飛翔
帰ってきたとき、ポムルは起きていた。
万屋の戸を開けたら、暗い店の奥で白い鱗がぼんやり光っていて、二つの目がこちらを見ていた。
「おかえり」
「ただいま」
「遅い」
「ごめん」
「……うん」
ポムルが首を伸ばして僕の手に額をこすりつけた。小さい頃の癖が残っている。もう頭の位置は僕の胸のあたりまであるのに、やることは赤ん坊の頃と変わらない。
手の中には母竜の鱗がひとつ。
これがあれば。
「パパ、なに持ってるの」
「薬」
「苦い?」
「苦くない。たぶん、ちょっと眩しい」
翌朝から準備を始めた。
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フィーナが台帳を広げた。ポムルの全身星紋図。干渉点を赤で、安定域を青で塗り分けてある。数ヶ月かけて彼女が記録し続けたものだ。
僕は母竜の鱗を手に取り、光にかざした。
星座が浮かぶ。ポムルの星紋と重ねて見る。同じ骨格。同じ一等星の並び。ただし、ポムルにはもう一方の親の星座が重なっていて、その重なりが瘴気の通り道を塞いでいる。
全部をいじる必要はない。
瘴気が出ていく道を、何本かつくればいい。詰まった配管に穴をあけるんじゃない。元々あったはずの道を、瓦礫をどけて通してやるだけだ。バイパスを作る。
まず母竜の星座を見ながら、ポムルの星紋の一等星にマジックで印をつけた。目印がないと星雲の中で迷子になる。
一等星、よし。
続いて二等星。ぽつ、ぽつ、と光の点に印をつけていく。
三等星。このあたりから数が爆発的に増える。竜の星座というのは本当に星雲だ。人間の武具の星座とは桁が違う。Sランクの聖剣がせいぜい数百の星で構成されているのに対して、こいつは——数えるのをやめた。数えたら心が折れる。
切除すべき部分——もう一方の親の星座が割り込んで瘴気の排出路を塞いでいる領域を、ぐるりと囲んで斜線を入れた。
「ルークさん、その斜線のところは……」
「切り取る。この星をいくつか配置し直して、ここに瘴気が抜ける道をつくる」
フィーナがこくりと頷いて、台帳に書き込んだ。
道具を確認する。
メス。と呼んでいるが、もとはピンセットだ。先端の噛み合わせの部分に闇の魔石を埋め込んである。星と星をつなぐ星座線を切断できる。二等星を砕いて三等星の欠片にして吸い取ることもできるし、星座線を縫い直すこともできる。刃こぼれした剣の星座を直すために作った道具を、今日は竜の星座に使う。
フィーナが木箱を開けた。替えの星——等級ごとに仕切られた魔石が、色とりどりに並んでいる。一等星の棚、二等星の棚、三等星の棚。赤、青、白、黄。質量も刻印してある。
「足りますか」
「たぶん。足りなかったらその場で砕いて作る」
フィーナが不安そうな顔をしたので、付け足した。
「冗談」
冗談じゃなかった。
ポムルが僕を見上げた。
「痛い?」
「痛くない。眩しいだけだ」
「さっきも聞いた」
「さっきも答えた」
ポムルが笑った。
僕は息を吸った。
「——これより、オペを開始します」
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星の中に手を入れた。
比喩じゃない。補助魔法で星紋に干渉するとき、術者の感覚は対象の星座の中に入り込む。普段は小さな星図の中を歩くような感覚だけど、竜の星座は——
星雲だった。
無数の光が視界の全方向に広がっている。奥行きがある。層がある。一等星につけた印が遠くで光っていて、それだけが道しるべだった。
足元——足元という概念があるかどうかも怪しいが——には三等星以下の星屑が砂粒のように漂っている。密度が濃い。かき分けないと先が見えない。星の霧だ。
右手にメスの感触がある。体は万屋の床に座っているはずなのに、感覚だけがここにいる。指先に闇の魔石の冷たさ。これだけが現実との接点。
一等星の印を目指して進む。星をかき分けて、光を押しのけて、印から印へ飛ぶ。
星間旅行みたいだ、と思った。こんなところに冒険者時代でも来たことはない。Sランクのダンジョンの最深部より、よっぽど広い。
星屑の霧が、ふいに薄くなった。
視界が開ける。斜線を入れた領域が見えた。塞がった道。瘴気が溜まって黒ずんでいる場所。ここだ。
母竜の鱗から投影した星座が、うっすらとポムルの星雲に重なっている。手本の光。本来あるべき星の配置が、半透明の残光になって浮かんでいる。この光に合わせて、実際の星を動かしていく。
ナビゲーションは母竜。手を動かすのは僕。
一つ目の星。
メスで星座線を二本切った。ぷつ、ぷつ、と細い光の糸が切れる。不要な星が浮き上がる。闇の魔石に吸い込ませて除去。母竜の残光が示す位置に、印をつけておいた星を配置し直す。星座線が新しい位置に繋がり直した。
問題ない。いつもの修理仕事と同じだ。星の数が多いだけで、やっていることは変わらない。
二つ目。同じ手順。切って、除いて、配置し直す。星座線が母竜の手本と揃った。よし。
三つ目の星を動かしたとき、道が通った。
黒ずんでいた瘴気が、すうっと流れ始めた。川の堰を切ったみたいに。塞がっていた排出路のほんの一部だけど、流れができた。
「ぴりぴりしなくなってきた」
ポムルの声。星雲の中に響く。
「もうちょっとだ」
「がんばれ、パパ」
四つ目の星に手を伸ばして——止まった。
回っている。
星が、二つ。互いの周りを回っている。
【連星】だった。
片方はポムルの竜の星座に属する青白い星。もう片方はもう一方の親の星座の星で、色が違う。暗い琥珀色をしている。二つの星が引力で結ばれて、ぐるぐると互いを周回している。
排出路のちょうど真ん中に、こいつが座っている。迂回するルートはない。
琥珀色のほうだけを除去したい。でも連星だ。片方を動かせば、もう片方も軌道を失って飛んでいく。竜の側の星まで失えば、ポムルの星座に穴が空く。
まるごと抜いて、差し替える。
「フィーナ」
声を出した。星雲の中から外の世界へ、声だけが届く。
「一等星、赤、M1.5」
「はい」
間があった。木箱を開ける音。魔石が仕切りの中でかちゃりと鳴る音。それからセッターに星をはめ込む、小さな金属音。
フィーナの指が僕の右手に触れた。星雲の中にいるのに、現実の手の感触だけは分かる。セッターごと、替えの星が手のひらに載せられた。
赤い星。ポムルの星座にはもともと存在しない色の星だ。
右手にメス。左手に赤い星。
連星の回転を見る。青白い星と琥珀の星が、ぐるぐる、ぐるぐる。周期がある。二つの星が最も離れる瞬間——互いの引力が最も弱まる瞬間がある。
そこで、星座線を二本同時に切る。連星をほどく。浮いた二つを闇の魔石で吸って、空いた座に赤い星を押し込む。
一呼吸。空白が長ければ周囲の星が崩れる。抜いて、入れてを、一呼吸で。
回転を数える。ぐるり。ぐるり。ぐるり——
今だ。
メスを入れた。二本の座標線が同時に弾けた。連星がほどけて、二つの星が離れまいとするように一瞬引き合った——その手応えが指先に伝わった。引き合っている。この子が産まれてからずっと、こうやって回り続けてきた二つの星だ。
振り切った。闇の魔石が二つの星を吸い込む。
空白。
左手を突っ込んだ。赤い星を、空いた座に押し込む。星座線が新しい星を探して、手繰り寄せるように繋がり直した。
赤い光が灯った。
ポムルが少し肩を揺らした。
「痛いか」
「……大丈夫。なんか、あったかい」
赤い星がポムルの星雲の中で光っている。もともとなかった色。修理屋が選んだ、ありあわせの星。でも星座はそれを拒まなかった。繋がり直した星座線が、赤い星を中心にきちんと光っている。
——この魔石は、きっとこの子を守ってくれるだろう。あの晩、この村に空から降ってきた隕石のひと欠片。ドラゴンライダーの生まれ変わりだ。
「——ルークさん、左肩の星紋が安定しています。定着しました」
フィーナの声。
「ん」
「汗、拭きますね」
額に布が触れた。ありがたい。
四つ、終わった。あと一つ。
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五つ目の星に向かって進んだ。
母竜の残光が示す最後のポイント。ここを通せばバイパスが完成する。
星屑の霧を抜けて、その星が見えた。排出路の出口にあたる星。こいつの星座線を切り替えれば、瘴気が自然に流れ出る道が完成する——
手を伸ばした瞬間、指先に何かが触れた。
冷たかった。
ぞわっと、指先から手首にかけて痺れが走った。反射的にメスを持つ手を引っ込めた。
【瘴気の潮流】だった。
排出路が塞がったせいで行き場を失った瘴気が、星雲の中を不規則に流れている。暗い流れ。目に見えない。触れて初めて分かる。黒い水の中に手を突っ込んだような感覚。
指がしびれている。感覚が鈍い。このまま手を入れたら、メスの精密な制御ができない。
——落ち着け。
よどんでいるだけだ。もとは魔力の奔流だ。流れが滞って瘴気に変わっているだけで、こいつの正体はただの魔力だ。Sランクの聖剣の星座の中でも見たことがある。鍛冶師が打ち損じた剣の、淀んだ魔力の流れ。あれと同じだ。
同じ。
——手を戻せ。
もう一度手を伸ばしかけて、気づいた。
潮流が脈打っている。
一定のリズムで、濃くなったり薄くなったりしている。暗い、薄い、暗い、薄い——
視界の端で、何かが明滅していた。
【変光星】。
ポムルの星雲の中に一つだけある、明滅する星。ポムルの感情に連動して明るさが変わる星。怖がると暗くなり、安心すると明るくなる。
変光星の明滅と、瘴気の潮流の脈動が——同期していた。
変光星が明るくなると、潮流が薄くなる。暗くなると、潮流が濃くなる。
ポムルが安心しているとき、潮流が緩む。
怖がっているとき、潮流が強まる。
今、変光星はゆらゆらと揺れていた。明るくなりかけて、また暗くなる。不安定。ポムルは怖がっている。手術がいつ終わるか分からない。パパの声が途切れた。だから怖い。
「ポムル」
声をかけた。星雲の中から。
「……パパ?」
「まだいるよ」
「……うん」
変光星が少し明るくなった。潮流が少し緩んだ。でもまだ足りない。手を入れるには、もう少し——
「あのさ」
「ん?」
「手術が終わったら、背中を見てみろよ」
「なに?」
「びっくりするから」
「なにがあるの?」
「ドラゴンライダーの赤い星だ。昔パパが砕いたやつ」
変光星が明るくなった。
ぽう、と。
温かい光が星雲に広がって、瘴気の潮流が引いた。指先の痺れが消えた。暗い流れの中に、一瞬の凪ができた。
——今だ。
メスを入れた。五つ目の星の星座線を切る。ぷつ、と光の糸が切れて、星が浮き上がった。闇の魔石に吸い込ませる。母竜の残光が示す位置に、最後の星を配置し直す。星座線が繋がり直す。
道が、通った。
バイパスが完成した。
黒ずんでいた瘴気が、すうっと流れ始めた。堰を切った川のように。三つ目で開いた流れと合流して、排出路の全体に光が通っていく。
ポムルの星座の、新しい姿。
竜の星座と、もう一方の親の星座が重なり合いながら、それでも瘴気が自然に抜けていく道を持った星空。二つの違うものが、一つの中で共存する星空。赤い星が一つ混じった、この子だけの空。
手を引いた。星雲から抜け出す。
目を開けたら——いや、ずっと開いていたんだけど——万屋の部屋が見えた。フィーナが台帳を抱えてこちらを見ている。目が赤い。窓の外でカボが「月が傾きました」と言った。そんなに経ったのか。
ポムルの星紋を見た。左肩のあたり。光が消えていた場所に、淡い星の光が通っている。赤い光がひとつ、混じっている。
ミノタウロスが薪を割る音が聞こえた。窯が動いている。手術の間もずっと、パンを焼く準備をしてくれていたらしい。
ガルモが皿を差し出した。焼きたての魔石パン。
「食べなさい。顔が白いよ」
僕はパンをかじって、それから床に座り込んだ。
メスを床に置いた。ピンセットに闇の魔石を埋め込んだだけの、不格好な道具。刃こぼれした剣を直すために作ったやつが、竜の命を繋いだ。
ポムルが僕の膝に頭を乗せた。今度は額をこすりつけなかった。ただ置いただけ。重かった。こいつ、本当に大きくなった。
「ありがとう」
「……ああ」
村長おばあちゃんが部屋の隅で微笑んでいるのが見えた。何も言わなかった。
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三日後、ポムルが裏山で翼を広げた。
「いくよ」
「落ちても受け止めるから」
「落ちないし」
落ちた。
正確には、飛び上がって三秒で制御を失い、斜め四十五度に突っ込んで、ガルモの窯の煙突に激突した。煤まみれの白いドラゴンがごろんと転がり出てきたところを、ミノタウロスが無言で受け止めた。
「……痛い」
「だから言った」
「言ってない。『受け止める』しか言ってない」
翌日。屋根から飛び降りた。今度は十秒飛んだ。そのあと納屋の干し草に突っ込んだ。山羊が三頭脱走した。
三日目。ガルモの窯の上昇気流を利用するということを覚えた。ふわっと浮き上がって、旋回した。一周。二周。翼の角度を変えるたびに軌道がぶれたけど、落ちなかった。
子どもたちが通りに出てきて叫んだ。「すげー!」「でっかいトカゲ!」「トカゲじゃないよドラゴンだよ!」「うっそー!」
山羊がまた脱走した。ミノタウロスが追いかけた。
五日目。ポムルは村の上空を三周して、万屋の前にきれいに着地した。翼をたたんで、ふんと鼻を鳴らした。
「見た?」
「見た」
「かっこよかった?」
「煤がまだついてる」
「……取って」
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一週間後の朝だった。
ポムルが裏山の崖の上に立っていた。朝日を背中に受けて、白い鱗が金色に光っていた。
「ルーク」
呼び捨てにするのは、真剣なときだ。
「乗って」
「……まだ早くないか」
「信じてよ、パパ」
パパに戻った。ずるい。
ポムルの背中に手をかけた。鱗は温かかった。跨がると、思ったより安定していた。腕に抱えていた赤ん坊が、人一人を乗せている。
翼が開いた。
風が来た。
地面が離れた。
——飛んでいた。
村が小さくなっていく。万屋の屋根。ガルモの窯の煙。フィーナが手を振っているのが見える。ミノタウロスが山羊を抱えたまま空を見上げている。カボが窓辺から「いってらっしゃーい」と叫んでいる。
雲の下を抜けた。
風が冷たくて、目が潤んだ。風のせいだ。
「僕の星座調べたんだね」
「ああ」
「どうだった?」
「マジで星雲だった。人類のちっぽけさを思い知った」
「あはは」
風の中で、ポムルが笑った。
「ねえ、パパ」
「ん」
「やっぱり僕の父親はルークだったでしょ?」
「……」
白い背中を、ぽんぽん、と叩いた。
「すまん、調べるの忘れてた」
ポムルが「嘘つき」と言って、それから何も言わなかった。
風の中で、二人とも笑っていた。
眼下に、万屋の煙突から、パンを焼く煙が細く昇っていた。
◇
付記として、以下の事実を記しておく。
ルーク・ヴァレリは本稿の出来事ののち、辺境の万屋を拠点としたまま、テイマーが飼育するモンスターの疾患を診る仕事を始めた。モンスターの魔石配列——彼の言葉を借りれば「星座」——を読み、崩れた配列を整え、瘴気の通り道を復元する。武具や魔道具に対して行っていた修理の技術を、生きた魔石配列に応用したものである。魔獣医療の最初の事例とされる。
往診にはつねに一頭の白いドラゴンが伴い、その背に乗って各地を飛んだという。患畜の星座に手を入れるとき、傍らでそのドラゴンが静かに見守っていたと、複数の依頼主の証言が残っている。ときおり術者に助言を与えていたとも伝えられるが、ドラゴンが人語を解したかどうかについては諸説ある。
治療した個体数は、彼自身の台帳がいまだ解読途中であるため正確には分からない。分かっているのは、台帳が二十四巻に及ぶということだけである。余白には走り書きの所感や、助手と思しき者の筆跡による補足が頻繁に挟まれており、中には「患畜、飴を与えたら機嫌が直った。医療行為かどうかは不明」といった記述もある。
今日、各地の魔獣医院の看板に白いドラゴンの意匠が掲げられているのは、この時代に由来する。
ただし、そのドラゴンが何という名前であったかを記した文献は、現存しない。
台帳の第一巻の表紙裏に、一行だけ、別の筆跡で書かれた文字がある。
*パパへ。ぼくの関連のやつ、ぜんぶ読んだ。字が汚い。——ぼくより*
この「ぼく」が誰を指すのかもまた、記録には残されていない。
——イーサファルト王立図書館 特別閲覧室にて
(了)




