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第5話 右翼席(ライト)の孤独と、泥だらけの円陣

【自由という名の極寒地帯】


「課題の分離」という名の盾を振りかざし、家族との間に万里の長城を築き上げた佐伯健太郎の生活は、今や北極圏のような静寂に包まれていた。  

「……自由だ。実に自由だぞ」

 健太郎は、誰からも干渉されないリビングで、一人寂しくコンビニのカップ春雨スープを啜りながら呟いた。  

 洗濯物は自分の分だけを回し、ゴミ出しも自分の部屋から出たものだけ。

 恵美とは必要最低限の事務連絡(「トイレットペーパーが切れた」「了解」)しか交わさない。

 娘の凛に至っては、廊下ですれ違う瞬間に「あ、透明人間」と呟かれる始末だ。    

 アドラー流に言えば、彼は他人の課題を背負うのをやめ、精神的に自立したはずだった。

 しかし、その先に待っていたのは、求めていた心の平安ではなく、「世界に自分一人しかいない」という凍えるような孤独感だった。    


 そんなある日の午後、職場のデスクで肩を落とす健太郎に、高木がいつになく深刻な顔で近づいてきた。

「佐伯さん、プロジェクトの危機です。……いえ、それ以上に、僕たちの『命』に関わる危機かもしれません」

「なんだ、新製品の鉛筆が全部折れてたのか?」

「いえ、商店街の草野球チーム『青空商店街サンダース』のメンバーが足りないんです。明日の親善試合に出ないと、今後の販促イベントの協力白紙だって、会長が息巻いてて……。佐伯さん、ライト守ってください」

 健太郎は、手に持っていたボールペンを落とした。


「ライト? 無理だ。俺は中学の時、外野の芝生で四つ葉のクローバーを探していて監督にビンタされた男だぞ。運動神経はすべて父の厳しすぎる教育で萎縮して消滅したんだ」

「また過去のせいにして……。いいですか、『出るか出ないか』は佐伯さんの課題ですが、もし出なかったら商店街との絆は修復不可能、僕の評価もガタ落ちです! お願いします、助けてください!」

 高木の必死の形相に、健太郎はふと、昨夜の冷え切った食卓を思い出した。 (……どこか、居場所が欲しい)  その切実な「目的」が、彼に「イエス」と言わせた。


【砂塵と加齢のファンタジー】


 翌日。

 多摩川沿いの河川敷グラウンド。  

 そこには、平均年齢52歳、膝と腰に爆弾を抱えた男たちが、派手なユニフォームに身を包んで集結していた。

「おお、ペン・ノバの佐伯さんか! よく来てくれたな!」

 先日の「課題の分離」騒動で激怒させたはずの商店街会長が、意外にも満面の笑みで健太郎の背中を叩いた。その衝撃で健太郎の背骨が鳴る。

「今日は無礼講だ。ミスしたって誰も怒りゃしねえ。みんなで楽しむ、それがサンダースのモットーよ!」


 健太郎に与えられたポジションは、案の定、一番ボールが飛んでこないと言われる「右翼席ライト」だった。  

 試合開始のサイレンが鳴り響く。  

 健太郎は、カサカサのグラブをはめ、五月の強い日差しの中で立ち尽くした。    

 試合は壮絶な乱打戦(というか、守備陣の足が動かないことによるザル守備の応酬)となった。  

 健太郎は、自分の方へ飛んでくるボールを見るたびに、「頼むからあっちへ行ってくれ」「俺に関わらないでくれ」と祈り続けていた。

 彼は依然として、グラウンドという共同体の中で「評価されるか、されないか」という物差しだけで世界を見ていたのだ。  


「佐伯さん! 追って! 後ろ、後ろ!」

 高木の叫び声に反応して振り返るが、健太郎の足は、まるで湿ったコンクリートに浸かっているかのように動かない。

 頭上を軽々と越えていく白球。

 慌てて追いかけるが、足がもつれて派手に転倒。

 土手沿いの散歩客から失笑が漏れる。

「……やっぱり俺は、こういう人間なんだ。どこにいたって、足手まといの脇役なんだ」

 砂埃を払いながら立ち上がる健太郎の心は、またしても「自分はダメな人間だ」という劣等コンプレックスに塗りつぶされようとしていた。


【コップの中の自己執着】


 五回表、給水タイム。

 健太郎はいたたまれず、ベンチの端でうなだれていた。  

 そこへ、なぜか観戦に来ていた藤代が、不機嫌そうにスポーツドリンクを差し出してきた。

「藤代さん、どうしてここに……。見ての通りですよ。俺は、このチームの『仲間』になんてなれません。迷惑をかけて、笑われて、居場所なんてどこにもない」

 藤代は、健太郎の泥だらけのユニフォームを見つめ、鼻で笑った。

「おい、サラリーマン。あんたはさっきから、誰のことを見てるんだ?」

「誰って……飛んでくるボールとか、俺を笑う観客とか……」

「違うな。あんたが見ているのは『自分自身』だけだ」


 藤代は、スポーツドリンクのボトルを健太郎に突きつけた。

「いいか。このグラウンドにいる奴らはな、誰もあんたを『評価』しようなんて思っちゃいねえ。あんたが上手いか下手か、そんなことは奴らの課題だ。……あんたの課題は、『俺はここにいていいのか?』とビクつくことじゃねえ。このチームのために、今、何ができるかを考えることだ」

「何ができるかって言ったって、僕には技術も体力も……」

「技術がなけりゃ、声を出せ。足が動かなきゃ、全力で球を追う姿勢を見せろ。金継ぎだってな、バラバラの破片が『自分は美しい破片だ』と主張してるうちは、皿には戻らねえ。破片が『皿全体のために、ここを繋ごう』と身を挺したとき、初めて器になるんだよ」


 藤代は、健太郎の背中を、会長よりも強く蹴り飛ばした。

「あんたは『世界の中心』に座ってる王様じゃねえ。共同体という大きな器の一部なんだよ。自分への執着を捨てて、他者に貢献してみろ。そうすれば、居場所なんてのは、後から勝手についてくるもんだ」

 健太郎は、呆然とした。  

 自分は「嫌われないように」「評価されるように」と、常に自分のことばかり考えていた。

 他者を「自分を判定する裁判官」だと思っていたのだ。

 だが、もし彼らが「仲間」だとしたら?


 九回裏、二死満塁。

 点差は一点。  

 バッターは会長。

 放たれた打球は、高く、高く、ライトの頭上へと舞い上がった。

(俺のところだ……!)

 健太郎は、もう「失敗したらどうしよう」とは考えなかった。  

 この打球を捕れば、みんなが喜ぶ。

 チームが勝つ。  

 ただそれだけの「目的」のために、健太郎は人生で初めて、ジャージを脱ぎ捨てたような爆発力で走り出した。

 足の筋肉が悲鳴を上げ、視界が白くなる。  

 フェンス際の茂みに突っ込むのも構わず、健太郎は泥の中にダイブした。    

 ――バシッ。    

 確かな衝撃が、左手に伝わった。


【黄金のビールと、盛大なるオチ】


「捕ったあああああ!」

 高木の声が響き渡る。  

 茂みから這い出してきた健太郎のグラブの中には、泥にまみれた白球が、誇らしげに収まっていた。

 商店街のオヤジたちが、地鳴りのような歓声を上げて駆け寄ってくる。

 健太郎は、揉みくちゃにされ、背中を叩かれ、帽子を飛ばされた。  

「佐伯さん! 最高だよ!」

「よくやった、文房具屋!」

 その瞬間、健太郎の胸の中に、熱い何かが込み上げてきた。  

 自分は、ここにいていいんだ。  

 自分は、誰かの役に立てている。  

 それは、承認欲求が満たされた時の「ドヤ顔」的な快感ではなく、もっと静かで、深い「繋がり」の感覚だった。

 これが、藤代の言っていた、そしてアドラーが説いた「共同体感覚」の正体なのか。


 その夜。打ち上げの居酒屋で、健太郎は、人生で一番美味いビール(今回は本物のプレミアムモルツだ!)を喉に流し込んでいた。  

「いやあ、佐伯さん。あのダイブ、動画に撮ってTikTokに上げたらバズりますよ!」  

 高木が興奮気味にスマホを見せてくる。

「よせよ、高木君。俺はただ、必死だっただけだ。……でも、悪くない気分だよ。一人で納豆を混ぜているよりはね」


 健太郎は、上機嫌で帰宅した。  

 泥だらけのユニフォーム。

 膝の擦り傷。

 しかし、心はこれまでにないほど満たされていた。  

 玄関を開けると、そこには仁王立ちの恵美と、鼻を塞いだ凛がいた。

「ただいま! 恵美、聞いてくれ。今日、俺は『共同体の一部』として、奇跡的な……」

「……汚い。パパ、泥の匂いと加齢臭の『共同体』になってるよ」  

 凛が、無慈悲にファブリーズを噴射する。

「ちょっと! その格好で上がらないで! 廊下が砂だらけじゃない!」  

 恵美が、掃除機を武器のように構えて迫りくる。

 健太郎は、苦笑いしながら両手を上げた。

「分かった、分かったよ。廊下の掃除は俺の『貢献』として引き受ける。……その代わり、恵美。明日の朝飯は、家族全員で食べないか? 俺が、とびきり美味い卵焼きを焼くからさ」


 恵美は、一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、やがて「……焦がさないなら、いいわよ」と小さく呟き、キッチンへと消えた。    

 健太郎は、風呂場で泥を落としながら、ふと思った。  

「共同体感覚」への道は、どうやら河川敷のライトから、自宅のキッチンまで、果てしなく続いているらしい。    

 彼が全力で焼いた翌朝の卵焼きは、やはり少しだけ焦げていたが、その味は、かつてないほど「仲間」の味がした。

共同体感覚(他者は敵ではなく仲間である)

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