寺石という名の不可解な宇宙――あるいは知識の偏向と誤読
第一章 エントロピーの衣装
寺石という男を語るにおいて、まず触れねばならぬのは、その特異な外見と、それを支える強固な精神構造である。
彼は、他者の視線というものを、一切気にしない。否、気にしないのではない。彼の認識世界において、他者の評価などというものは、宇宙の背景放射ノイズと同等の無意味な信号に過ぎないのだ。
その結果、彼の服装は、学園の規則と個人的な実用性、そして無頓着が奇跡的なバランスで融合した、一種の前衛芸術と化していた。
制服のボタンは掛け違えられているのが常であり、その隙間からは、何故か彼が愛する電子基板の一部や、配線コード(リード線)が腸の如くはみ出している。冬場になれば、その上から祖父の遺品だという軍用外套を羽織り、手には指先を切り落とした軍手を装着する。
これを単なる「ズボラ」と呼ぶのは早計である。
彼の中では、「即座に半田付け作業に移行できる機能性」と「憂国の士としての矜持」が論理的に統合された結果、このファッション(様式美)へと帰結しているのである。
彼は、そのボロを纏って、王侯貴族の如く堂々と校内を闊歩する。その姿は、ある種の聖性スラ感じさせるほどであった。
第二章 誤読の迷宮――ヴァン・ヘイレン事件
ある日の放課後。部室には、寺石と、洋楽に造詣の深い隻眼の絵師、鷹の二人が残っていた。
鷹は、ラジカセから流れるハードロックに頭を揺らしながら、絵筆を動かしていた。
「……やはり、ヴァン・ヘイレンのリフは最高だな。この『ジャンプ』のキーボードの音色は、魂を解放するようだ。」
鷹が何気なく漏らしたその言葉に、回路図を睨んでいた寺石が、猛然と反応した。
眼鏡の奥の理知的な瞳が、一瞬にして検閲官の鋭さに変わる。
「……何? 鷹よ、貴様今、なんと申した?」
「え? だから、ヴァン・ヘイレンが……」
「**ベヘイレン(ベ平連)**だと!?」
寺石は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「『ベトナムに平和を!市民連合』……あの亡霊ごとき左翼運動が、未だ地下で活動を続けているというのか! しかも『ジャンプ』だと? 何たる事だ、彼らは今度は暴力革命への飛躍を画策しているのか!」
「いや、寺石、違う。アメリカのハードロックバンドだ。」
「黙れ! 米国のバンドだと? 欺瞞だ! それは**KGBの狗**どもが、西側諸国の若者を堕落させるために送り込んだ、文化工作部隊の隠れ蓑に違いない! 貴様、そのようなプロパガンダに魂を売るとは、嘆かわしい!」
寺石の脳内辞書には、「ヴァン・ヘイレン(Van Halen)」という項目は存在しない。あるのは「ベ平連」という昭和の政治運動の記憶のみである。
鷹はため息をつき、訂正を諦めた。寺石の思想フィルターを通せば、陽気なロックバンドも、共産圏の陰謀へと変貌するのだ。
第三章 淫靡なる誤解――ジョージ・マイケル事件
また別の日。
鷹が、甘いバラードを口ずさんでいた時である。
「やっぱ、ジョージ・マイケルはいいなぁ。この『フェイス』の色気、たまらんよ。」
その時、寺石の手が止まった。彼は持っていた半田ごてを置き、信じられないものを見る目で鷹を凝視した。
「……鷹よ。貴様、そこまで堕ちたか。」
「は? 何が?」
「貴様は今、こう言ったな。**『情事、魔、行ける』**と。」
「言ってない!」
寺石は聞く耳を持たない。彼の脳内では、鷹の言葉が、最も淫靡で背徳的な漢字へと変換されていた。
「『情事魔』……なんと破廉恥な響きか。しかも『行ける』とは、その魔性との不義密通を肯定する言葉。ただ事ではないな。相手は誰なのだ? まさか、人妻か? あるいは、ハニートラップの類か?」
「違う! 歌手だ! 元ワム!の!」
「和む(ワム)? 情事を行って和むとは、最早快楽主義の極致! 貴様の精神は、ローマ帝国末期の退廃そのものだ!」
寺石は戦慄した。友人が、知らぬ間に「情事魔」なる妖怪変化に取り憑かれ、快楽の泥沼に沈んでいると確信したからだ。彼は真剣に、鷹の除霊(あるいは思想改造)を検討し始めた。
第四章 権力との闘争――ポリス事件
寺石の誤読は留まることを知らない。
ある時、鷹が名曲『見つめていたい』について語った。
「俺はポリスのスティングが好きなんだ。あの、ストーカー的なまでの執着愛、最高にクールだろ?」
その瞬間、寺石は机の下に身を隠し、周囲を警戒し始めた。
「……シッ! 声を落とせ、鷹!」
「な、何だよ急に。」
「貴様、**ポリス(警察権力)**のスティング(囮捜査)が好きだと? 正気か? 奴らは我々のような思想犯を常に監視しているのだぞ!」
「バンド名だってば!」
「騙されるな! 『見つめていたい(Every Breath You Take)』……ほら見ろ! これはラブソングではない。**『貴様の呼吸の一つ一つまで監視しているぞ』**という、国家権力からの恫喝だ! パノプティコン(一望監視施設)の恐怖を歌っているのだ!」
奇妙なことに、この解釈に関しては、あながち間違ってもいなかった(原曲も監視をテーマにしている側面がある)ため、鷹は反論に窮した。寺石は勝ち誇ったように言った。
「見ろ、私の洞察は正しかった。やはり、洋楽とは、西側諸国の監視システムを正当化するための洗脳装置なのだ。」
第五章 八百万の義憤――マドンナ事件
極め付けは、マドンナであった。
鷹がポスターを見ながら呟く。
「マドンナの『ライク・ア・ヴァージン』、いつ聴いても衝撃的だよな。」
寺石は、雷に打たれたように硬直した。
彼はカトリック系の学園に身を置きながらも、その信仰の根底にあるのは日本古来の八百万の神であった。彼にとって、キリスト教の神もまた、数多ある神々の一柱に過ぎない。しかし、それ故にこそ、あらゆる神格に対する非礼を許さぬ、独自の宗教的潔癖さを持っていた。
「……鷹よ。貴様、今、神域を侵犯したな。」
「はあ?」
「**マドンナ(聖母マリア)の名を騙る歌手が、あろうことか『ライク・ア・バージン(処女のようだ)』**などと歌うとは、何たる不敬かッ!!」
寺石の論理は、一神教的な信仰心というよりは、神々の秩序を守護する番人のそれであった。
「良いか。私は耶蘇教の信徒ではない。しかし、聖母マリアがこの学園の土地神にも等しい強力な霊格であることは認めている。その御名を冠しておきながら、『ようだ』という曖昧な比喩を用いることは、神と人の境界を撹乱する、呪術的なテロリズムだ!」
「だから歌手の名前だって! そういうタイトルの曲なんだよ!」
「黙れ! 聖母の名を詐称し、あろうことか『処女の如き』などと嘯く女がいるとすれば、それは神威を汚すバビロンの大淫婦、あるいは狐狸妖怪の類に他ならぬ! 八百万の神々も、そのような無礼な歌には眉をひそめておられるわ!」
かくて、寺石の世界において、洋楽のヒットチャートは、**「左翼運動家(ベ平連)」と「色情魔(情事魔)」と「国家権力」と「異端の魔女」**が跳梁跋扈する、陰謀と背徳の地獄絵図と化した。
彼は、鷹が差し出すCDを、まるで放射性廃棄物でも扱うかのように指先で弾き飛ばし、再び手元の壊れた回路基板へと視線を戻した。
「……ふん。やはり信じられるのは、このシリコンの論理と、八百万の神々の沈黙のみだ。」
寺石は、半田ごての煙に巻かれながら、祝詞のようなリズムでぶつぶつと呟き始めた。
その背中には、他者の理解を拒絶する、孤高にして滑稽な「寺石宇宙」が、無限の広がりを持って渦巻いているのであった。




