第2話
この世界は一日中薄暗くて、常に赤い月が光っている。そのせいで、今が朝なのか夜なのかも分からない。
「いたっ……」
あの朱角という男に付けられた腕の痣が痛い。軽く触れただけでも、ズキリと痛む。
「はぁ……」
ため息を漏らして腕を摩っていると、横から気配を感じた。
「わっ、鬼面さん!」
鬼面さんが横から私の腕を覗き込んでいた。彼は立ち上がって、部屋から出ていった。
「洗濯でもしようかな……」
この世界に来てから、恐らく四日は経ったと思う。鬼面さんは着物を用意してくれたり、料理をしてくれたりと、意外と面倒見が良い人だった。
井戸で水を汲んでいると、池の魚が目に入った。池の近くにしゃがみ込んで、魚達を見つめる。無駄にカラフルな魚たちは優雅に泳いでいた。
「この魚、全然美味しくないんだよねぇ」
「だよなぁ。不味くて食えたもんじゃねぇよ」
突然、隣から声が聞こえてきた。
「朱角さん!」
「よっ! 元気だったか?」
私の隣にいたのは、朱角さんだった。彼は軽く片手を上げて挨拶をしてきた。私は彼にアザをつけられた腕を背中に隠す。
「そんな怯えんなよ! もうお前を食ったりしねぇよ」
朱角さんは、にぱっと笑いかけてきた。大型犬のようにしっぽを振っている。
「お前、鬼面に気にいられたんだろ? アイツを敵に回したら厄介だからな」
「何しに来たんですか……」
ジリジリと後ずさる私に、朱角さんはゆっくりと近づいてくる。
「お前いいなぁ。怯えてる姿がおもしれぇ」
朱角さんの赤い瞳がキュッと細まる。嫌な空気が漂っている気がした。彼の私を見る目は完全に獲物を狙う獣と同じだ。
「ちょっとくらいなら、味見をしても……」
「良くないよ」
突然、巨大なノコギリが朱角さんの頭を殴った。
「いってぇな!」
「今のは君が悪いでしょ」
朱角さんの後ろから現れたのは、全身に包帯を巻いた男の人だった。短い茶髪に赤い瞳。左目は包帯で隠れている。
「チッ、クソ医者かよ」
「子供を怖がらせないでよ、野蛮狼」
包帯の男性の隣には鬼面さんが立っている。私は慌てて、鬼面さんの方へ走りよった。
「随分と懐かれているようだね、鬼面」
「あの、誰ですか?」
私が問いかけると、包帯の男性は優しげな微笑みを見せてくれた。
「ああ、ごめんね。朱角のせいで自己紹介が遅れてしまった。俺のことは『包帯さん』とでも呼んで欲しいな」
「あ、私は」
「迷者だね」
包帯さんは、私の言葉を遮った。彼は困ったように眉を下げて微笑んでいる。
「こんな所に迷い込んでしまって可哀想にね。怖かっただろう?」
「迷者……?」
「ああ。この昏冥の国に迷い込んでしまった者のことだよ」
彼は私に向かって、手招きをした。
「詳しいことは部屋で話そう。君の怪我を手当しないとね」
「おい、クソ医者。俺の頭も手当てしろ。お前のせいで怪我したぞ」
「それは自分で何とかしてね」
朱角さんに威嚇されながら、包帯さんは歩き出した。私が迷っていると、鬼面さんが私の背中をそっと押した。
「鬼面さん……」
私のためにお医者さんを呼んでくれたのかな。やっぱり鬼面さんは優しい人だ。
◇
部屋の中で私は包帯さんに腕を見せている。彼は眉をひそめて、朱角さんを睨んだ。
「子供にこんな怪我を負わせるなんて……どういう事かな?」
「別に珍しくないだろ。この世界は弱肉強食だ」
「俺の前で、この子を傷つけたら許さないよ」
包帯さんの言葉に朱角さんは面倒くさそうに欠伸をした。
「へーへー。分かりましたよっと」
包帯さんは鋭い目で朱角さんを睨む。私は居心地が悪くて俯いた。
「ああ、ごめんね。空気が悪くなってしまったね。薬を塗ってもいいかな?」
「あ、はい。お願いします」
包帯さんは懐から小さな箱を取り出した。そして、私の腕に薬を塗っていく。
「人間の子供が迷い込むのは久しぶりだなぁ。ここは物騒だからね。気をつけるんだよ」
「私、もう十七歳ですけど……」
「ふふっ。まだまだ子供だね。困ったことがあれば、何でも言ってね」
そう言って、彼は私の腕に包帯を巻き始めた。
「あの、ここはどこなんですか?」
「ここは昏冥の国。人にも妖にもなりきれなかった半妖達が暮らす世界だよ」
「元の世界に帰りたいんですけど、どうしたら良いですか?」
「うーん。ごめんね。迷者が元の世界へ帰ったという話は聞いたことがないなぁ」
包帯を巻き終わると、彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね」
「いえ、大丈夫です。手当てをしてくださって、ありがとうございます」
私がお礼を言うと、包帯さんは目を細めて微笑んだ。彼は私の頭を撫でる。
「君は良い子だね」
包帯さんの手が、頭から頬へ流れる。ゆっくりと頬をなぞるように手が滑っていく。
「良い子、良い子……」
包帯さんの口元が怪しげに歪んだ。親指で目元を撫でられる。不思議な空気が流れていた。胸の辺りがザワつく。
そのとき――
「おっと……」
鬼面さんが包帯さんの腕を掴んだ。
包帯さんの手からギチギチと嫌な音がなっている。彼はもう片方の手を挙げて、降参したように手を振った。
「ごめんね。少し遊びすぎちゃった」
その様子を見て、鬼面さんが包帯さんの手を離す。私はいつの間にか、強ばっていた肩から力を抜いた。
「どいつもこいつも気持ち悪いな」
朱角さんが呆れたように言い放った。
「人間のどこが良いのか分かんねぇな。食うのは良いが、愛でるのは何か違うだろ」
朱角さんは立ち上がって、背中を向けた。
「じゃあな」
彼は片手を上げて、去っていった。
「俺もそろそろ行こうかな。迷者ちゃん、また何かあれば俺を呼んでね」
包帯さんはにこにこと微笑んだ。その笑顔は優しいけれど、どこか仄暗い色を宿している。
「えっと、ありがとうございます」
「うん、またね」
包帯さんが出ていくと、鬼面さんと二人きりになる。私は彼の方を向いて、軽く頭を下げた。
「あの、鬼面さん。お医者さんを呼んでくれてありがとうございます」
「…………」
鬼面さんは相変わらず無言だった。彼はそっと私の頭に触れた。
「え……」
そして――
すぐに手を離した。
包帯さんのように撫でるのではなく、一瞬触れただけだった。それでも、私の胸は温かい気持ちになった。




