帰路
母艦までたどり着けるだろうか?
燃料タンクからの火災は収まったが、大量の燃料を失ってしまった。
「自爆すべきだ。まだ敵艦隊へは引き返せる」
ポートはそう主張する。
これは艦載機乗り達一般の意見でもあった。
母艦へ帰れないということは、広大な海に不時着水することになる。
そしてその場合、まず間違いなく溺れ死ぬ以外にない。
ならば敵艦船に体当たりし、1人でも多くの敵を道連れにするのだ。
もし艦橋に激突すれば佐官級の高級軍人を多く殺すことができる。
けれどヘンダーソンはそれには従わなかった。
なぜなら、ギリギリ帰れそうなだけの燃料が残っているから。
それに、ここで軽々に自爆したら少佐の死が無駄になってしまう。
それに死ぬなと言われた。命令書まで受領している。
「いや、帰る。帰るんだ」
ポートに命令書を渡した。
「……そうか。よくわかったよ。でも、でもな……」
ポートは声を詰まらせた。
「機位を見失ったんだ。完全にじゃないけど……。戻れるかんかんないよ」
「…………。大丈夫だよ。戻れるよ」
根拠のない話じゃない。急降下爆撃後の集合地点はわかってる。そこからおおよそどの方角へ移動したのかもわかってる。
見失ったと言っても、精々10kmやそこらの誤差。どうしようもないほど現在地がわからないわけじゃない。
それに『我、機位不明』と打電すれば空母から誘導電波を出してもらうことだってできる。
今はまだ距離からして母艦まで電波が届かないだろうから、発信はしばらく後。
大丈夫。諦めるにはまだ早い。
ここからはポートの、航法手としての戦いだった。
まずおおよそここだろうという現在地をヘンダーソンと相談して決めた。
そしたらばやることは普段と変わらない。
まず機速の確認。次に機体の針路。さらに偏流(航空機が風によって予定の航路から横方向に流される分)、偏流角を求めて実際に自機がどの方向に進んでいるのか確認する。
それら各種データを航空図に書き込んでいく。
あまり茫洋とした作業。そもそも自機の位置すらわからないのに、果たして帰艦できるのだろうか?とりとめのない不安が押し寄せる。
ええい落ち着け。ポートは自分に言い聞かせる。
ほら、思い出せ。あれはまだ小学生の時のこと。近所の川で延々、気配を見せない獲物を求めて延々釣りを続けたろう。あの根性だ。
それにほら、お前は粘り強い頑張り屋じゃないか。村1番の貧農と言われた家から、高嶺の花と言われる海軍航空隊に合格したじゃないか。それに費やした膨大な努力を思い出せ。時に家族からも呆れられ、周囲にも馬鹿にされたがやり通したじゃないか。
ポート、お前はガッツのある男だぞ。ここでくたばるようなタマじゃない。
2人は燃費の節約のため、不要なものを捨てた。
ポートは後部連装機銃の内の1つ、予備弾薬全て、拳銃、救命胴衣、必要最低限以外の衣類。
ヘンダーソンは追加で機銃を全て撃ち切った。
弁当も食べることにした。
メニューはコンビーフのサンドイッチ。搭乗員がもう少ないから、と調理員が常よりも多くのコンビーフを入れてくれた。
弁当箱ももちろん捨てた。
機体は燃費に最適な高度まで徐々にのぼる。
「マズイ……」
誰にともなくポートは独りごちる。
風速を判定する方法に海面の状況、特にどれくらい波が立っているかを見るというものがある。
今日は雲が多い。
高度が上がったことにより、海面が見えなくなってしまった。時折りチラと見えはするが、風速の判定をするには難しい。
それに機体はまだまだ高度を上げていくから、余計に波が見えにくくなる。
「雲だ。分厚いぞ」
ヘンダーソンの声に前を見る。針路上に断崖絶壁のように聳える積雲。しかも横にも広がっている。
「迂回は考えない方が良い。どこまで広がってるかわかんないし燃料もギリギリだ」
「そうだな。突入する」
雲に突入すると視界は完全に無くなった。灰色っぽい色だけがあって、翼端すら見えない。
ヘンダーソンは完全な計器飛行に移った。
航空機の操縦を習う過程で必ず練習させられる。幕で包まれて外との視界の一切を遮断され、ただ計器だけを頼りに飛行する訓練。
簡単なようで人間というのは案外雑なつくりをしていると実感させられる難しい訓練だった。
というのも、計器では真っ直ぐ飛んでいるのに自分の感覚では明らかに傾いている、ということが多々起きる。そしてその場合、間違っているのは計器で正しいのは自分の感覚だと強烈に思ってしまう。
この強烈な本能を理性で抑えなければならない。
今も機体が前方に傾いているように感じるが、計器を見る限りそんなことはない。
操縦桿を引け!機体を引き起こせ!
生存本能の悲鳴を訓練で培った理性で抑えつける。
絶えず計器を注視する。というかそれ以外は意図して意識しないようにする。
ほら、だんだん速度が下がってきてる。
スロットルを倒して増速。雲中ではとにかく姿勢、速度を保ちたい。そうしないと雲を突破したとき、自機がどこに位置しているのか皆目見当がつかなくなってしまう。
……おかしい。速度が回復しない。エンジンは快調に吠えている。スロットルを倒せばそれだけ音も増す。エンジンに問題は無いと見て良い。
では燃料混合比だろうか?
パイロットはエンジンに送り込む燃料と空気の混合率のことで、これを調整して最高性能を発揮させる。
空気は高度によって密度が異なるから、これを調整してやらねばならない。
しかし、とヘンダーソンは考え込む。俺は雲に突入する前に調整したはず、と。
速度はゆっくりとだが、しかし着実に落ちていく。
エンジンに原因が無いとして、では他に考えられる原因は何か?
真っ先に考えつくのは被弾による損傷。
ひょっとしてランディング・ギアが出ている?
ランディング・ギアは油圧で作動する。そのため被弾で油圧系統が破損し、圧力が低下すると勝手に出てきてしまうことがある。
タチが悪いことにランディング・ギアは主翼下にあるからパイロットからは完全に見えない。
そういえば航空機学校で着陸時にランディング・ギアを出し忘れて胴体着陸をやらかした奴がいたな。
ひどく叱られていたっけ。そいつは戦闘機専修となったから、今は艦戦で戦っているだろう。
ふと昔を思い出したのも束の間、ヘンダーソンはすぐにランディング・ギアが原因ではないだろうと考えた。
なぜなら、もしランディング・ギアが出ているのならもっと急速に減速するはずだし、振動も酷くなる。
正常に格納されているという計器版の表示を信用して良いだろう。
計器版。そう、計器版の故障だろうか?
一通り点検してみるが、故障している気配は無い。まさかピンポイントで速度計だけが壊れているとも思えない。
「ヘンダーソン!ヘンダーソン!」
航空図から顔を上げたポートが驚いて声を張り上げる。それもそのはず、機体が右下方に降下していっているのだから。
ヘンダーソンは速度について考えるあまり機体の姿勢への注意が疎かになってしまっていた。
急いで姿勢、高度を取り戻した後、再び速度低下の原因について考える。
あと思い付くのは着氷ぐらい。
雲中では機体の外版に氷が着くことがままある。それだろうか?
依然雲は厚く主翼は見えないが、なんとか見える機体側面に着氷は見られない。
そうこうしながらポートと共に頭を悩ませている内に、とうとう速度は0になった。




