第7話 ひび割れたリーダーと、不完全さの黄金比
【『完璧な上司』という着ぐるみ】
プロジェクトリーダーに就任して一ヶ月。
佐伯健太郎の毎日は、これまでとは別人のような「有能さ」に満ちていた……少なくとも、表面上は。
「高木君、あの件は私が根回ししておいたから。進捗管理のシートも最新版に更新しておいた。君は安心して自分の作業に集中してくれ」
朝一番、健太郎はパリッとプレスされたワイシャツの襟を正し、高木に指示を飛ばした。
藤代から「ジャージを脱げ」と言われたあの日から、健太郎は自分の「性格」を、これまでの『冴えない脇役』から『頼れるリーダー』へと強引に書き換えた。
だが、それはアドラーの言う「自己受容」とは程遠い、単なる「完璧主義」への逃避だった。
彼は思う。リーダーとは、常に正解を知っていなければならない。
部下よりも先に気づき、部下よりも働き、部下に弱みを見せてはならない。
健太郎は、家庭でも「完璧な父親」であろうとした。
娘の凛にSNSの活用法を教わってからは、毎晩必死に流行の動画を研究し、若者言葉をメモし、凛が驚くような「デキるパパ」を演出しようと躍起になっていた。
「パパ、最近目が血走ってるよ。なんか、必死すぎて不気味。AIが無理やり人間に擬態してるみたい」
朝食の席で凛にそう言われても、健太郎は「ハハハ、情熱の表れだよ」と乾いた笑いで返した。
だが、その心臓は、薄氷の上を歩くような緊張で常に悲鳴を上げていた。
一度でも失敗すれば、一度でも「分からない」と言えば、これまでに築き上げた(と思い込んでいる)虚飾の城が崩れ去ってしまう。
その恐怖が、健太郎をさらなるオーバーワークへと駆り立てていた。
【合金芯の消失】
破綻は、最も予期せぬ場所から訪れた。
新製品『一生書ける(かもしれない)鉛筆』の心臓部である「特殊合金芯」。
その製造を委託していた地方の町工場が、落雷による火災で操業停止に追い込まれたのだ。
報告を受けた健太郎の頭の中は、真っ白になった。
「佐伯さん……どうしましょう。来月の展示会での先行発売、このままじゃ間に合いません。代替の工場を今から探すなんて、物理的に不可能です」
高木が青ざめた顔で詰め寄る。
オフィス中の視線が、リーダーである健太郎に集まる。
健太郎の胸の奥で、プライドという名の警報が鳴り響いた。
(ここで「無理だ」と言ったら終わりだ。俺がなんとかしなきゃいけない。俺がリーダーなんだ。俺が完璧に解決してみせなきゃ、みんなに失望される……!)
「……大丈夫だ。私に考えがある」
そう口にしたものの、健太郎に名案などあるはずもなかった。
そこからの三日間、健太郎は地獄を見た。
「代替工場を見つけ出す完璧なリーダー」を演じるため、彼は誰にも相談せず、一人で何百軒もの工場に電話をかけまくった。
夜はオフィスに泊まり込み、真っ赤な目で資料を漁り、コンビニの栄養ドリンクをガソリン代わりに体を動かした。
三日目の朝、健太郎は鏡を見て戦慄した。
そこには、完璧なリーダーどころか、数百年ぶりに洞窟から這い出してきた幽霊のような男がいた。
肌は土気色、髪はボサボサ、ネクタイは歪み、何より、誰の助けも借りないという強情さが、彼を周囲から完全に孤立させていた。
「佐伯さん、顔色がやばいですって。一旦、部長に報告して……」
「いいんだ! 私が、私がなんとかするんだ! 邪魔しないでくれ!」
健太郎は高木の差し伸べた手を、激しく振り払った。
彼は、自ら作り上げた「完璧」という檻の中で、ゆっくりと窒息しようとしていた。
【ひび割れを愛でる】
その日の夜、健太郎はふらつく足取りで、吸い寄せられるように『藤代金継ぎ工房』の暖簾をくぐった。
「藤代さん……もう、ダメです。私は……完璧にやろうとしたのに、世界がそれを許してくれない。芯が……工場が……私がリーダーなのに……」
健太郎は作業台に突っ伏した。
藤代は、完成間近の益子焼の皿を、布で丁寧に磨いていた。
金の線が、部屋の微かな光を反射して、静かに、しかし力強く輝いている。
「おい、サラリーマン。あんた、鏡を見たか?」
「……見ましたよ。最悪でした」
「ああ、最悪だな。だがな、あんたが今抱えてるその『最悪な状況』よりも、あんたのその『完璧でありたい』という病気の方が、よっぽど始末に負えねえ」
藤代は、磨き上げた皿を健太郎の目の前に差し出した。
「これを見てみろ。この皿が美しいのは、割れなかったからか? 違う。派手に割れ、ボロボロになり、その『不完全さ』を認め、さらけ出したからだ。……いいか。完璧を目指すってのはな、自分を『神様』だと勘違いしてる奴の傲慢だ。不完全であることを認める。自分の弱さをさらけ出す。それが、人間が持てる唯一の『本当の勇気』なんだよ」
「弱さをさらけ出したら……誰もついてこなくなります。リーダー失格だと思われる」
「逆だ、馬鹿。あんたが一人で肩肘張って『完璧なリーダー』の着ぐるみを着てる間、周りの奴らはどう思ってる? 『あの人には入り込む隙がない』『自分たちは信頼されていない』。そう思って、みんな去っていくんだよ。……あんたが『助けてくれ』と言ったとき、初めてそこに関係が生まれるんだ。ひび割れがあるから、そこに金が流し込める。ひびのないツルツルの壁に、誰が手をかけられるってんだ?」
藤代は、健太郎の肩を、今までで一番優しく叩いた。
「不完全な自分を、そのまま受け入れろ。あんたは、全知全能の神じゃねえ。ただの、情けない、でも一生懸命な、不器用な中年男だ。……その『自分』で勝負しろよ。着ぐるみは、もう捨てちまえ」
健太郎は、皿の上の金の輝きを見つめながら、涙が溢れるのを止められなかった。
「完璧」という重荷を降ろした瞬間、肺の奥まで、久しぶりに新鮮な空気が入り込んできたような気がした。
【全社員の前での敗北宣言】
翌朝。
健太郎は、三日ぶりにシャワーを浴び、清潔な、しかし少しだけ着崩したシャツを着て出社した。
高木や他のスタッフたちは、健太郎の「爆発」を恐れて、遠巻きに彼を見ている。
健太郎は、プロジェクトチーム全員を集めた。
「みんな、聞いてくれ。……謝らなければならないことがある」
オフィスの空気が緊張で張り詰める。
「実は、合金芯の工場の件、私は一人で解決しようとして、完全に詰まった。三日間、一人で電話をかけまくったが、一軒も見つからなかった。……私は、リーダーとして完璧でありたいあまり、君たちを信頼せず、一人で抱え込んでしまった。本当に、すまなかった」
健太郎は、深く頭を下げた。
周囲からは、戸惑いの声が漏れた。
高木が口を開く。
「佐伯さん……それ、三日前に言ってくれたら良かったのに」
「ああ、その通りだ。私は、自分の弱さを見せるのが怖かったんだ。……でも、もうやめる。俺には、今の状況を一人で解決する能力はない。……だから、みんなの力を貸してほしい。俺を助けてくれ」
長い、沈黙。
やがて、高木がふっと笑った。
「……しょうがないですね。佐伯さんがそこまで情けない顔して言うなら、手伝わないわけにいかないですよ。実は僕、学生時代の知り合いが金属加工の商社にいて、代替工場のリスト、勝手に作ってあったんです。佐伯さんが怖くて出せなかっただけで」
「えっ、本当か!?」
「私も、隣の部署のコネ、当たってみます!」
「私も、イベントの構成案を少し変えて、芯の供給が遅れても大丈夫な展示方法を考えます!」
堰を切ったように、チームが動き出した。
健太郎が「完璧な壁」を取り払った場所から、他者の貢献という名の「金粉」が流れ込み、バラバラだったプロジェクトが、一つの「器」として繋がり始めた。
その夜。
健太郎は、これまでにないほど穏やかな気持ちで帰宅した。
「恵美、凛。ちょっと話があるんだ。……パパ、会社で大失敗しちゃってさ。今日、みんなの前で頭を下げてきたよ。いやあ、情けなかったな」
恵美と凛が、食事の手を止めて健太郎を見た。
「……何それ。自慢?」
凛が不思議そうに聞く。
「いや、自慢じゃないけど……。でも、弱音を吐いたら、なんだかすごく楽になったんだ。パパ、完璧なパパになるのは諦めたよ。……これからは、たまに皿も割るし、仕事でも失敗する、ただのパパでいさせてくれ」
恵美は、一瞬呆れたような顔をしたが、やがてフフッと小さく噴き出した。
「……何を今さら。最初から、完璧なんて誰も期待してないわよ。あなたが勝手に、一人で力んでいただけじゃない」
「そうだよ。パパは、不完全なのがデフォルトでしょ。やっとOSが正常に戻った感じ」
凛も、スマホを置いて、健太郎が買ってきたコンビニのシュークリームに手を伸ばした。
健太郎は、家族の笑い声を聞きながら、心の中で藤代に感謝した。
「不完全であることの勇気」。
それは、自分自身の脆さを認めることで、他者と繋がるためのパスポートを手に入れることだったのだ。
ひび割れた日常。
そこに流し込まれた「素直さ」という名の金。
健太郎の人生という器は、今、かつてないほど強固で、かつ美しい輝きを放ち始めていた。
自己受容 不完全であることの勇気




