後門の狼
僚機の主翼から燃料が吹き出ていた。先刻の空戦時に被弾したらしい。黒い尾を曳いている。
パイロットはしばらく計器を睨み、色々と操作し、後席の者は航法手兼機銃手と色々相談をしていた。
ヘンダーソンとポート、そして窮地を救ってくれた戦闘機が不安に見守る中、パイロットはもうダメだと首を振った。そしてちょいちょいと指を今来た方、敵基地へと向けた。母艦に帰れないから引き返して自爆する、という意味。
パイロットはこれも定め、武運が拙かっただけのこと、と綺麗サッパリ運命を受け入れたようだった。
ヘンダーソンが何より残酷に思うのは、僚機の傷は燃料タンクだけなのだ。パイロットも機体もピンピンしている。
もし先ほどの空戦で、自分が敵機に命中弾を与えられていたなら僚機は無事に帰れたのではないか。空戦の訓練をあまり受けていない艦爆乗りには無茶な注文だろうが、できたのではないかと自分を責めて止まない。
そんなヘンダーソンの悔恨を知らないと見えて、僚機はヒラリと軽やかに翼を翻した。
そして時間が経って以下の無電が舞い込んだ。
『我タダイマヨリ突入ス 生前ノ御厚誼ニ深謝ス』
降り仰いで見ても何も見えない。当たり前のことた。敵基地すら水平線の遥か先で爆撃の黒煙すら見えない。なのになぜ僚機の最後が見えようか。それでも振り向かずにはいられなかった。
×××××
さらに母艦を目指して飛んでいると、ポートが追蹤してくる敵機に気付いた。
敵機は強烈な逆ガル翼を持つ急降下爆撃機。帝国軍はこの機の急降下の時の風切音がサイレンのようだということでサイレンと読んでいる。
ヘンダーソンもポートも哨戒用の双眼鏡を返納せず所持しており、今回ポートはその双眼鏡で周囲を警戒している内に見つけた。
サイレンは七時下方を飛んでいる。機影の大きさが変わらないことから自機と同速で飛んでいるらしい。
サイレンはドーントレスより遥かに優速。追いつけないわけがない。なのに同速度で飛んでいるということは、明らかに尾けている。高度による優位を捨てているのもその確信の度合いを高めさせる。ヘンダーソンを追って空母の所在を突き止める算段に間違いない。
問題は戦闘機が戦闘機動の連続で燃料の不足で先に帰投してしまっていて、ヘンダーソンはただ自機のみということ。それから先の敵戦闘機との空戦のために多大の燃料を費消していてあまり余裕が無いこと。
最後にヘンダーソンは馬鹿正直に母艦への直線を飛んでいた。敵戦闘機に襲われ、辛くも生き延びたことで偽装針路をとることをすっかり忘れていた。
一応、今から変針しても大きく迂回しなければ帰艦できるだけの残燃料はある。とはいえ敵機の方が燃料は多いはずだ。なぜなら敵基地の近くだから。
では撃墜するかと問われれば、いやいや機体性能で負けているから無理だと答えるしかない。
落ち着け、落ち着けと自身を諌めてヘンダーソンは考える。何か手はあるはずだ。そうだ、敵機は自分が敵機に気付いたことはわからないはずだ。
となればだ。ヘンダーソンは今し方偽装針路から母艦への針路に変えましたよ、という風に機体の向きを変えた。敵機からすれば、まさかこの変針が母艦から遠ざかるものとは思いもよらないだろう。
次にしばらく飛んだ後、そろそろ母艦に着艦するためですよ、という感じに高度を下げ一面の雲海に潜航した。
敵基地爆撃に向かう往路ではあれだけ不安、不満に思った雲海も今では敵機から姿を隠してくれ、実に頼もしい。
雲中では計器のみに頼る計器飛行になる。具体的には速度計、高度計、機体の上下左右の傾きを示してくれる姿勢指示器に頼る。
ヘンダーソンは機を180度反転させた。追蹤してくる敵機とすれ違おうという算段だ。
10分は飛び、もう敵機を巻いたろうと雲上にそろそろと浮上する。瞬間、ポートが叫んだ。
「回避!」
同時に連装機銃が唸る。
弾かれるように操縦桿を倒しフットペダルを踏みつける。機体はつんのめるようにして旋回。最中にガンガンと甲高い機銃弾が命中する音。最後にブオン!と敵機が至近距離を通過した音。
「損害は!?」
「大丈夫!胴体後部と尾翼に軽く喰らっただけだ!」
敵機は正確に尾けていた。あるいはここまで正確だったのは偶然かもしれない。だが今はどちらでも構わない。自機は黒煙を曳いていたりというような、雲中にあって追尾を容易にするような状態にはない。敵機のパイロットが異常に鼻が効くのだ。今はそれさえわかれば良い。
一番の問題はこれで空戦が不可避になったこと。敵機もヘンダーソンが敵機の存在に気付いたことは今ので承知だから泳がせておく必要が無い。敵機からすれば機体性能で劣る相手を墜とし、手柄に加えるだけの話だ。
何よりまず空戦最重要の速度だ。空戦機動は速度と引き換えに行われる。人のスタミナが航空機の速度に相当する。
ヘンダーソンは機を捻り海面へ一直線に急降下、速度を稼ぎ出す。同時に残弾も確認。約120発。2門合わせて120発だから1門あたり60発。機首の12.7mm機銃の発射速度は毎分800発だから1秒あたり13発。5秒で残弾全てを撃ち切る計算になる。あまりに心許ない残弾数。
もっとも、それとて自分が射撃位置に占位できればの話である。
普通なら不可能な話。なぜなら敵機はエンジン馬力が倍近くあるから。旋回半径も、そしてどれだけ早く旋回できるかの指標である旋回率も敵機が優れるから。
今回ほとんど同高度での会敵。速度は敵機有利。勝てる要素が見当たらない。
けれどヘンダーソンは諦めなかった。彼には1つの秘策があった。秘策といっても実際にやったことはなく、理論上は可能というもの。けれど荒唐無稽なわけではなく、機体性能上問題はない。そして機体構造上敵機はヘンダーソンの策をまるで予期できないだろう。
雲下に出て回避機動に十分な速度を得たところで旋回。敵機の射撃を躱し、かつ旋回を続けることで単純な横旋回の空戦に持ち込む。無論このままでは敵機が有利。だからこそ敵機はこの旋回戦にのってきた。
ヘンダーソンが首を限界まで上げる視界の中で、敵機は徐々に視界の上の方に寄っていく。敵機が後方、射撃位置に占位しつつあるということ。
よし、良いぞ、そのまま着いて来い。俺を未熟なパイロットだと油断して着いて来い。
ヘンダーソンは機首を下げ一気に海面まで降下。敵機もヘンダーソンを追い、両機は螺旋状に降下していく。
迫る海面。速度は時速600kmを超えた。機を引き起こし水平旋回に。同時にフラップを《《着陸》》位置にまで下げた。
普通なら速度に耐えられずフラップが破壊される。けれどドーントレスなら、そのフラップがエアブレーキを兼用するという機構により耐えることができた。
限界まで展張されたフラップは、それだけ高い揚力を生み出す。時速600km超えという速度も合わさってグングン曲がる。
高Gにより体が座席に押し付けられる。血流が脳に行き辛くなることで視界が黒く、そして狭まる。
簡単に手放しそうになる意識を、この機会を逃したら死ぬ、どうせ死ぬなら限界まで頑張るんだ!と叱咤することでなんとか繋ぎ止める。
敵機の尾翼の後端が見えてきた。次第に尾翼全体、胴体後部という風に徐々に敵機の全体像が見えてくる。
とうとう射撃位置に占位できた。ヘンダーソンは秘策が的中したこと知りほくそ笑んだ。
敵機はフラップとエアブレーキは別々の機構になっている。だからヘンダーソンの手には考えが及ばなかったろう。
敵機の機銃手が驚愕に目を丸くしているのが見える。
必中の距離まで近付いた。敵機は照準器からはみ出しているほど。射撃。これを逃したら次は無いと全弾撃ち切った。
ズドドドドド、と機銃が唸り曳光弾はほとんど全て吸い込まれるように敵機に向かっていく。まるで光の奔流が敵機を包み込んだんじゃないかと錯覚するほどだ。
パッパッパッと敵機の外版が機銃弾の命中、炸裂に光る。
敵機はよろめいて、さらにエンジンや主翼から黒煙、茶色っぽい煙を吐き始めた。主翼から吹き出しているのが燃料、エンジンからのはおそらく冷却液だろう。
撃墜には至らなかったようだが、敵機はこれ以上の空戦は著しく困難らしく離脱していった。
ヘンダーソンはようやく母艦へ針路をとった。




