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第6話 「すごいね」の罠と、横並びの勇気

【『褒め殺し』の健太郎】


「共同体感覚」という全知全能感に近い多幸感に包まれた佐伯健太郎の月曜日は、かつてないほどハイテンションに始まった。

 藤代の工房で学んだ「他者に貢献し、仲間として信頼する」という教え。

 これを職場で実践すれば、職場はたちまちバラ色の楽園に変わるはずだ。

 健太郎は、週末に読み込んだ心理学の入門書(といっても駅前の本屋で買った『図解・やる気を引き出す魔法の言葉』的なものだが)の知識を武器に、戦場へと向かった。


「……よし、今日は『勇気づけ』のシャワーを浴びせてやるぞ」

 健太郎がターゲットに定めたのは、言うまでもなく部下の高木だ。

 午前九時、出社してきた高木がデスクにカバンを置くやいなや、健太郎は満面の笑みで背後に忍び寄った。

「おはよう、高木君! いやあ、今日のネクタイ、最高だね。その色選びのセンス、まさに次世代のリーダーにふさわしい。さすがだよ!」

 高木は、カバンを置いた姿勢のまま凝固した。

「……え、あ、おはようございます。これ、昨日法事があったんで、そのままの地味な紺色ですけど」

「いやいや、その地味さがいいんだ! 謙虚さの表れだね。素晴らしい! あと、昨日の日報も読んだよ。誤字脱字が一つもなかった。君は本当に優秀だ。天才だよ!」


 健太郎は、自分の「褒め言葉」が職場の空気を浄化していくのを確信していた。

 しかし、当の高木はといえば、明らかに引き気味だ。

 彼は「……何か、大きなミスでも隠してませんか?」と疑いの眼差しを向け、不自然なほど距離を取って自席に座った。

 健太郎の「褒め殺し作戦」は、その後も止まらなかった。


 お茶を運んでくれた事務の女性には「君の給湯スキルは社内一だ、感動した!」と叫び、部長が通り過ぎれば「部長の歩幅には、組織を牽引する力強さが漲っていますね!」と、もはや意味不明な称賛を投げかけた。

 彼の中では、これが「勇気づけ」だった。

 他人を評価し、持ち上げ、気分を良くさせる。

 それこそが「信頼と尊敬」の証だと信じて疑わなかったのである。


【『評価』という名の支配】


 しかし、事態は健太郎の思惑とは真逆の方向に転がっていった。

 午後。

 高木が担当していた大口取引先への納品データに、致命的な計算ミスが発覚したのだ。

「佐伯さん……すみません。昨日の夜、慌ててチェックしたせいで……」

 高木が珍しく肩を落とし、青ざめた顔で報告に来た。

 これまでの健太郎なら、ここで「お前のせいだ!」と怒鳴るか、「俺がやってやるよ」と課題を横取りしていただろう。

 だが、今の彼は「勇気づけの達人(自称)」である。


「気にするな、高木君! 失敗は成功の母だ。君ならこのピンチをチャンスに変えられる! だって君は、俺が認めた『できる男』なんだから。な、頑張れよ。期待してるぞ!」

 健太郎は、励ましのつもりで高木の肩をポンと叩いた。

 だが、高木から返ってきたのは、感謝の言葉ではなく、鋭い拒絶の反応だった。

「……いい加減にしてください」

「え?」

「さっきから何なんですか、その上から目線の『評価』は。ネクタイがどうとか、天才だとか、期待してるとか。結局、佐伯さんは僕を、自分の思い通りに動かしたいだけじゃないですか。僕がミスをしたら、今度は『期待してる』という言葉でプレッシャーをかける。……馬鹿にしないでください」

 高木はそう吐き捨てると、自力で修正作業に取り掛かるべく、健太郎に背を向けた。

 健太郎は、掲げた手のやり場を失い、冷たいオフィスの空気の中に立ち尽くした。

「良かれと思って」放った言葉が、なぜこれほどまでに相手を傷つけ、遠ざけてしまうのか。

 彼はまたしても、対人関係の深い霧の中に迷い込んでしまった。


きんを置く、敬意を置く】


 逃げ込むように訪れた『藤代金継ぎ工房』。

 健太郎は、作業台の前に座り、溜息をついた。

 目の前には、ようやく破片同士が強固に繋がった益子焼の皿がある。

 今日は、その繋ぎ目に沿って「金粉」を蒔く、最終工程に近い重要な作業だ。

「藤代さん……全否定されました。部下を褒めて、励まして、信頼していることを伝えようとしたのに、逆効果だったんです。アドラーの『勇気づけ』って、あんなに難しいものなんですか?」


 藤代は、細い筆の先に、極少量の漆を付けていた。

 彼は健太郎を見ることなく、低く、重みのある声で言った。

「あんた、また勘違いしてやがるな。あんたがやったのは『勇気づけ』じゃねえ。ただの『評価』だ」

「評価? 褒めることは、良い評価を与えることでしょう? それの何がいけないんですか」

「『褒める』という行為はな、能力のある人間が、能力のない人間に対して下す『審判』なんだよ」

 藤代は筆を置き、健太郎を正面から見据えた。

「いいか。あんたが『すごいね』と言うとき、そこには『俺の基準に合格したな』という上から目線の支配がある。褒められた方は、無意識にそれを察知するんだ。……『この人は、俺を評価し、操ろうとしている』とな。それは尊敬でも信頼でもねえ。ただの飼い慣らしだ」


 健太郎は、耳の奥がカッと熱くなった。

 高木に言われた「支配」という言葉が、藤代の口からも飛び出したからだ。

「じゃあ、どうすればいいんですか。ミスをした部下に、なんて声をかければ……」

「金継ぎを見てみろ」

 藤代は、繋ぎ目に沿って美しく輝く金の線を指差した。

「俺はこの傷跡を、『すごい傷だ』と褒めたりしねえ。あるいは『傷なんて気にするな』と慰めたりもしねえ。……ただ、傷があったという事実を『尊敬』の念を持って受け入れ、それを金で彩る。そこにあるのは評価じゃねえ。器が辿ってきた歴史への『共感』だ」


「共感……」

「いいか、勇気づけってのはな、『横の関係』から生まれる言葉だ。評価をやめて、感謝を伝えろ。期待をかけるんじゃなくて、信頼を置け。……『君のおかげで助かった』『君がいてくれて嬉しい』。それは評価じゃねえ、あんたの純粋な気持ちの吐露だ。相手を操るための道具じゃなく、一人の人間として、その存在を喜ぶ。それが本当の『勇気づけ』だ」

 健太郎は、金の線をなぞる藤代の指先を見つめていた。

 評価という武器を捨て、ただ「ありがとう」という素朴な言葉を置く。

 それは、これまでの健太郎にとって、最も勇気のいる選択のように思えた。


【『ありがとう』の魔法と、盛大なるオチ】


 翌日。

 健太郎は、昨日とは打って変わって、静かな面持ちで出社した。

 高木はまだ、昨日の計算ミスの修正作業に追われ、ピリピリとした空気を纏っている。

 健太郎は、コーヒーを二つ淹れ、一つを高木のデスクにそっと置いた。

 高木が「……また褒めるんですか?」と警戒するような視線を向けてくる。

 健太郎は、無理な笑顔を作るのをやめた。

 ただ、一人の仲間として、正直な気持ちを口にした。

「高木君。昨日の件、君が一人で最後までやり遂げようとしてくれているのを見て、正直、頭が下がる思いだよ。……君がこのチームにいてくれて、本当に助かっている。ありがとう」


 高木の動きが、止まった。

 彼は健太郎の顔をじっと見た。

 そこには、昨日のような不気味な「褒め」の表情はなく、ただ、疲れた中年男の、しかし誠実な眼差しがあった。

「……いえ。僕のミスですから。でも、そう言ってもらえると、少し……救われます」

 高木の表情が、ふっと緩んだ。

「評価」ではなく「感謝」を伝える。

 それだけで、二人の間にあった見えない壁が、霧のように溶けていくのを感じた。

 高木はその後、かつてない集中力で作業を終え、納品データは見事に復旧したのである。


 手応えを感じた健太郎は、その夜、家庭でも「勇気づけ」の実践を決意した。

 リビングに入ると、恵美が大量の洗濯物を畳んでいた。

 凛は自室にこもり、相変わらず静かだ。

(よし、今度は評価じゃない。純粋な感謝を伝えるんだ)

 健太郎は、恵美の隣に座り、彼女の手元をじっと見つめた。

「恵美。毎日、こうして家族のために家事をしてくれて、本当にありがとう。君の支えがあるから、俺は安心して働けるんだ。……君を、一人の人間として尊敬しているよ」


 恵美が、畳んでいた靴下を落とした。

 彼女はゆっくりと健太郎の方を向き、その額に手を当てた。

「……あなた、本当に大丈夫? 昨日は野球で泥だらけになって、今日は急にポエムみたいなこと言い出して。……さては、何か隠してるわね? 高価な万年筆でも壊したの? それとも、また怪しい壺でも買わされた?」

「いや、違うんだ! これは純粋な感謝の……」

「パパ、キモいよ。……それ、新手の詐欺の手口でしょ」

 部屋から顔を出した凛が、冷たく言い放つ。

「違うんだ! 俺はただ、アドラーの言う『横の関係』を築こうと……あ、アドラーって言っちゃった」


 健太郎の「勇気づけ」は、長年の不信感という分厚い漆の前で、あっけなく跳ね返された。

 だが、健太郎はめげなかった。

 彼は知っていた。

 金継ぎの漆が乾くには時間がかかる。

 同じように、壊れた信頼関係を繋ぎ直す「勇気づけ」も、一度の言葉で終わるものではない。

「……まあいいさ。明日は、ゴミ出しをしながら『感謝』を置いてこよう」

 健太郎は、一人台所で、恵美が飲み残した冷めたお茶を飲みながら、小さく笑った。

「すごい」と言われるよりも、「ありがとう」と言われることの心地よさ。

 それを誰よりも先に知ったのは、他ならぬ健太郎自身だったのだ。

勇気づけ(評価ではなく信頼と尊敬)

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