第6話
昏迷の国には、今日も朝がやって来ない。もう何日、陽の光を浴びていないのか分からなくなった。
「はぁ……お日様が恋しいなぁ」
私は縁側に座ってポツリと呟いた。空を見上げれば、赤い月が浮かんでいる。
「にゃあ」
足元から、猫の鳴き声が聞こえた。紫色の瞳をしたこの黒猫ちゃんは、恐らくクロさんだろう。
「甘えてもダメですよ。クロさんでしょう?」
スリスリと足元に擦り寄ってくる彼に言う。
「にゃあ……」
クロさんは悲しげな鳴き声を漏らした。愛らしい猫の姿に罪悪感が刺激される。彼が半妖さんであることは知っているが、こんなに可愛い猫の姿をされると甘やかしてしまいそうになる。
「う……ダメです。もう撫でませんから!」
私はクロさんから顔を背ける。その瞬間、低い男性の声が聞こえた。
「やはり無理があるか……」
人の姿に戻ったクロさんは私の近くに跪く。
「迷者殿、決心はつかぬか?」
「もう少し……待ってほしいです……」
この世界にも大分慣れては来たけれど、未だに誰を信用すればいいのか分からない。クロさんは私を強引に攫おうとはしない。それはきっと鬼面さんのおかげだと思う。
「迷者殿。情報が欲しいのであれば、迷わず某の手を取ってくだされ。彼岸様は迷者殿に苦痛を与えることはないと某が保証しよう」
「クロさん……」
鬼面さんは話しかけても、何も答えてくれない。彼が何を考えているのか分からないのが、私にとっては恐ろしかった。鬼面さんに捨てられたら、私は他の半妖さん達に殺されてしまう。
「…………」
クロさんが突然、立ち上がる。彼の視線の先には鬼面さんがいた。
「鬼面さん……」
「…………」
私は鬼面さんに駆け寄って、彼の瞳をお面越しに見つめる。冷たい色を宿した瞳からは何も感じ取れない。
「鬼面さん、私は元の世界に帰りたいです。そのために、彼岸さんに会おうと思っていて……」
「…………」
「会いに行っても……良いですか?」
鬼面さんは何も言わない。彼にとって私がどういう存在なのか分からない。無関心なのか、それとも同居人くらいには思ってもらえているのかな。
「鬼面さん……」
何も言わない彼が怖くて仕方ない。知らない世界に来て、ずっと怖かった。一度溢れ出した不安は、涙に変わって頬を伝う。
「っ……」
私は鬼面さんから逃げるように走り出した。彼が追いかけてくる気配はない。
門から出ようとした所で、クロさんに腕を掴まれた。
「待たれよ。この屋敷から出れば、他の半妖達に食われる」
「わ、たし……」
クロさんが私の涙を手で拭ってくれた。彼は慈しむように微笑んでいる。
「ゆっくりで良い。迷者殿の話を聞かせてくれぬか?」
「私、ずっと怖くて……鬼面さんは何を考えているか分からないし、朱角さんも私の命を狙ってたし……」
小さな子供のように涙を流す私を、クロさんは優しい目で見つめている。クロさんは懐からハンカチを出して、私の涙を拭いてくれた。
「元の世界に帰りたい……もう、こんな世界いやだ……」
「迷者殿は立派でござる。一人で耐え続けていたのだな」
クロさんの言葉に、また涙が溢れてきた。私は乱雑に涙を拭って、クロさんを見る。
「クロさん、彼岸さんの所へ連れていってください」
彼は私の手を軽く握ると、跪いて頷いた。
「了解した。迷者殿、案内いたしまする」
「お願いします」
ずっと怯えながら暮らすなんて嫌だ。私は絶対に元の世界に帰る。そのためなら、どれだけ怖くたって動くんだ。
クロさんは懐から彼岸花を取り出して、私の方へ差し出した。
「この彼岸花に触れてくだされ」
クロさんに促されて、ゆっくりと手を伸ばした。
花に触れた瞬間――
ぐにゃりと視界が歪んだ。立っていられないほどの目眩に襲われる。ふらりと倒れる体を、クロさんが抱きとめてくれた。
「クロさん……」
「安心なされよ。もう、不安を感じることもなくなる」
クロさんの声が遠くなっていく。頭がぼんやりして、彼の声が聞き取れない。
「す……な……めい……」
何となく、彼が苦しそうな顔をしている気がした。
◇
微睡む意識の中で、チリンと鈴の音が聞こえた。瞬きを繰り返すと、少しずつ意識が戻ってくる。
「こ、こは……」
辺りを見回すと飾り気のない広い和室とふかふかの布団、襖の向こうには彼岸花の咲いた庭が見えた。起き上がり、庭の方へ歩く。
「すごい……」
思わず感嘆の吐息が漏れ出る。庭には彼岸花が、びっしりと隙間なく咲き乱れていた。
「起きたか、迷者……」
声のした方を向くと、白いベールを被った赤髪の男性がいた。
「あ……」
血の気が引いていくような感覚がする。呼吸の仕方を忘れてしまったように、息ができなくなった。何故かは分からないけれど、目の前の男性が恐ろしくて逃げ出したい衝動に駆られる。
「や、いや……」
足に力が入らず、その場にしゃがみこんでしまった。男性はゆっくりと私に近づいてくる。一歩ずつ距離が近づく度に、恐怖が増していく。
「迷者……怖がるな……」
男性は悲しげに眉を下げて、しゃがみ込む私を抱きしめた。彼の強すぎる力に悲鳴が漏れる。
「いっ……くる、し……」
「逃げるな……俺の……迷者……」
恐怖と痛みに限界を迎えそうになった。
その瞬間――
「彼岸様。それ以上は、迷者殿が死んでしまいまする」
クロさんが男性の後ろから現れた。
「迷者……悪かった……」
赤髪の男性、彼岸さんは私からゆっくりと離れる。
「ケホッ、ゲホッ……」
息苦しさに咳き込む私の背中を、彼岸さんがさすってくれた。
「迷者……俺の迷者……」
彼岸さんは私の髪をひと房とり、髪にキスをした。
「もう逃がさない」
顔を上げると、彼岸さんの真っ赤な瞳と視線が交わった。ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
チリン――
また、鈴の音が聞こえたような気がした。




