天空城(前編)
サージが万屋の扉を開けたとき、奴はいつもと違う顔をしていた。
いや、顔は同じだ。相変わらず右頬に古い火傷の跡があるし、髪は好き勝手な方向に跳ねているし、外套の下からは得体の知れない呪具がじゃらじゃらと覗いている。でも目つきが違った。こいつがこの目をするときは、ろくなことがない。
「よう、ルーク。忙しいか」
「忙しい」
「嘘つけ。カボが『暇です』って言ってた」
窓辺のカボに目を向けると、ぷるぷると首を——いや、実を振った。お前ほんとにそう言ったのか。
「天空城の話、聞いてるか」
手が止まった。
「……ああ。ドラゴンが飛んできたって噂は」
「噂じゃない。俺が相手した」
サージは長椅子にどかっと座って、あっけらかんと言った。まるで近所の野良猫を追い払ったみたいな口ぶりだ。ドラゴンだぞ。
「ゲールハーツ直轄で調査隊が出る。俺が部隊長だ」
「お前が」
「俺が」
サージが部隊長をやるのは、実は初めてじゃない。勇者パーティの頃、ゲールハーツが負傷してパーティーから離脱したとき、前線をまとめたのはこいつだった。普段は誰より自由に動き回るくせに、いざというときは全員の配置が見えている。遊撃手というのはそういう生き物だ。
「で——天空城のドラゴンについて、お前、何か知らないか」
その声は軽かった。あまりにも自然に聞こえた。だからこそ、意図的だと分かった。
サージは探りを入れている。
前回の来訪を思い出す。暗闇装備を渡して視界を塞いだのは、ポムルを隠すためだった。あのとき僕はうまくやったつもりだったが——サージの鼻は、犬より利く。
息を整えて、考える。
天空城は、途方もなく巨大な空飛ぶ方舟だ。噂では、天空城のどこかに大竜伐を逃れたドラゴンの最後の楽園があるという。
——裏山で拾った卵が、頭をよぎった。
あの卵がどこから来たのか、僕はずっと考えないようにしていた。考えたところで答えは出ないし、出たところでポムルが俺の子であることに変わりはない。でも今、一つの可能性が形を持った。
天空城から落ちたのだとしたら。親が、あの城にいるのだとしたら。
ポムルの星座を安定させるには、親の星座が要る。
「サージ」
「ん」
「お前はドラゴンが見つかったらどうするつもりだ」
「俺は知らないな。どうするか決めるための調査だろ」
「もし襲ってきたら」
「返り討ちにするだけだ」
サージが笑う。迷いのない笑顔だ。こいつは本当にやる。
「——僕をそこに連れて行ってくれ」
サージの笑みが消えた。
「ドラゴンと交渉できるかもしれない」
沈黙が落ちた。カボが窓辺でかさりとも動かない。
サージは僕の目を見ていた。長い時間——たぶん実際には三秒くらいだったが、サージの三秒は長い。こいつの三秒には、戦場で二人の首を斬って三人目を蹴り飛ばすくらいの情報処理が詰まっている。
「——いいぜ」
立ち上がる。
「ルークの力が要る、って言っとく。嘘じゃないしな」
それだけ言って、サージは扉に向かった。振り返らない。何も聞かない。
こいつはいつもそうだ。僕が「こんなの誰が使うんだ」と言った呪いの武器を「俺だ」と拾い上げるように、僕が「連れて行ってくれ」と言えば「いいぜ」と返す。
理由は聞かない。必要なのは僕の目が真剣かどうかだけだ。
扉が閉まったあと、カボがぽそりと言った。
「たいへんなことに、なりそうですね」
否定できなかった。
---
出発の朝、ポムルに話した。
「少し遠くへ行く。お前の体を治すのに必要なものを取りに行く」
ポムルは膝の上で僕を見上げた。白い鱗に星紋が淡く脈打っている。この子の星座は美しい。乱れてさえいなければ。
「どのくらい?」
「分からない。でも必ず帰る」
「……早く帰ってきて」
「帰る」
「約束」
「約束だ」
小さな頭をぽんと撫でた。ポムルが目を閉じて、鼻先を俺の掌に押し付けた。
ガルモが黙って包みを渡してくれた。中身は聞かなくても分かる。パンだ。
「腹が減ったら食べな」
「ありがとう」
「礼はいらない。早く帰っておいで。あの子、夜泣きすると手がつけられないんだから」
ミノタウロスが窯の前から片手を上げた。フィーナが台帳を抱えて走ってきた。
「待ってください! 私も行きます!」
「……聞いてたのか」
「耳が長いので」
---
天空城は、空に浮かぶ墓標のように見えた。
気球から仰ぐその姿は、かつての壮麗さの残滓をわずかに留めていた。魔石で編まれた城壁は半ば崩れ、塔の先端は雲に溶けている。だがまだ浮いている。百年以上、浮き続けている。
調査隊は八名。僕とフィーナ以外は、全員が武装していた。
サージは外套の下から金槌を取り出して、肩に担いでいた。『魔神の金槌』——命中率が絶望的に下がるかわりに、当たれば必ず急所を砕く。かつて僕が星座を解析して「これは呪いの武器だ、命中率がほぼゼロになる、誰が使うんだ」と報告したとき、「俺だ」と手を挙げた男の得物だ。
「迎撃が来るかもしれない。全員、武器を構えろ」
サージの声に、隊員たちが緊張する。当然だ。相手はドラゴンだ。
僕はサージの横顔を見た。あいつはどこか楽しそうだった。頼むから使うなよ、その金槌。
幸い、迎撃はなかった。城壁の裂け目から内部に入ると、風の音が変わった。外の荒涼とした空気とは違う、温かく、微かに甘い風が吹いていた。魔石の残り香だ。
内部は朽ちかけていたが、崩壊してはいなかった。魔石で補強された書架が通路の両側に並び、その奥に広い空間が開けている。
そこに、いた。
ドラゴンたち。
十頭——いや、もっといる。大きな個体の翼の下に小さな影が見える。老いた個体が壁際にうずくまり、若い個体がその背に寄り添っている。
調査隊が足を止めた。誰も動けなかった。
ドラゴンたちは動かなかった。ただ——怯えていた。
黄金の目がこちらを見ている。敵意ではない。恐怖だ。武装した人間が、また来た。十五年前と同じように。
サージが振り返った。僕を見た。
「——お前、先に行け」
低い声だった。命令ではない。信頼だ。
「隊は俺が抑える。フィーナ、お前も行け」
フィーナが頷いた。台帳を抱き直した。
僕が歩き出す前に、サージが小さく言った。
「——ルーク」
「何だ」
「俺は見たものを報告する。それが仕事だ」
振り返った。サージの目は笑っていなかった。
「お前が何を見つけても、俺はそうする。それでもいいか」
「……ああ」
「なら行け」
僕は武器を持っていなかった。元々持っていない。補助魔法使いは武器を持たない。それが——今は、功を奏した。
丸腰で、ドラゴンたちの前に歩み出た。
---
最初に動いたのは、老いたドラゴンだった。
首をもたげて、鼻先をこちらに向けた。長く、深い呼吸。僕の匂いを嗅いでいる。
次の瞬間、その瞳が変わった。恐怖が薄れ、代わりに——何と言えばいいのか。
「……子の、匂いがする」
声だった。低く、震えるような、古い声。ドラゴンの言葉は人の言葉と音が違う。喉の奥から響く振動が骨に伝わる。
「あなたたちの卵を拾った」
僕は言った。できるだけ穏やかに。
「地上で。裏山に落ちていた。今、僕が育てている。——親を探している」
広間に、波紋のようなざわめきが走った。ドラゴンたちが顔を見合わせる。翼が揺れる。小さな個体が大きな個体の陰に隠れる。
老いたドラゴンが目を閉じた。
「——白い子か」
「……ああ」
「ルゥファの子だ」
その名前を口にしたとき、広間が静まった。
「ルゥファは、もういない」
---
墓は、城壁の縁にあった。
地上を見下ろせる場所だ。雲の切れ間から、遥か下に森の緑と川の銀が見える。ポムルが生まれ育った大地。
墓標は磨かれた魔石の一枚岩で、星紋が刻まれている。
「ルゥファは混血だった」
老竜が言った。背中にフィーナを乗せて、ここまで連れてきてくれた。
「二つの血が混ざると、星座が乱れる。瘴気がうまく抜けなくなり、星を次々と失っていく。わしらにはどうすることもできなかった」
「——この城のことを、お前はどう聞いておる」
試すような声ではなかった。どこから話せばよいか測っている声だった。
「魔王が造った空飛ぶ要塞——というのが世間の認識だ」
「違う」
一言だった。だがその一言に、何百年分の怒りと疲労が凝縮されていた。
「この城を築いたのは宰相ゼブルだ」
ゲールハーツから断片的に聞いたことがある。だがドラゴンの口から聞くのは初めてだった。
「ドラゴンライダーの赤い星が、いずれ隕石となって地上を滅ぼすという予言があった。ゼブルはそれを盾にした。方舟を築かねば皆死ぬ、と」
老竜の声に感情は薄い。事実を並べているだけだ。だがその事実の一つ一つが、途方もなく重かった。
「ゼブルは魔石を掘り尽くした。他領から民をさらい、奴隷のように働かせた。そしてその間に——魔王を追放した」
フィーナのペンが走っている。これは歴史だ。勝者が書き残さなかった方の。
「魔王領の略奪も、奴隷も、すべてゼブルの所業だ。だが世間には魔王の仕業として伝わった。我らドラゴンは魔王とともにゼブルを打ち破り、魔王領を取り戻しただけだ」
「——知っていた」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
老竜の瞳がこちらを向いた。
「知っていた、とは」
「ゼブルのことだ。魔王領の略奪が魔王の仕業ではなかったこと。天空城が誰のために、何のために造られたか。——全部じゃない。断片だけだ。だが知っていた」
広間の空気が変わった。ドラゴンたちの黄金の目が、一斉にこちらを見ている。
「俺は勇者パーティの補助魔法使いだった。お前たちの仲間と戦った側の人間だ」
老竜が微かに身じろいだ。若いドラゴンの翼が再び持ち上がりかけた。
「——だがその前に、魔王と共に戦ったことがある」
フィーナのペンが、乾いた音を立てた。
ぱきん。
見なくても分かった。へし折った。
「ごぉふっ……!?」
エルフの記録者が、およそエルフらしからぬ声を上げた。台帳の上にインクが飛び散っている。
「フィーナ」
「は、はい」
「後で聞かせるから、まずペンを探せ」
「いやあの、ルークさん、今の話は——」
「後でだ」
「——ッ、はい!」
フィーナが台帳を抱えたまま、広間の奥へ走っていった。書架の残骸を漁っている。ドラゴンたちが不思議そうに首を傾げてその姿を目で追った。十五年以上誰も使っていない城に、替えのペンがあるかどうかは怪しい。
俺は構わず続けた。
「あれは赤い星が地上に迫っていた頃の話だ」




