孤島の流刑地と蝉の判決――あるいは青春の脱走と羽化
第一章 アルカトラズの飢餓
聖交学園の生徒たちが、夏になると「島送り」と称して恐れおののく場所がある。
本土より連絡船で揺られること二時間、絶海の孤島に聳え立つその施設は、表向きは「心身鍛錬合宿所」なる看板を掲げているが、その実態は、荒塩衆道会が支配する、東洋のアルカトラズ監獄に他ならなかった。
四方を荒波と断崖に囲まれたこの地では、俗世のあらゆる娯楽が禁じられる。
携帯電話、漫画、音楽、そして菓子類。入所時に行われる所持品検査は、あたかも国境の検問の如く厳重を極め、生徒たちはパンツ一枚になるまで剥ぎ取られ、隠し持った文明の利器を没収される。
さらに彼らを苦しめるのは、この合宿の名物行事「断食黙想」であった。
「汝、飢えを知りて神の糧を知れ」という教義の下、彼らに与えられるのは、朝夕の薄い重湯と、具のない味噌汁のみ。
育ち盛りの男子高校生にとって、この飢餓地獄は、精神を浄化するどころか、煩悩の炎に油を注ぐ結果にしかならなかった。
合宿三日目の深夜。
大部屋の重苦しい闇の中で、白井紫影は天井の木目を凝視していた。
胃袋が、空洞の悲鳴を上げている。しかし、それ以上に彼の脳髄を苛んでいたのは、活字と曲線への渇望であった。
没収された『レモンピープル』。そして、寺石が隠し持っていたはずの非常食のチョコレート。それらは今、この施設の心臓部たる「教官室」の金庫に眠っているはずである。
「……白井よ。」
隣の布団から、亡霊のような囁きが聞こえた。寺石である。
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、壁に向かって硬式テニスボールを、一定のリズムでぶつけていた。
パシュ、パシュ、パシュ……
その姿は、恰も映画『大脱走』における、独房の王、スティーブ・マックイーンの如き不敵さを漂わせていた。
「……聞こえるか、このリズムが。これは、我々の鼓動ではない。自由へのカウントダウンだ。」
寺石は言った。
「我々は、奪還さねばならぬ。我々の尊厳たる『LP』と、生命の源たる『カカオ』を。」
闇の中から、マスターKがぬらりと上半身を起こした。
「精霊も告げている。今夜こそが、決行の時(D-デイ)だ、と。教官室の警備担当は、あの『鬼の軍曹』こと、生活指導の権田原だ。だが、奴には致命的な弱点がある。」
「弱点?」白井が問う。
「奴は、深夜のラジオ番組『オールナイトニッポン』のヘビーリスナーだ。午前三時、中島みゆきの声に聞き入るその一瞬、奴の聴覚は外界から遮断される。」
「作戦名は?」
寺石がニヤリと笑った。
「『大脱走』。ただし、我々が掘るのはトンネルではない。天井裏のダクトだ。」
第二章 通風管の匍匐と誤算
午前二時五十分。
彼ら「ちんちくりんの七変」の精鋭たちは、行動を開始した。
白井、寺石、K、そして斥候役の上松。
彼らは、部屋の通気口の金網を、持ち込んだ十徳ナイフ(これも寺石が肛門に隠して持ち込んだものである)で外し、埃まみれのダクトへと侵入した。
狭隘なる暗黒の空間。
白井は、武術で鍛えた柔軟性を駆使し、尺取虫の如く匍匐前進を続けた。
前方を行く寺石の尻が、時折、白井の顔面に迫る。その屈辱に耐えながら、白井は己に言い聞かせた。
(これは、ジェームズ・ガーナー演じる調達屋の役回りではない。これは、自由を勝ち取るための、崇高なる苦行なのだ。)
ダクトの下からは、巡回する教員たちの足音が聞こえる。
サーチライトの光が、通気口の隙間から時折差し込み、彼らの心臓を鷲掴みにする。
そのスリルは、まさに映画のクライマックス。彼らの脳内では、エルマー・バーンスタイン作曲のあの勇壮なテーマ曲が高らかに鳴り響いていた。
やがて、彼らは目標地点たる教官室の真上に到達した。
Kの予言通り、権田原教諭はラジオに夢中である。机の上には、没収品の山。その頂に、神々しく輝く『レモンピープル』と、銀紙に包まれたチョコレートが見える。
「行くぞ。」
寺石が合図を送る。
彼らはダクトの蓋を外し、白井がロープ(シーツを裂いて作ったもの)を伝って降下を開始した。
音もなく床に着地する白井。
その動きは、忍の如く洗練されていた。彼は、金庫の前に置かれた没収品の山へと手を伸ばす。
指先が、『LP』の表紙に触れた、その瞬間である。
『――ファイト! 闘う君の歌を、闘わない奴等が笑うだろう――』
ラジオから流れる中島みゆきの絶唱に合わせて、感極まった権田原教諭が、突然、両手を広げて大声で歌い出したのだ。
「ファイトォォォッ!!」
その絶叫と共に、権田原は勢い余って回転椅子を回し、白井の方を振り向いた。
目と目が合う。
白井の手には、美少女雑誌。
権田原の目には、涙と狂気。
「……あ。」
静寂は、一瞬であった。
次の瞬間、合宿所全体を揺るがすような非常ベルが鳴り響いた。
「脱走だァァァッ!! 確保ォォォッ!!」
天井裏の寺石たちは、蜘蛛の子を散らすように後退したが、時すでに遅し。
ダクトの出口には、竹刀を持った体育教師たちが、地獄の獄卒の如く待ち構えていたのである。
彼らの『大脱走』は、映画のようにバイクで鉄条網を飛び越えることもなく、埃まみれのパジャマ姿で御用となる、あまりにも無様な幕切れを迎えたのであった。
第三章 処刑台の蝉しぐれ
翌朝。
合宿所の校庭には、全校生徒が整列させられていた。
朝霧が晴れゆく中、掲揚台のポールだけが、冷酷な墓標の如く天を衝いて聳えている。
その前には、手鎖こそ打たれていないものの、昨夜の脱走犯たち――白井、寺石、K、上松らが、うなだれて立っていた。
権田原教諭が、拡声器を持って彼らの前に立つ。
「昨夜の狼藉、断じて許すまじ。神聖なる合宿所を、己が欲望のために汚した罪、万死に値する。よって、これより公開処罰を執行する。」
生徒たちの間に、戦慄が走る。
荒塩衆道会における処罰とは、単なる体罰ではない。それは、人格を破壊し、羞恥心の底まで叩き落とす、精神的な拷問であった。
「白井紫影!」
「は、はいッ!」
「貴様には、**『蝉の一生』**を命ずる!」
その言葉を聞いた瞬間、白井の顔色から血の気が失せた。
『蝉の一生』。それは、この合宿所で語り継がれる、最も過酷で、最も演劇的な刑罰である。
白井は、拒否権など持たない。彼は、ふらつく足取りで国旗掲揚ポールへと歩み寄った。
全校生徒の視線が突き刺さる中、白井のパントマイムが始まる。
まず、彼は地面に這いつくばり、泥の中を蠢く幼虫と化す。
(俺は……俺は武術家だ。何故、こんな場所で、虫けらの真似事を……)
内なる自尊心が悲鳴を上げるが、竹刀を持った教師の目が「演じろ」と命じている。
彼は泥を啜りながら、ポールの根元へと辿り着く。
そこから、羽化への登攀が始まる。
手足の筋肉を総動員し、冷たい金属のポールを登る。一メートル、二メートル、五メートル……。
頂上に達した時、彼は朝日を浴びて、両手を大きく広げた。
そして、魂の限りを尽くして、叫ばねばならない。
「ミーン、ミンミンミンミン……ッ!!」
「ツクツクボーシ! ツクツクボーシ……ッ!!」
虚空に響き渡る、白井の絶叫。
それは、単なる鳴き真似ではない。それは、過ぎ去りし夏への挽歌であり、決して手に入らぬ自由(と美少女雑誌)への、断末魔の叫びであった。
ひとしきり鳴いた後、蝉には死が訪れる。
白井は、力が尽きた演技と共に、ポールからスルスルと滑り落ち、地面に「ポトリ」と仰向けに倒れた。
手足がピクピクと痙攣し、やがて動かなくなる。
完璧な死。
校庭には、厳粛な沈黙と、堪えきれない忍笑いのさざ波が広がった。
第四章 軟体動物の悲哀
しかし、地獄は終わらない。
続いて権田原が指差したのは、運動神経の鈍い寺石と上松であった。彼らには、ポールを登る体力はない。
故に、彼らに与えられたのは、地を這う者への罰であった。
「寺石、上松! 貴様らには**『アメフラシの刑』**を処す!」
「ア、アメフラシ……!?」
寺石が眼鏡を曇らせて絶句する。
彼らは校庭の砂利の上に、うつ伏せに寝かされた。
手足を使わず、ただ身体をくねらせて前進せよというのだ。
ズリ、ズリ……。制服が砂に汚れ、彼らは無様な軟体動物となって這い回る。
そこへ、教官たちが竹箒を持って現れる。
教官たちは、無慈悲にも彼らの脇腹や尻を、箒の先でツンツンと突き回した。
「ほら、アメフラシだ。突かれたらどうする? ん?」
寺石は悟った。これこそが、この刑の核心。
アメフラシは、刺激を受けると紫色の液体を出す。それを再現せねば、この責め苦は終わらないのだ。
寺石は、屈辱に顔を歪めながら、口に含んでいたモノ(昨夜の夕食に出された葡萄ジュースの残りと、インクを混ぜた怪しげな液体――Kが用意していた『儀式用の聖水』である)を、意を決して吐き出した。
「ぶ、ぶじゅる……」
寺石の口から、どす黒い紫色の液体がダラリと垂れ落ち、砂利を染める。
隣では上松も、「びちゃあ」と音を立てて紫の液体を吐き出している。
「おお、出た出た。見事な紫液だ」
教官たちは手を叩いて喜ぶが、それを見守る生徒たちの目には、恐怖と憐憫の色が浮かんでいた。
砂利の上を這いずり回り、紫の液を垂れ流す眼鏡の男と、怯える後輩。
そして、ポールの下で仰向けに死んでいる、筋肉質の蝉。
この光景こそ、青春という名の舞台が演出し得る、最もグロテスクで、かつ最も滑稽な**非喜劇**の一幕であった。
終章 夏の残骸
合宿所からの帰りの船上。
白井たちは、甲板の手すりに寄りかかり、遠ざかる島を見つめていた。
彼らの顔には、疲労と、ある種の憑き物が落ちたような虚脱感が漂っていた。
結局、『レモンピープル』は没収されたままであり、チョコレートも権田原の胃袋に収まった。
彼らが手にしたのは、全身の筋肉痛と、一生消えないであろう「蝉とアメフラシ」というあだ名だけであった。
「……精霊が言っている」
Kが潮風に吹かれながら呟いた。
「我々は、生まれ変わったのだ、と。」
「フン、蝶にか?」
寺石が自嘲気味に笑う。口の端には、まだ微かに紫色のしみが残っていた。
「いや、」白井が答えた。「我々は、ただ脱皮しただけだ。一皮むけて、また一回り、業の深い成虫になったのさ。」
白井は、ポケットの中で、こっそりと隠し持っていた『きみはきらり』のピンナップ(これだけは靴底に隠して死守したのだ)を指先で撫でた。
その感触がある限り、彼らの戦いは終わらない。
彼らは、懲りることなく、また次の「聖典」を求めて、この俗世という名の広大な監獄を這いずり回るのだろう。
波の音が、彼らの笑い声をかき消していった。
夏はまだ、始まったばかりであった。




