第3話
朝6時。
まだ朝もやの残る公園に、風を切るような鋭い音が響いていた。
寺坂は、早朝の素振りを日課としていた。
竹刀を振っていると、日ごろの仕事で抱えた、モヤモヤした気持ちが澄んでいくのを感じる。
自分が朝の澄んだ空気に溶け込んでいく、そんな感覚だ。
この習慣は、40歳で会社を辞めてから、雨の日と風の日と用事がある日以外は、毎日欠かさず続けている。
最初は近所の公園に竹刀を片手に出かけていたのだが、警察官の職質にあってから、少し遠い公園まで車で出かけるようにしている。
ひとしきり、汗をかくと、ベンチに座って一休み。
ポケットから煙草を取り出して一服する。
煙草をくわえたまま、近くの自販機で缶コーヒーを買う。
運動の後の一服は格別だった。
寺坂がベンチにもたれていると、公園の外周を走る人影が見えた。
ここ一年くらいから見かけるようになったその人影。
漠然と、
――吉良君に似てるな。
と、思っていたが、声はかけていない。
社員のプライベートに干渉するのは上司が一番やっちゃいけないことだ。
家に帰って、ざっとシャワーを浴び、出かける。
妻が実家に行ってから、朝食は食べていない。
妻がいれば、作ることもあるのだが、一人だとなんとなく寂しい感じがするので、近くの喫茶店を利用することにしている。
年の瀬も迫り、だいぶ寒くなった。
歩いていると、白い息が口から洩れる。
喫茶店につくと、店内に置かれた新聞を取り、あえて決めているわけではないが、いつもの席に座る。
モーニングを頼み、バターがしみ込んだパンをかじり、温かいコーヒーで流し込むと、体が暖かくなる。
その日の新聞にざっと目を通すと、そのまま職場に向かう。
職場を開けるのは所長の役目だ――少なくとも寺坂はそう思っていた。
一応、吉良にもカギは渡してあるが、これまたなんとなく、負けてはいけないという気持ちがあった。
事務所に入ると、窓を開けて空気を入れ替える。
窓の外にはお墓が広がっている。
この事務所は前所長の実家のお寺の敷地に建てられていており、所有者はその「寺」になっている。
一応、家賃は支払っているが、格安、だと思う。
前所長も事務所に籍を残しており、社労士登録も継続しているので、まあ、いるうちは甘えてしまおう、と寺坂は思っている。
墓を眺めながら、一服。火を消す。
吉良が出勤してくる前に窓をすべて閉め、ストーブに火を入れる。
セントラルヒーティング方式ではあるが、老朽化で暖房の効きが悪い。
ストーブの火がついて、ようやく部屋は暖かさを取り戻した。
「おはよう、ございます。」
吉良のテンションが低い。いつものことだ。
低血圧で朝は弱い、と本人は言っているがそれ以上のことは聞いていない。
「おはよう。」
そう返し、寺坂も席に着く。
事務所はそれほど広くはないが、寺坂と吉良、それとパートの貝賀の3人が仕事をするには十分なスペースがあった。
「おはようございます。」
貝賀が出勤してきた。
年齢は聞いたことがないが、長いこと勤めているこの事務所の要と言ってもいいだろう。
社労士資格はないが、総務・経理のエキスパートだ。必然的に社労士補助業務も優秀にこなす。
「貝賀さん、おはよう。」
寺坂が声をかける。
「所長、おはようございます。」
寺坂に向かって、穏やかに挨拶をする。
「そういえば……吉良くん、昨日の領収書、日付が無かったけど、あとでお店に聞いてもらえる?」
「すみません!すぐに確認します。」
「いいのよ。まだお店、空いてないでしょ?吉良くんが見落とすなんて、珍しいわね。所長は……まあ、言うのはやめておきましょうか。」
貝賀は所長の顔をみてやんわりとほほ笑んだ。
「ははは。」
寺坂は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
業務が始まると、所内は静かになる。
基本雑談はしない。
だれが決めたわけでもなく、そうなっている。
とはいえ、ふとしたときには、話はする。
「……そういえば、所長。朝、公園にいませんでしたか?」
吉良がふいに話しかけてきた。
「え。見てたの?」
寺坂は気が付かれたという決まずさと、いまさら?というあきれが混じった声で問い返す。
「なんか、竹刀を振っている危ない人がいるな、と思ってみたら、所長によく似てたので。」
「いや、危ない人って……一応、周りには気を使ってるつもりなんだけど。」
「そうなんですか?所長が?」
「所長がって……俺が傍若無人みたいな言い方を……」
それを聞いて、貝賀がツボに入ったらしく、うつむいて肩を揺らしている。
そんないつもの光景だった。
その日の午後。
「じゃ、行ってくるから、あとよろしくね。」
寺坂は、厚手のジャケットを羽織ると、所内に声をかけて事務所を後にした。
その日の午後は、社労士会定例労働相談の当番になっており、寺坂も木枯らしが吹く中を(仕方なく)出かけるのだった。
終わりの方の文章構成を変えました。
【貝賀友子】
前所長のころから務めるパート従業員。
聞けばなんでも答えてくれる。事務所自体の総務・経理事務も一手に引き受けている。




