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紅華の原 蒼の空  作者: 奈鹿村
プロローグ
1/5

ぼくの小さな要塞の中で

 暗い部屋、パソコンの画面だけが光っている部屋の中にはごみが散乱し、足の踏み場もないようなさまだった。ベッドの上には掛け布団が乱雑に丸められていて、それがよけられたところも、ものが積みあがっている。


 しねっ、いけっ、と彼の声が、物であふれかえった、しかし空虚な暗がりの部屋に響いた。


「よっしゃあ!」


 そう叫びながら、彼はキーボードの端を手の平で殴りつけた。もうずいぶん使い込んだキーボードは飛び上がって、その反動で数個の部品がはじけ飛んでしまった。


 彼は小さな声を上げて、急いで部品をひろう。ディスプレイの下側にもぐりこんだ部品の一つが、ディスプレイやノートパソコンの本体につながる乱れた配線の中にもぐりこんでしまった。部屋に明かりは画面の光しかない。暗くてよくみえない。彼はいらついて、画面をじっとみながら、焦りながら、人差し指をディスプレイの下に突っ込んで探った。


 敵が動いた。馬に乗って槍を持ったキャラクターは、目を光らせ、画面上を右から左に突進しようとする。馬がいななき、安っぽいエフェクトがキャラクターの背後に表示された。


 彼は急いで手を引っ込めてキーボード上の定位置に両手の指先を配置した。――不味い。敵に大きな一撃を入れたといえ、まだ敵の体力は残っている。この反撃は必殺技に違いない。これをくらえば、自分はまける。


(馬鹿が!)


 彼は背中の汗ばみを感じながら、タイミングを見計らってキーボードを打って、敵の攻撃を避けようとする。


 彼は左手の薬指のWキーの場所の感覚がおかしいと思った。すぐにそこの部品がさっき飛んで行ったのだとわかった。


 彼が焦る間もなく、敵の攻撃が自分のキャラクターにあたる。自分の分身は死んでしまった。これはボス戦だ。彼はこのゲームをここまで進めるのに、どれだけ時間を使っただろう。男の貯金などない。ただ有り余る時間だけが、本来なら課金をしてここまで進むことを想定されたステージへ男が到達することを可能にした。それは非常に苦痛を伴うものだった。朝から晩までパソコンに張り付いて、目が痛くなっても、まだ張り付いた。それが、ここで――終わった。


 彼の怒りは爆発した。彼は叫びながら、つばが飛び散るのも気にせず思い切りキーボードを何度も何度も手の平で殴った。床に置かれた低い机が衝撃で少し飛んだ。彼は怒りの咆哮の声を、自分の体に満ちた怒りの誘うがままに上げた


(ちくしょう! ちくしょうちくしょう! 朝から晩までパソコン張り付いて、経験値せこせこ稼いでよう! それがこれかっ!? あ!?)


 夜の九時半だった。


 部屋の壁際にベッドがある。その壁に窓があるのだが、カーテンが重ね合わされるように閉じられている。もうずいぶんの間ここは開かれていない。床に低い机に、彼は胡坐で向かっている。机の上に置かれたパソコン、その前だけがこの部屋で唯一空間を確保できる場所だった。そこ以外の床にはごみや漫画、いつか買った商品の外箱などがぐちゃぐちゃに入り交じって山積みになっていた。


 ゲームの音が流れている。彼のうめき声が上がる。彼は不清潔な髪の毛をくしゃくしゃにかきむしる。彼の髪の毛は何日も風呂に入らない生活のせいで、油でかたまり束状になっていた。彼の指先は黒ずんでいた。垢がたまっていたのだ。


 彼は働きもせず、ずっと部屋にいる。この生活を、もう何年も続けていた。


 部屋の扉がノックされた。彼にとってそれはストレスだった。彼のうめき声を止めた。


「ねえ……。――?」


 母親が、自分の名前を呼んだ。――ストレスだ。


 彼に母親の言葉はほとんど届かなかった。だが彼女が彼の暗い要塞に足を踏み入れる危険性を、彼は感じ取ってしまった。実際のところ、母親が自らこの部屋の扉を開けて、息子の名前を呼ぶことはありえない。息子と母親の距離は遠く離れすぎてしまったし、母親がその距離を縮めるには、彼女はあまりにも息子に恐怖してしまっていた。――それでも、息子は母親がその扉を開けるのではないかと怯えている。


「ごはん、ここに置いておくからね。食べ終わったら扉の前に置いておいて――」


 母親が言い終わる前に、彼は怒鳴った。母親は怯えて手を震わせ、夕食の乗った盆をほとんど落とすようにして部屋の扉の前に置いた。


 彼は母親の声に心をかき乱された。いらいらする。無性にむかついてしかたがなかった。彼は自分でも気づかないうちに、一層髪の毛をかきむしった。ふけが彼のシャツの肩回りに落ちる。


 今日は祖母の命日だった。既に家を出ていた弟と妹が久しぶりに帰ってきていた。


 弟は上階から聞こえてくるいやな音に眉をひそめた。妹と父も同じような顔をしている。


「『アレ』まだ、あんな感じなんだ」


 弟が言った。それに反応して、妹が嫌悪感をあらわにする。


「勘弁してよ」


 父親は何も言わずに食事に箸を進めた。だが顔つきは妹と同様、嫌悪の感情を湛えている。


「馬鹿が」


 そう吐き捨てる。上階を一瞥もしない。


 弟は軽い舌打ちをして、視線を階段から食卓に戻した。彼の兄はずっと家に閉じこもってゲームばかりしている。さっき、母親が声を上げたのを聞いた。兄は気持ちの悪い性格をしていて、父親には強く出ないくせに、母親には強く出る。だがまさか手までは出さないだろう、と思う。彼を信頼しているのではなくて、彼を人間として卑しいと思っているから、そう思う。兄は部屋から出る度胸がないのだ。


 妹と父親は、自分が振った兄の話に食いつきもしない。二人とも嫌悪感を表して終わりだ。ぞっとするほど嫌いぬいた顔、たぶん、自分もそんな顔をしているんだろう。二人とも兄に、たとえ会話の上でもできる限り触れたくないのだ。


始まりました…!

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