彼の容姿を揶揄し始めた。「ブタ」と、彼は呼ばれた。そしてその日常が一週間、一か月と立つ頃には、クラスメイトの多くが彼に寄ってたかって同じように悪口を飛ばすようになっていた。それに直接加わらない者も、多くはその光景を遠巻きに見て、いやらしく笑い、一応はいじめに賛同する態度を表すのだった。それは彼にとってとても傷つくことだった。ここには自分の助けは誰もいないのだと思い知らされた。


 さらに時間がたつと、自然と何人かが彼を殴り始めた。はじめは軽く小突かれた。次は肩を殴られた。次は腹、蹴りとつづいて、とうとう顔を殴られ始めた。彼が当たり前のように言葉で虐められるようになってから、暴力を振るわれるまではとても短い時間だった。一度たがが外れると人間は容赦がないのだと、彼は思い知らされた。中学二年生の夏の頃には、そうなっていた。


 はじめは普通だった彼の姿は、いじめが酷くなるにつれ、「ブタ」というあだ名の通りに太っていった。


 彼は学校から帰ると、たくさんの物を食べるようになった。なんでもよかった。カップラーメンに、お菓子に、アイス、彼は食べられるものなんでも食べた。多くの時間を使って――。それが彼のストレスの解消法だった。


 その変化に彼をいじめている人間たちは沸いた。彼は太って、彼をいじめる人間たちに快楽を提供し、それが彼を追いつめてさらなる暴食へ走らせる、そんな負の循環に彼は陥っていた。


 もう嫌だ、と彼は何度も思った。親はそんな彼の様子を見て心配した。だが父親も母親も、いい両親だったし彼らなりの思いやりはあったが、同情はなかった。父親は意固地な人間で、彼にお前が弱いのだと説いた。彼が泣きながらそれに反対し、それでも自分はこうやって逃げるしかないのだと説明すると、父親はそれに気分を害して態度に出した。昔気質で意固地な父親は、息子が反論をしてくること自体に気分がよくなかったし、そんな息子が学校でいじめられて、家に帰ってきても何かに逃げるように四六時中食べ物を貪っているのにも腹を立てた


 母親は父親とは反対に彼を甘やかした。彼が何かを食べているのが楽だといえば、彼のためにとお菓子や食事を買ってきたりした。母親は、彼が表面上望むものはなんでも与えたが、彼が心の底から望むものは何一つ与えなかった。彼のいじめの解決には一切尽力しなかったのだ。父親がこれは息子が強くなるための試練だとか、親を頼るのは弱いだとか言いはると、一応は心配げな顔をして息子を慮ったふうにするが、実際に父親の論をはねのけて問題に対処するというようなことは一度もなかった。彼女は息子の話に、はいはいと笑顔で頷いて見せるが、傷ついた彼を抱きしめることはなかった。そのような態度は父親が嫌うからだろうか。彼にはわからない。この頃、彼にはわからないことがたくさんあったのだ。


 中学校生活が終わっても、周囲の彼に対する虐めはなんら変わらなかった。違うのは、暴力が減ったことくらいだ。高校は地元でもそれなりのところだった。決して有数の進学校というわけではないが、普通の共学の高校というわけでもない、その程度の学校。だからだろうか、彼は殴られることが少なくなった。


 だが、この頃にはもう、彼はでっぷりと太っていた。顎と腹が出ていて、体は前にも横にもはち切れそうなくらい出ていた。あだ名は相変わらず「ブタ」だった。同じ中学校から進学した同級生が持ち込んだのだろうか、それとも、彼の姿を見れば自然とそれを思いつくのだろうか、彼は何度かそう思ったが、実際は両方なのだろう、と最後には思うようになった。


 高校でも、彼は大体数人のクラスメイトから集中的にいじめられて、周りの人間はそれを遠巻きにして笑うという構図が出来上がった。


 暴食にも限りがある。人の胃袋はどこまででも詰め込めるわけではない。彼が高校でもいじめられっ子として振るまわなければいけないと流れが決まったころ、彼は家では暴れるようになった。彼にはもうストレスを発散するところがそこしかなかった。だが父親も母親も、彼の態度に反発した。父親と息子は殴りあう喧嘩を何度かした。母親は息子を腫れもののように扱うようになった。


 高校の一年生の終わりころ、数学の授業中だった。黒板には三角形と、四角形、その他いろいろな図形が描かれている。図形の角には角度を求めよとのしるしがあって、黒板には数式が何行分も書かれている。


 彼はにわかに立ち上がって叫んだ。彼がそこでなんと言ったかは、彼自身覚えていない。


 だがまわりはぎょっとしていた。教師は唖然とした顔をして目を見開いていた。彼は必至だった。彼の体は汗ばんでいる。


 つい先ほどまで教師の説明の声と、授業を放って雑談する生徒のひそやかな声がまじりあっていた教室は、今やしんとしている。全員の視線が彼に集中していた。彼から離れた席に座る三人の男子のクラスメイトが、顔を真っ赤にして手で笑うのを必死で抑えながら、互いを見つめあっていた。この三人が、彼にやれと命じたのだ。――彼らはなんと言えと自分に命じたのか。その記憶は彼の中から消えている。彼自身がこの時の前後の記憶の大部分とともに消してしまった。


 彼が憶えているのは、教師がかつかつと足音を立てながらこちらへ近づいてきたことだ。彼はほとんど過呼吸の状態で体を硬直させていた。教師は思い切り彼の顔を殴った。教室の一角でひとりの少女が涙を流していた。彼はその子が好きだった。自分は、彼女になにかひどいことを言ったに違いない――。


 学校から帰ると、父親から殴られた。母親は泣いていた。彼の妹と弟はぎょっとした目で彼を見ていた。彼はそれから高校へ行かなくなった。


 彼は高校を卒業してから二十六まで家でニートをしている。




 きゃあ、と母親が叫んだ。それを聞いた弟は顔を上げた。先ほど母親が兄の部屋に食事を持っていって、そこで母親が少し声を上げていた。それからそれを無視するように家族三人で食事をとっていたのだが、少しして母親がもう一度声を上げたのだ。


 弟はただならぬ事態な気がして、家族を見た。妹がいやそうに顔を振りながら吐き捨てた。「またアレが暴れてんでしょ」


 父親は大事な祖母の命日の夕食を兄に邪魔されたのがよほど頭に来たらしい。大きな音を立てて茶碗を置きながら立ち上がった。


 父親は音を立てながら階段を上る。


(あのろくでなし! 四六時中部屋に閉じこもって気色悪いゲームをしたり、女の裸の写真を嘗め回すばかりめ! そんなやつが、今日、水を差すか!)


 自分の母親の死を悼む日に、自分の息子のろくでなし具合が腹立たしくて、はらわたが煮えくりかえっている。階段を上ると、嫁が廊下で尻もちをついていた。お父さん、と嫁が叫んだ。その声の高さが、父親をさらにいらだたせた。


 彼は父親の足音が階段から響くのを聞いていた。ゲームは失敗するし、母親は何を思ったか嫌事を投げかけてくるし(誰のせいで! 俺が! こんな目に!)、父親まで上がってきた。


 彼は全部がうまくいかないことにいらいらしながら、父親が部屋に入ってくるかどうかを必死に考えていた。――あいつは怖い。あいつは昔から、おれを苛め抜いてきた。(決して育てられたのではない!)


 部屋の扉が少し空いている。さっき彼はそこから母親をにらみながら、一言言っただけだ。母親が自分のむかつくことをいうからやり返しただけだ。それなのに、母親は大げさに叫んだ。部屋の扉が勢いよく開け放たれた。廊下の明かりがさっと部屋に差し込む。父親が大きな体を影にして、廊下の光を後光のように背後に受けながら憤然と立った。その目がじろりとこちらをにらんでいる。彼は顔をしかめたが、内心震えた。彼はもう何日も風呂に入っていないせいで肌は汚れていた。上はTシャツ、下はパンツだけを履いていた。眼鏡ごしに、彼は父親をにらみ返そうとしたが、すぐに目をそらした。


 彼は口を震わせた。


「お、お父さん、なに? か――母さんが悪くて、おれは言っただけで――」


 彼が言い終わらない内に、父親はずかずかと部屋に踏み込んできた。彼はそれに驚いた。この部屋だけは、自分のもの。誰にも踏み荒らしてほしくない神聖な場所だった。そこに部外者が足を踏み入れているのだ。彼は瞬間的に心に大きな負荷がかかってしまった。彼は父親に叫んだ。ストレスが恐怖に打ち勝ったのだ。


「やめろよ! 入ってくんな!」


 父親は彼を殴りつけた。彼は声を上げて倒れる。部屋を埋め尽くすごみの山には雑多なものが含まれている。彼は背中にビニール袋と固い金属の物体のとがった端を感じた。その小さな何かの金属の端が、彼がその上に倒れこんだ時の衝撃で彼の背中を突き刺した。


 彼は声を上げた。その痛みと父親が部屋に入ってきたストレスとが、彼を動かした。彼は悪態をつきながら上体を起こそうとした。父親は彼を数発殴りつけた。


「てめえ! 今日はばあちゃんの命日だろうが! え!?」


 ――痛い! 彼の父親への対抗心は完全にへし折られてしまった。


 彼は大声で泣き叫んだ。


「母さん! 母さん!」


「うるせえ!」


 父親がまた彼を一発殴る。父親がちらりと彼の机の上を見る。ノートパソコンと、その両脇にディスプレイが二つ接続されている。ノートパソコンのディスプレイにはゲーム画面が、もう一つのディスプレイには彼の好きなアニメキャラクターのきわどいイラストが大きく表示されていた。


「気色わりい」


 言って、父親は目を背けた。彼は恥ずかしくなって、いろいろな感情がかき混ぜられるような気がした。それは彼の大事なキャラクターのイラストだった、しかしそれはひどく性的で、誰にも自分がそれを見ているところを見てほしくなかった。彼女のことを馬鹿にされるのは許せないが、それを見ている自分は恥ずかしいから誰にもみられてくなかったのに。嫌なことをたくさんされて、彼の心ははち切れそうだ。


 彼は我慢できずに涙を流しながら叫んだ。これでもかと叫んだ。近所にも家族にも父親にも母親にもはばからずに声を上げた。顔が涙でぐしゃぐしゃになる。彼は上体を跳ね上がらせるように起こして、父親のまた下をくぐり抜けようとした。


 呆気にとられた父親は動きを鈍くし、お前、と言いながら彼のシャツをつかむ。彼はがむしゃらに父親の股下を這った。父親が彼の膨れ上がった巨体に押されて、前のめりに倒れた。彼は息を切らし汗を流しながら、膝を立てて立ち上がろうとする。手で床に散らばったごみや物を押しのけた。


 彼が廊下に出ると母親が目を見開いてこちらを見ていた。汚いものを見る目だ。彼は母親を一瞥すると、ほとんど夢中で階段を下りた。


 ――もう嫌だ。もう嫌だ!


 階段を降りきって、階段口の角から顔を出すと、弟と妹が椅子から立ち上がっていた。二人ともぎょっとして、何かを言おうとしていた。彼もぎょっとした。久しぶりに弟と妹とであったが、それは彼のパニックに拍車をかけた。恥ずかしさと、怒りと、憎しみすらあった。彼はやはり夢中でリビングを抜け、玄関へ向かった。玄関扉を揺さぶり音を立てる。久しぶりに外へ出ようとするから、ドアノブをひねるのを忘れていた。


 外へ出ると、夏の夜の少し湿った空気が肌に触れた。彼は玄関扉から進んで、敷地の門を抜けた。門扉はない。住宅街の暗い道路に出た。街灯が道路の両向こう側から点々と立っていて、ぼんやりとした明かりを自らの足元のコンクリートに投げかけていた。


 もう外へ出るのは何年振りなんだろう。彼はそこで初めて息をついた。彼は相変わらず混乱していたが、だんだんとそれが落ち着いてくると、にわかに恐怖の感情が強くなってきた。もう家には戻れない。


 ――怖い。怖い、怖い!


 彼はパンツしか下にはいていない。彼は急いで道路を駆け抜けた。もう何年もまともに運動していない彼の体は、ゆっくりとしか走れなかったが、汗はとめどなく流れるし呼吸も苦しい。


 行く当てもなく住宅地区を抜けると、少し閑散とした感じになり、さらに夜道を進むと、大通りに出た。そこで初めて彼は人にであった。彼の住む街は地方都市だ。大した人通りもないが、それでもあちこちに人がいる。彼は自分がパンツしかはいていないと改めて思った。


 歩道の向こう側の若い女の三人の集団がこちらを見ている。彼女らの手にはスマホがあって、それがこちらに向けられた気がした。


 撮られている、と思った。道路の向こう側を悪いている人も、こちらを見ていた。そんな気がしたし、実際そのはずだ、と思う。


 彼はとにかくここから逃げたかった。はす向かいに大通りから分岐した車道があって、その奥は暗がりに続いているような気がした。


 彼はパニックになりながら、何も考えずに道路へ飛び出した。道路を数歩、跳ねるように走ったところで、彼の体は浮遊した。彼の視界はまぶしいほどの光で覆われた。タイヤが地面をこする音、誰かの叫び声、真っ白に近い光の隙間から見えるトラックのフロントのガラスと鉄の外装。


 彼は事実、道路を走行中のトラックに跳ね飛ばされていた。彼はそれを知らない。それでも、この浮遊感が彼に死を伝えているような気がしていた。


(おれ……死ぬ? ……まじ?)


 彼の体はコンクリートに叩きつけられてから転がった。

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