第三章・第11話 直人じゃない時
特上素材を摂取した直人。
現実の身体に異変が来ます。
朝、目が覚めた瞬間から、直人の身体は“変”だった。
熱はさほどないと思う。寒気でもない。
ただ、重い。
肺に鉛が入ったみたいに息が浅くなる。
指先に細い痺れが残って、
コーヒーのカップが微妙に遠い。
(……昨日の“特上素材”)
設計で頭を回し続けた。
それだけじゃない。
あの地獄味。
飲んだ瞬間だけ世界がクリアになって、
B1の音まで緊張感を伴い聞こえた。
代わりに今、現実がぼやける。
直人はベッドの端に座って、頭の中で“確認”を始める。
妻の名前。娘の名前。会社のログイン。今日の会議。
昨日の会議の議事録が、頭の中で“全文検索”できる。
全部言える。全部思い出せる。
なのに…
「言える」だけでは安心できない。
(守れてるのか? それとも“守れた気がするだけ”か?)
スマホが震えた。
会社のカレンダー通知。
朝会。ユーザー会議。レビュー。
“定例”の三段重ね。
直人は起き上がろうとして、身体に力が入らず、布団に戻った。
リビングで、美沙がひなの支度をしながら振り返る。
「直人、顔色悪いよ。休んだら?」
直人は頷く。否定しない。
「……休む。今日は無理」
美沙が近づいて、額に手を当てる。
「熱は…少し高いかな。目も変」
「目?」
「焦点が合ってない。あと——」
美沙は言いにくそうに、一拍置いた。
「最近、寝言で変な言葉が増えた」
直人の背中に冷たい汗が浮く。
「寝言?」
「うん。“破り”とか、“階層”とか、“撤退”とか」
直人は息を止めた。
(現実に漏れてる)
美沙は続ける。
「仕事の夢でしょ? でも…直人、仕事でもそんな単語使わないよね」
直人は口を開きかけて、閉じた。
「それと、この前、調理中に『制圧』とか言ってた」
説明できない。
説明したら壊れる。
「……ごめん。疲れてるだけだ」
美沙は責めない。責めないから、もっと刺さる。
「疲れてるのは分かる。だから休んで。今日、全部断っていいよ」
直人は首を振ろうとして、途中で止めた。
振ったら本当に詰む。
会社の予定が、頭の中で鳴る。
ユーザーの顔。期限。炎上。
美沙が、直人の様子を見て眉を寄せた。
「直人、今、何考えてる?」
直人は笑おうとして、笑えなかった。
「……仕事」
「仕事って顔じゃない。もっと…“別の何か”」
直人の喉が鳴る。
美沙は静かに言った。
「最近、直人、怖がってる」
直人は息を吐いた。
「……怖がってない」
言い方が弱い。自分でも分かる。
美沙は優しい声で追撃する。
「怖がってるよ。ひなのこと見てる時も。私のこと見てる時も」
直人の胸が痛くなる。
言えない。言えないまま、さらに具合が悪くなる。
「今日は寝て。ひなは送ってく」
「……ありがとう」
ひなが寝室を覗きに来て、
「パパ、だいじょうぶ?」
直人は枕元から手を伸ばして、小さく手を振った。
「大丈夫。…いってらっしゃい」
ひなが笑って、ドアが閉まる。
二人が出掛けて家が静かになる。
直人は布団に沈んだまま、スマホを見た。
Slackが点滅している。
上司からのDM。会議のリマインド。ユーザーからの質問。
「体調不良です」で逃げると、現実が詰む。
逃げないと、体が詰む。
さらに悪い通知が来た。
【会議】開始まで10分
【資料】未更新
【対応】要返信(至急)
直人は目を閉じた。
(詰んでる)
ここで、あの地獄味の副作用が来る。
頭の中の“守られた領域”が、薄い膜みたいに張っている。
思考が少しだけ整理される。
代わりに、身体が抗議する。
胃が痛い。目が回る。頭が重い。
(守れる。でも、現実が壊れる)
直人は息を吐いて、スマホに打ち始めた。
【佐倉】体調不良のため、本日午前は休みます。午後、回復次第参加します。
【佐倉】ユーザー会議は代替可能でしょうか。資料は◯◯までに反映します。
送信。
たったそれだけで、心臓が速くなる。
送信しただけで、息が上がる。
身体が弱っている。
会社からの返信が来る。
【リーダー】休み、承知しました。お大事にして下さい。
そして、その間に、頭の奥が囁く。
(魔王協会の報告……)
(提出しないと補給停止……)
(補給停止は現場の不満……)
(不満は反乱の予兆……)
(反乱は門……)
無理して起き上がり、ノートPCを枕元へ持ってくる。
直人は鉛のような身体の重みで、
枕元のPCを見る為の動きさえ苦しい。
起き上がれないのに、寝ながら手だけが動く。
寝たままの最悪の「出勤」。
でも今日は、それすら出来ない。
”出勤”できない。
ミュートを押せない。
押そうとした瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
押したら、現実で倒れる気がした。
その時、美沙からLINEが来た。
短い一文。
【美沙】帰ったら話したい。最近、直人が“直人じゃない”時がある。
直人は、画面を見たまま固まった。
“直人じゃない”。
それは、記憶欠けの恐怖そのものだった。
高マナ素材は、記憶の膜を少し厚くした。
でも同時に、現実の保護壁を薄くした。
直人は唇だけで動かした。
「……守るために、壊れてどうする」
横を向いた時、開いたままのノートPCの画面が光った。
ダンジョンUIにポップアップが出ている。
【魔王協会】未読 1
件名:【再通知】定期報告 未提出
直人の喉が鳴った。
笑えないのに、笑いそうになる。
現実でも「至急」。
魔界でも「至急」。
どこへ逃げても、至急が追ってくる。
直人は震える指で、返信を書きかけた。
会社宛てではない。
協会宛てでもない。
妻宛てでもない。
自分宛てだ。
(今日、どっちの世界を優先する?)
答えは出ない。
出ないまま、スマホが手から滑り落ちた。
布団の中で、直人は目を閉じた。
閉じたまま、耳だけが起きている。
外の世界が静かであるほど、
頭の中で、二つの世界が騒がしくなる。
そして直人は、最悪のことを思う。
(このまま寝てる間に——)
(魔界で、何かが起きたら?)
その瞬間、通知音が鳴った。
どちらの世界の音か、もう区別がつかなかった。
“報告してください”が、どちらの世界からも聞こえた気がした。
そして、向き合わなければ、美沙と。
——“直人じゃない時”の話を。
(つづく)
遂に現実の直人に迫るリミット。
美沙の申し出を無視する事もできない。
次回、直人君、ある決断をします。




