禁断の扉と合言葉――あるいは知識の決闘
白井紫影が「ちんちくりんの七変」の一員として、その魔窟(部室)に出入りするようになって久しい。
奇妙なことに、途中編入の新参者である白井ほど、この部室への入室がスムーズな者は、過去に例を見なかった。古参の部員ですら、時として扉の前で立ち往生し、冷や汗を流すことがあるというのに、である。
その理由は、この部室に施された、物理的ではない特殊な防壁にあった。
扉には鍵がかかっているわけではない。しかし、そこには常に、見えざる「番人」が立ちはだかっていた。
合言葉である。
それも、「開けゴマ」の如き固定された呪文ではない。都度都度変幻し、二度と同じ言葉が繰り返されることのない、一回性の真剣勝負。それは入室を乞う者の、知識の深淵と嗜好の鋭敏さを試す、過酷な試問に他ならなかった。
ある日のことである。
白井は、いつものように扉の前に立ち、腹の底から声を張り上げた。
「頼もう!」
すると、扉の向こう、深き闇の底から、寺石とおぼしき男の低い声が響いた。
「――L!!」
刹那、白井の脳髄に電流が走る。
L。それは単なるアルファベットではない。我々の魂の根源、すなわちLolitaの頭文字か。あるいは、某かの隠語か。瞬時にして白井は、その問いに対する最も美しく、最も円環を閉じる答えを導き出した。
「――O!!」
間髪入れず、中から満足げな声が返る。
「よし、入れ。」
ガチャリとノブが回り、白井は悠然と入室を果たす。これこそが、阿吽の呼吸。言葉を超えた魂の共鳴である。
また、別の日。
白井が扉を叩く。
「頼もう!」
今度の問いは、難解であった。中から聞こえたのは、意味不明な詩の断片ごときフレーズである。
「――幼女と少女が……」
一般人ならば、「何だそれは?」と聞き返すであろう。しかし、白井は違う。
彼の灰色の脳細胞は、数千冊に及ぶ蔵書の記憶を検索し、一人の巨匠・中島史雄が描いた、劇画調のシリアスな世界観を特定した。
『制服の生贄』。その重厚なる物語の中で、突如として脈絡なく放たれる、シュルレアリスムの極致とも言える謎の台詞。
白井は、確信を持って叫んだ。
「――もんちっち!!」
静寂。
そして、「よし、入れ」の声。
正解である。白井は安堵の息を吐き、扉を開けた。
しかし。
入室した瞬間、部室の空気は一変した。
先ほどまでの冷静沈着な解答者・白井の姿はどこへやら、彼は入るなり、鬼の形相で寺石に掴みかからんばかりの勢いであった。
「寺石! 貴様ッ!!」
「……何だ、騒々しい。正解したではないか。」
寺石は、古びた回路基板を半田付けしながら、涼しい顔で応じた。
その余裕の態度が、白井の導火線に火をつけた。
「正解しただと? 笑止! 問題はそこではない!」
白井は、血走った眼で寺石を睨みつけ、悲痛な叫びを上げた。
「貴様、その合言葉の出典たる**『制服の生贄』**の初版を、まさか所持しているというのか!? あの幻の奇書を! 俺ですら、未だ古書店を巡り歩いても影すら踏めぬ、あの聖典をッ!!」
そう、白井の激昂の原因は、難問を出されたことではない。
自分が出典を知っている(=中身を読んだことがある、あるいは知識として知っている)にもかかわらず、現物を所有していないという、コレクターとしての敗北感。そして何より、それを寺石が隠し持っていたという事実への、醜悪なる嫉妬であった。
「なんと卑劣な奴だ……! 自分だけで独占するなど、断じて許しがたい! なぜだ! なぜ俺には見せてくれぬのだ!!」
白井は地団駄を踏み、子供のように喚き散らした。
「合言葉にするほど読み込んでいるならば、その喜びを万民(主に俺)と分かち合うのが、人の道というものではないかッ!」
寺石は、半田ごてを置き、眼鏡の位置を直しながら、冷ややかに言い放った。
「同志よ。知識とは、分かち合うものではない。奪い合うものだ。……それに、貴様が持っていない本を合言葉に選ぶことこそ、最高の**『マウント』**ではないか。」
「ぐぬぬ……ッ!!」
白井は言葉を失い、その場に崩れ落ちた。
この部室の扉は、単なる物理的な境界線ではない。
それは、入る度に己の無知と、持たざる者の悲哀を突きつけられる、残酷なる審判の門であったのだ。
白井紫影は、今日もまた、知識の敗北という名の自爆を遂げ、部室の床に突っ伏して慟哭するのであった。




