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白井紫影の憂鬱  作者: ドクター・減る


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修羅の巷(ちまた)と象牙の塔――あるいは白井紫影の起源

第一章 世紀末の学舎


 白井紫影が聖交学園の門を叩く以前、彼が身を置いていた環境は、文字通りの修羅道であった。

 彼が通っていた市立第三中学校は、県内でも指折りの教育困難校であり、その荒廃ぶりは世紀末の様相を呈していた。

 校舎の窓ガラスは、その本来の透明な機能を喪失し、ことごとく砕け散っている。廊下をバイクが疾走するのは日常茶飯事であり、職員室に火炎瓶が投げ込まれ、教師たちの悲鳴と怒号が交錯することも、決して珍しい光景ではなかった。


 この暴力と狂気が支配する混沌カオスの中にあって、白井少年は、あたかも汚泥に咲くはすの如く、あるいは嵐の中の石像の如く、徹底した**「個」**を貫いていた。

 彼は学校というシステムに絶望していた。

 教師たちは、日教組的なイデオロギーに凝り固まり、「平和」や「人権」を題目として唱えるばかりで、目の前の暴力に対しては無力であり、何より授業の内容は、白井の渇いた知的好奇心を潤すにはあまりにも浅薄せんぱくで退屈であった。


 「ここに学ぶべきものは無し。」


 白井は早々に悟りを開いた。彼は登校こそすれ、教室には入らず、図書室の奥や、誰も寄り付かぬ屋上の給水塔の陰に隠れ、独学に没頭した。

 彼にとって、学校とは単なる「通過儀礼としての拘束場所」に過ぎず、真の学び舎は、夜に通う進学塾と、自室の机上にのみ存在したのである。


第二章 針の穴を穿つ者


 彼が目指したのは、私立聖交学園であった。

 ここは、六年一貫教育を原則とする名門進学校である。そのカリキュラムは過酷を極め、常軌を逸した体罰すら辞さぬスパルタ教育によって、毎年一定数の落伍者ドロップアウトを生み出す。

 高校からの編入枠とは、即ち、この生存競争に敗れ去った敗者たちの空席を埋めるためのものであり、その門戸は極めて狭い。

 中学入試の比ではない、殺人的な倍率と難易度。それを突破できるのは、狂気じみた執念と、圧倒的な学力を持つ**「強者」**のみである。


 白井は、その針の穴を通す戦いに挑んだ。

 周囲の不良たちがシンナーと暴走行為に明け暮れる中、彼は耳栓をして騒音を遮断し、微積分と漢文の海を泳ぎ続けた。

 その姿は、孤高の哲学者であり、求道者であった。

 かくして彼は、聖交学園への切符を手にし、地獄の中学生活から脱出することに成功したのである。


第三章 空白の領域と魔の刻


 しかし。

 ここで一つの、重大な誤算が生じた。

 学校という拘束具から精神的に解き放たれ、周囲の人間との交流を一切絶っていた白井には、膨大な**「空白の時間」と、行き場のない「情熱の奔流」**が残されていたのである。


 彼は現実の女子生徒を軽蔑していた。

 中学の女子たちは、改造制服を着て煙草を吹かす阿婆擦あばずれか、あるいは教師の顔色をうかがうだけの無個性な人形にしか見えなかった。

 彼の高潔な精神は、現実リアルの汚れなき理想を求めて彷徨さまよった。


 そして、運命の魔が差した。

 深夜の独学の最中、ふと息抜きに手にした深夜ラジオから流れる情報、あるいは塾の帰りに迷い込んだ古書店の片隅。

 そこで彼は出会ってしまったのである。

 **「二次元」**という名の、絶対不可侵の聖域サンクチュアリに。


 そこには、暴力も、裏切りも、汚らわしい現実の肉体関係も存在しない。

 ただ、永遠に歳を取らず、純粋無垢な瞳で微笑む、イデアとしての少女たちがいた。


 「これだ……。私が求めていた『美』は、ここにあったのだ。」


 学業で培われた彼の並外れた集中力と探究心は、あろうことか、全てこの**「幼形愛好ロリコン」**の道へと注ぎ込まれることとなった。

 彼は参考書を買うべき小遣いを、美少女アニメのレーザーディスクや、同人誌の蒐集しゅうしゅうへと費やした。

 漢文を読み解く読解力は、漫画の行間にある作者のフェティシズムを読み解く力へと転用され、数学で培った論理的思考は、「なぜ彼女たちは尊いのか」を証明するための詭弁きべんの構築に使われた。


 皮肉なことに、彼が聖交学園に入学した時点で、彼は既に**「完成」されていた。

 鋼の如き肉体と、全国模試上位の頭脳。

 そして、それら全てを台無しにする、深淵なるごう**。


 白井紫影という怪物は、荒廃した環境が生んだ突然変異であり、孤独な象牙の塔の中で培養された、哀しきエリートだったのである。


第四章 電脳の夢遊病者と内なる乙女


 そして、この悲劇には、本人すら知らぬ密かな続きがある。

 二次元の少女への憧憬どうけいが極限に達した時、白井の精神構造に致命的な亀裂が生じたのである。

 哲学において「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている」と言うが、白井の場合、あまりにも強く少女というイデアを見つめすぎた結果、彼の中に**「別人格としての二次元女子中学生」**が受肉してしまったのだ。


 それは、解離性同一性障害などという医学的な言葉で片付けられるものではない。

 強いて名付けるならば、**「魂のネカマ化」**とでも呼ぶべき怪奇現象であった。


 深夜、家族が寝静まったとき

 白井は、自室のパーソナル・コンピュータの青白い光の前に座す。

 彼は、チャットルームに接続し、キーボードに手を置く。

 その瞬間、彼の意識はフツリと断絶する。武術家としての厳しい顔つきは氷解し、その瞳には、あどけなく、かつびを含んだ、乙女の如き妖しい光が宿る。


 『みなさん、こんばんわ♪ 中学二年生のきららだよ☆』


 太く逞しい指先が、信じ難い速度でキーボードを叩き、画面上にピンク色の文字と顔文字を撒き散らす。

 白井本人の意識は、深い闇の底へ沈んでいる。その肉体を操っているのは、彼が脳内で培養し、理想を詰め込んだ架空の少女、「きらら」であった。

 彼女は、ネットの海に出没する飢えた男たちの会話を巧みにさばき、愛嬌を振り撒き、時には悩み相談に乗ることさえあった。


 白井紫影は、知らなかった。

 翌朝、目覚めた時の激しい疲労感が、武術の稽古によるものではなく、夜通し行われた**「女子中学生としての社交」**によるものであることを。

 彼が聖交学園で「硬派」を気取っている間も、彼の中の「きらら」は、電脳空間で数百のファンを獲得し、アイドルとして君臨しつつあったのである。


 武術僧の如き肉体に宿る、電子の妖精。

 彼がこの恐るべき二重生活の真実に気づくのは、聖交学園を卒業し、社会に出て久しい、彼が成人してからのことであった。

 それまでの長きに渡り、白井は己の中に棲まう乙女と、奇妙な共生関係シンバイオシスを、無自覚なままに続けていくこととなる。

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