第二章 第17話 門の不安定化
直人は現実での違和感があるが、努めて普通に過ごす。しかし・・・
朝、現実の空気はいつも通りだった。
いつも通り――のはずなのに、直人は“確認”から始めてしまう。
冷蔵庫。リビング。寝室。
妻の寝息。ひなの寝返り。
全部ある。全部、見慣れている。
それでも直人は、胸の奥が落ち着かなかった。
記憶が欠ける。
その言葉が、まだ舌の上に残っている。
(何が消える。いつ消える。どれが消える)
答えのないチェックリストが、頭の中で勝手に回る。
仕事も、家庭も、“普通”に進んだ。
進んでしまった。
リモート会議の予定をこなし、Slackに返し、資料の修正を入れる。
妻の「今日ゴミの日だよ」に「了解」と返し、
ひなの「きょうね、まおう」の話に頷き、
笑うべきところで笑って、相槌を打つ。
——でも、直人は内側でずっと怯えていた。
昨日の会議中、ふと自分の口が「すみません」を言いかけて止めた。
現実の癖が、魔界の仕様を引きずってくる。
(言葉一つで、世界が増殖する。そんな現実、嫌だ)
妻に「マグカップ取って」と言われ、
一瞬、自分の家なのにマグカップの場所がわからなくなった。
心臓が止まりそうになる。
さらに、妻の顔を見たとき、名前が一瞬だけ遠くなった気がした。
実際は言える。普通に言える。
なのに、その“一瞬”が怖い。
(今、もし欠けたら?)
(俺は、この顔を“他人”として見るのか?)
直人は、何も言わなかった。
言うと、妻に伝播する。
家の空気が壊れる。
だから、普通にした。
普通にして、
——守ったつもりだった。
翌朝。
直人はひなを幼稚園に送った。
実際、ひなはもう元気だったが、直人の方が元気ではなかった。
手を繋いで歩く。
小さな手の温度が、ちゃんと現実だった。
「パパ、きょうね、まおうごっこする?」
ひなが聞いてくる。
直人は答えるまでに、半拍だけ遅れた。
“まおうごっこ”。
無邪気な言葉が、背中を刺す。
「……来れたら、な」
直人は曖昧に笑って、誤魔化した。
幼稚園の門が見える。
いつも通りの柵。いつも通りの掲示板。
いつも通りの——はずの風景。
なのに。
直人は足を止めた。
物置の影。
何もないはずの空間が、わずかに“揺れて”いる。
透明な熱気みたいに、空気が歪む。
光が、薄く折れる。
閉じている。閉じているのに、そこに“境目”がある。
直人の背中に、汗が浮いた。
(見える……?)
(俺だけ?)
(——閉じたはずだろ)
ひなは気づかない。
気づかないまま、手を引く。
「パパ、はやくー」
「……ああ」
直人は視線を外せなかった。
揺らぎが、一瞬だけ強くなる。
空気が、呼吸するみたいに膨らんで、縮む。
そして、頭の中に嫌な計算が立ち上がる。
(もし俺が今ここで死んだら)
(復活は——)
七年。
七年、家族は待てない。
七年、ひなは大きくなる。
七年、妻は一人で抱える。
直人は、唇を噛んだ。
(復活できる、じゃない)
(七年いない、だ)
揺らぎは、閉じた門の内側からこちらを覗いている。
「まだ終わってない」と言っている。
ひなを教室へ送り、先生に「お願いします」と頭を下げる。
頭を下げながら、直人は“すみません”を言わないように気をつけた。
そんな自分が、もう嫌だった。
廊下を抜け、園庭の端まで戻る。
もう一度、物置裏を見る。
揺らぎは、まだある。
小さい。薄い。
でも、“確かに”ある。
直人はスマホを握りしめた。
ここでミュートを押せば、魔界側の時間が動く。
動くから、対処できる。
——だが、対処するたびに、レベルが頭をよぎる。
上げれば、何かが欠けるかもしれない。
欠けたら、戻れないかもしれない。
それでも。
直人は、揺らぎから目を離さずに、低い声で言った。
「……弱いままは、もっと危ない」
誰に向けた言葉でもない。
自分の背に、ムチを打つための言葉。
門は、閉じている。
でも揺れている。
揺れている限り、いつか開く。
その「いつか」が、ひなの前に来たら終わりだ。
直人はゆっくり息を吸って、吐いた。
そして、決めた。
レベルを上げる。
それしか、今は思いつかなかった。
記憶の代償が怖い?
怖い。
怖いからこそ、選ぶ。
「俺が怯えて止まってる間に、門が育つなら——」
直人は、言葉を切る。
最後まで言うと、現実が壊れそうだった。
代わりに、スマホの画面を見た。
会議の予定。通知。家族の連絡。
全部が現実だ。
現実の隅に、異界が噛んでいる。
噛み跡が広がっている。
直人は指を動かし、ミュートの準備をした。
まだ押さない。
押すのは、場所を選ぶ。
最後にもう一度、物置裏の揺らぎを睨みつけたまま、
奥歯を噛み締めて言葉を絞り出した。
「……帰ったら、やる」
幼稚園の朝は、何事もなく続く。
その裏で、直人の決意だけが、静かに固まった。
そしてもう一つ。
ダンジョンにも、別の不穏な影が落ちていた。
(つづく)
幼稚園の門が揺れている事実に衝撃を受ける直人だが、ダンジョンにも別の問題が発生している。




