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天空城(後編)

——台帳の記録はここで途切れている。


ページの端にインクの染みがあり、フィーナの筆跡で小さく「ペン破損。予備なし。城内捜索中。約七分間の空白あり。以下、記憶に基づく補記」と注釈が添えられている。

「勇者パーティに入る前——僕がまだ辺境の村で、ただの駆け出しの魔法使いだった頃だ」


 老竜の目が細くなった。聞いている。


「隕石の破片が村の近くに落ちた。魔物が湧いた。村には冒険者ギルドの支部もなく、衛兵は三人しかいなかった。僕は一人で対処しようとして——」


 言葉を切った。二十年以上前のことだ。なのに、覚えている。焦げた畑の匂い。崩れた柵。泣いている子ども。自分の魔法が何の役にも立たなかった夜。


「——死にかけた。そのとき、魔王が来た」


 老竜が息を呑んだのが分かった。


「なぜ来たのかは分からない。偶然だったのかもしれない。ただ、来た。僕の補助魔法を見て、『使える』と言った。初めて言われた言葉だった」


 広間の奥で、がさがさと物を漁る音がしている。フィーナがまだペンを探している。


「魔王は僕の強化魔法を受けて、一晩で魔物を片付けた。翌朝には消えていた。何も言わずに。——でも村は残った」


 沈黙が落ちた。


「だから、後でゼブルの話を聞いたとき、辻褄が合った。あの夜の魔王は暴虐の王じゃなかった。追放されて行く当てもなく、それでも目の前で人が死にかけていたから手を貸した。——そういう奴だった」


 老竜が目を閉じて、長い時間をかけて息を吐いた。城壁の石が温かく震えた。


 広間の奥から、フィーナが息を切らして戻ってきた。手には書架の奥から見つけてきた羽ペンとインク壺。十五年前の城のインクが使えるかは怪しいが、フィーナの目は「使えなかったら血で書く」と言っていた。


「——お待たせしました。続けてください」


 息が荒い。走ったのだ。長い耳が上下に揺れている。


「落ち着いたか」


「落ち着いてません。全然落ち着いてません。ルークさんが魔王と共闘していた話は後で三時間ほどかけて詳しくお聞きしますので、今は——続けてください」


「……ああ」


 老竜が、初めて笑った。口元の筋肉が緩み、黄金の目に温かい光が差した。


「なんと、そうであったか。あの御方が……地上で、人の子を助けていたとは」


「たぶん誰にも言わなかったんだろう。そういう人だ。想像できる」


「……そうだ。そういう御方だった」


 老竜が何度もゆっくりと頷いた。古い鱗がかちかちと鳴った。


 フィーナのペンが走り始めた。十五年前のインクは、使えたらしい。


---


「わしらが三代目魔王を探していたのは、その頃だ」


 老竜の声が変わった。重さが増したのではない。温度が変わった。


「竜の一族には、魔王一族との古い契約がある。王に代わり、土地を守護するものという契約が。だが正統なる魔王領の主が追い払われ、宰相ゼブルの独裁が始まると、魔王領は混沌に包まれた。魔石資源は掘り尽くされ、我々の守るべき土地は荒れ続けた」


 ドラゴンにとっての契約の重みを、僕はこの城に来るまで理解していなかった。

 古い竜の契約とは、魂によって交わされる。それは子々孫々まで伝えられる、存在証明のようなものだ。


「すべては、わしらが大昔の契約を守るためだった。

 魔王は、戦わぬ道を選ぶこともできた。人間界に暮らしていた王は、契約を自ら破棄すれば、今日の戦争の勝者側の者として、平穏に暮らすことが出来たはずだ。

 だが、それを選ばなかった。民の声を聞き、魔王領を救うために立ち上がられた。魔王領を取り戻し、そしてゼブルが民の血で築いたこの城を、今度は魔王が拠点として使った」


 勇者を迎え撃つために。


 天空城攻略戦。勇者パーティの最大の戦いだった。

 あのとき僕たちが攻め落とそうとしていた城は、奪われた土地を取り戻した者がやむなく砦に転じたものだった。


 どうして、僕たちは戦わなければならなかったのだろう。


 あのとき、最後の戦いのときに、勇者が言った。


「貴方でなければいいと思っていた」


 魔王は葉巻を吸いながら、こう答えた。


「それは違うな。『私でなければならない』のだ」


 魔王には信念があった。

 最後に勇者を玉座で迎え撃つのは、自分でなければならないという信念。

 魔族の命運をかけた戦いを締めくくるのは、正統なる魔王でなければならない、そう信じていたのだ。


「十五年前、魔王は勇者と共に消えた。残されたドラゴンは、それでも契約を守り続けた。最後までわしらを見放さず、契約を守ってくれた魔王のために。戦える竜は各地を守護し続けた——その先は、多くを語るまでもないな」


 老竜は一度口を閉じ、それから声を静かにした。


「この城の地下には、戦えぬ者だけが残った。老いた者。翼を傷つけた者。幼い者。——そして、ルゥファだ」


 声が静かになった。歴史の話をしていたときとは、別の静けさだった。


「あの子は混血で体が弱く、長くは飛べなかった。勇者との戦いには出ず、地下でわしらと息を潜めておった。——その年に、身ごもった」


 俺は息を呑んだ。


「気がついたら、と言うておった。自分でも分からぬと。相手が誰かも、いつのことかも」


「……分からない、というのは」


「分からぬ。ルゥファ自身にも。わしらにも」


 ドラゴンの儀式生殖は、魔力が母体に転写されると起きる。

 すぐそこで、魔王と勇者の戦いが起こっていたのだ。

 ひょっとすると、勇者パーティーの誰かの子が宿ったのかもしれない。


「混血……十五年前……勇者パーティーの誰か……怪しい……」


 フィーナがじっと僕を見ている。

 いや、別に怪しくはない。

 勇者パーティーなんだから、僕以外にも魔力の強い人はたくさんいたし。

 なんならサージの魔神の金槌の可能性だってある。


「ルゥファは喜んでいた」


 老竜の声が、初めて震えた。


「子を産める者はほとんどおらなかった。仲間の訃報だけが届く日々の中で——あの子は、自分の体がどうなるか分かっていて、それでも喜んでいた」


 城壁の縁から吹き上がる風が、老竜の古い鱗を鳴らした。


「卵を産んで、ルゥファの容態は急に悪くなった。瘴気の排出が止まり、星座が崩れ始めた。わしらは卵を温め、ルゥファを看た。だが——」


「……間に合わなかった」


「間に合わなかった」


 同じ言葉を繰り返した。それしか言えなかったのだろう。


「……どのくらい生きた」


「六十年ほど」


 ドラゴンの六十年は、短い。本来ならば数千年を生きる種族だ。


 フィーナが墓標の星紋を記録し始めた。羽ペンが震えていた。その星紋がポムルの片親のものなら、おおよそ何年の命が見込めるのかを数えているのだろう。


「ルークさん」


 声が小さかった。


「この星座がそもそも、普通のドラゴンと比べて、瘴気の排出機能が小さいみたいです。これを基に治療して、うまくいったとしても……」


 俺は黙った。

 元となるルウファの寿命が六十年。人間の一生とそう変わらない。

 ドラゴンとしては瞬きのような時間だ。


 でも——今日死ぬのと、六十年生きるのは、まったく意味が違う。


「卵はここで守るつもりだった」


 老竜が続けた。泣き終えた後のような落ち着いた声だった。


「だが最近、城の魔石炉が不安定になり、振動で城壁が崩れた。あの一角に置いていた卵が——落ちた」


 落ちた。雲を突き抜けて、地上へ。裏山の、あの草むらへ。


「探しに降りたかった。だが——」


 老竜が翼を広げかけて、やめた。ぼろぼろの膜が風にはためいた。


「飛べる者がいなかった。降りれば見つかる。見つかれば殺される。卵一つのために、残った全員を危険にさらすわけにはいかなかった」


 広間の奥で、若いドラゴンが顔を伏せた。隣の小さな個体が不安そうに首を傾げている。


「あの子は死んだと思っていた」


 老竜が俺を見た。黄金の目に光が滲んでいた。竜が泣くのを、俺は初めて見た。


「生きていたのか」


「生きている」


 僕は言った。喉が詰まった。


「——白くて、小さくて、よく喋る。パンが好きだ。名前はポムルという」


 老竜は目を閉じた。長い、長い息を吐いた。

 城壁の石が温かく震えた。


「……よい名だ」


 それから、静かに聞いた。


「人間界で、ちゃんと暮らせているか」


「ああ、心配ない、俺の村は、そういう村だから」


 少し迷って、続けた。


「——昔、魔王が守ってくれた。その村だ」


 老竜の目が開いた。濡れた黄金の瞳が、僕をまっすぐに見た。


 何も言わなかった。何も言わないまま、長い時間、僕を見ていた。


 やがて老竜は頷いた。一度だけ、深く。それはたぶん、魔王に向けた頷きだった。


---


「鱗を、もらえないだろうか」


 老いたドラゴンに頭を下げた。


「ルゥファの鱗に残った星紋が要る。あの子を——ルゥファの子を、治すために」


 老竜は長い間、僕を見ていた。やがて、翼の付け根で何かが光った。古い鱗だ。そっと外して、僕の前に置いた。


「ルゥファが最後に落とした鱗だ。看取ったとき、わしが受け取った」


 掌に乗せた。軽かった。しかし星紋は鮮やかに残っている。親の設計図。ポムルの命を繋ぐ鍵。


「——ありがとう」


「礼はいらぬ。あの子を頼む」


 ガルモと同じことを言う、と思った。種族が違っても、子を想う気持ちの形は似ている。


---


 王都は、天空城の静寂とは正反対だった。


 石畳の街路を人が行き交い、蒸気と油の匂いが混ざり合い、どこかで楽隊が鳴っている。戦後の繁栄というのは、こういう音がするものだ。


 ゲールハーツとの面会は、王城の私室だった。


 部屋に入って最初に驚いたのは、サージだった。


「調査隊隊長サージ、帰還のご報告を申し上げます」


 ……誰だこいつ。


 背筋が伸びている。声に不要な抑揚がない。外套の呪具は全て隠されている。あのサージが、完璧な家臣の所作で跪いている。鳥肌が立った。


 ゲールハーツは机の向こうに座っていた。仮面の王。顔の上半分を覆う銀の仮面は、勇者パーティの頃から変わらない。あの下の顔を、僕は知っている。優しい顔だ。裏切りを受けた傷がある。だから、隠している。


「報告を」


「は。天空城内部にドラゴンの生息を確認。個体数は推定十数頭。敵対行動は確認されず。詳細は書面にて」


 サージの報告は簡潔だった。必要なことだけを、正確に。こいつがこんなに短く話すのを初めて聞いた。


 ゲールハーツが書面に目を通す。沈黙が続く。


「——ご苦労だった。下がっていい」


「は」


 サージが立ち上がる。僕も踵を返しかけて——立ち止まった。


「なあ、ゲールハーツ」


 空気が変わった。


 サージの背中が一瞬だけ揺れた。笑いを噛み殺したのが分かった。分かったが、振り返りはしなかった。あいつは壁際に立ち、黙って聞く姿勢を取った。


 ゲールハーツが仮面越しにこちらを見た。


「魔族も獣人も仲間にしたお前なのに、なんでドラゴンには人権ないんだ」


「……ルーク」


「もうやめにしないか。勇者は、こんなことを望まなかったぞ」


 長い沈黙だった。


 ゲールハーツは机に両手をついたまま、動かなかった。仮面の下で、どんな顔をしているのだろう。疲れた顔だと思う。十五年間、誰もいなくなった玉座の隣で、一人で決め続けてきた男の顔だ。


「もう帰るといい、ルーク」


 静かな声だった。


「勇者はもういない。……魔王も、もういないのだ」


 それだけ言って、ゲールハーツは窓の外に目を向けた。


「——そもそもあそこは、どの国の領地でもない」


 声が、少しだけ変わった。


「敵対行動がない以上、少なくともわが国から軍を送る予定はない。実害がない限り、国際軍の派遣も慎重になるべきだろう」


 僕はその言葉を聞いた。サージも聞いた。


 サージは微動だにしなかった。理解していない顔をしていた。完璧な家臣の顔だ。


 ——こいつは全部分かっている。


「……失礼します」


 頭を下げて、部屋を出た。


---


 廊下に出た瞬間、声が飛んできた。


「ルークさん!」


 フィーナが柱の陰から飛び出してきた。耳が真っ赤だった。


「ぜんぶ聞こえてましたからね! 耳長いんですから!」


「……どこから」


「『なあ、ゲールハーツ』から! 全部です! なんで馴れ馴れしいんですか!? 相手、王ですよ!? 国王ですよ!?」


「分かってる」


「勇者の名前まで出しましたよね!?」


「分かってる」


「分かってて出したんですか!?」


「分かってて出した」


 フィーナが絶句した。


 サージが後ろから出てきて、僕の肩をぽんと叩いて、何も言わずに先を歩いていった。背中が震えていた。笑っている。やっと笑えたんだろう。


---


 帰路は馬車だった。


 フィーナが隣に座っている。サージは別便で隊の処理がある。しばらく会えないだろう。


 街道の景色が流れる。夕陽が麦畑を染めている。平和な世界だ。ゲールハーツが作った世界だ。


「ルークさん」


「ん」


「どうしてポムルのことは言わなかったんですか。言えば助けてくれたかもしれないのに」


 分かっていた。この問いが来ることは。


「……あいつは優しいからな」


 言葉を選ぶ。それは、ずっと僕の胸にわだかまっていた気持ちだった。


「仲間が『自分のドラゴンを守りたい』って言ったら、忖度する。あいつはそういう人間だ。政治の判断を、僕の個人的な事情で歪めていい理由がない」


 フィーナは黙って聞いている。


「それに——『やっぱり天空城のドラゴンを狩る。ついでにお前のドラゴンも狩る』。そう言われる可能性だってあっただろ」


 馬車が揺れる。


「ドラゴンがどれだけ恐ろしいか、僕は知ってる。あいつが十五年前にやったことを、間違いだったなんて簡単には言えない。言えなかったから、十五年もかかった」


 風が吹いた。麦畑の穂が一斉に傾いた。


「だからかな、『やめろ』じゃない。『もうやめにしないか』としか、僕には言えなかった……あいつと僕は、これからもずっと相容れずに、違う道を歩んでいくような気がするんだ」


 長い沈黙があった。馬車の車輪が石を踏む音だけが聞こえた。


「……それで、十分だったんじゃないですか。天空城は守られましたよ」


 フィーナの声は小さかった。でも震えてはいなかった。


「どうだろうな」


 掌の中で、ルゥファの鱗が光っている。星紋が夕陽を受けて、淡く脈打っている。


 ポケットの中で通信石が震えた。ガルモからの定期報告だ。


『ポムルの星紋、変動が少し早まっている。急ぎなさい』


 ——ガルモの声は、いつも通りだった。だからこそ、「急ぎなさい」の重みが分かる。


 鱗を握りしめた。


「帰ろう。約束したんだ」

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