ことばと問い
ポムルが喋った。
この一文を、フィーナは台帳に三回書いた。一回目は事実の記録として。二回目は翌朝、本当に夢じゃなかったかの確認として。三回目は、ポムルが朝食の席で「フィーナ、おはよう」と言ったときに、震える手で日付を添えて。
万屋の朝は騒がしかった。
「ガルモおばさん、このパンおいしい」
「ああ、そうかい。よく噛みな」
ガルモおばさんは動じなかった。一ミリも動じなかった。白いドラゴンの赤ちゃんが人間の言葉で感想を述べているのに、「ああ、喋るようになったのかい」と言って、二個目のパンを皿に載せただけだった。元魔王軍の料理人は肝が据わっている。
ミノタウロスはパン窯の前で薪を割っていた。ポムルが「おはよう」と言ったとき、手を止めて、じっとポムルを見て、一言だけ言った。
「いい声だ」
それだけだった。そしてまた薪を割り始めた。最長記録を更新しなかった。
カボは「おしゃべりが増えた」と言った。窓辺のかぼちゃなりの歓迎の言葉だったのだと思う。たぶん。
村長のおばあちゃんは縁側でお茶を飲みながら、ポムルの頭を撫でた。
「まあまあ、おしゃべりさんになったこと。殿下のお子にもこんな頃があったねえ」
殿下のお子って誰ですか。
笑ってごまかされた。十五年と数ヶ月目だ。
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ポムルの言葉の成長は、尋常ではなかった。
最初の日。単語。「パパ」「パン」「あったかい」「きゅう」。きゅうは言葉なのかどうか議論があったが、本人が「これも言葉だよ」と言ったので言葉ということになった。
三日目。短文。「パパ、おなかすいた」「フィーナ、その本なに?」「カボ、今日の天気は?」——カボが「曇り、不愉快」と答えて、ポムルが「ふゆかいってなに?」と聞き返した。カボは三十秒ほど黙ってから「曇りのこと」と言った。違うと思う。
一週間目。会話。もう普通に会話が成り立っていた。語彙が爆発的に増えている。フィーナの台帳の記録頻度が追いつかなくなり、「新語録」という別冊が作られた。
二週間目。読書。
これには僕も驚いた。フィーナが薬草の図鑑を開いていたら、横からポムルが覗き込んで、「これ、なんて読むの」と聞いた。教えたら次の日には一人で読んでいた。その次の日には別の本を読んでいた。
竜の知性というものを、僕は知識としては知っていた。Sランク冒険者として、ドラゴンと対峙したことがある。あのとき感じたのは、暴力の恐怖だけではなかった。こちらの戦術を読み、先を予測し、最適な行動を選び続ける——あの知性の圧。
それが今、目の前で絵本のページをめくっている。
「ルーク、この花の名前、ここに書いてあるのと図鑑に書いてあるのが違うよ」
「……どれ。——ああ、こっちは方言名だな。地方によって呼び方が違うんだ」
「同じものなのに名前が違うの? ふうん。じゃあ僕も場所によっては別の名前で呼ばれるの?」
「お前はポムルだ。どこに行っても」
「なんでそこだけ即答なの」
ドラゴンの知性で突っ込まないでほしい。
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一ヶ月が過ぎた。
季節は晩秋から冬に変わりつつあった。エスタ村の朝は霜が降りるようになり、暖炉の火を絶やせなくなった。ポムルは体も少し大きくなった。手のひらサイズだったのが、猫くらいになっている。翼の芽がはっきりとした翼の形になり、たまにぱたぱたと動かす。飛ぶにはまだ早い。
ポムルの日課は読書になった。
万屋の本棚にある本はあらかた読み終え、村長のおばあちゃんが古い書物を何冊か貸してくれた。フィーナの薬学書にも手を出し始めた。星座理論の入門書を読んだときは、「ルーク、ここの説明間違ってるよ」と言われた。間違ってなかった。だが指摘の根拠を聞いたら、確かに解釈として筋が通っていた。入門書の著者より深く読んでいる。生後数ヶ月の竜に。
ある日、ポムルがフィーナの本棚からモンスター図鑑を引っ張り出した。
僕はそのとき、別の部屋で星座盤の調整をしていた。だから気づくのが遅れた。
「ルーク」
ポムルが図鑑を開いたまま、僕の作業部屋に来た。金色の瞳がいつもと少し違う光を帯びている。真剣な目だ。冗談を言うときの目じゃない。
「なに」
「儀式生殖って何?」
「……どこでその言葉を」
「モンスター図鑑。ドラゴンの項」
僕は星座盤から手を離した。
「要するにドラゴンは、他のモンスターと違って、自分の体の中の魔石を操作できる。自分のミニチュア——小さな魔石の塊を作って、その中に他の生き物の星座を転写して、卵として育てるんだ」
「他の生き物って、なんでも?」
「なんでも」
「たとえばゴブリンおばちゃんとか」
「うん」
「ミノタウロスおじちゃんとか」
「うん」
「人間とかでも?」
「……うん」
ポムルは僕の目をじっと見ていた。金色の瞳に、暖炉の火が小さく映っている。
「じゃあさ」
ポムルは図鑑を閉じた。
「ルークが僕の父親である可能性は、否定できないわけだ」
にやっと笑う、ポムル。
拾ったドラゴンに理詰めで認知を迫られていた。
完全には否定できないのが悔しい。
なぜなら、ポムルの星紋は星雲のように巨大で複雑だった。
「ほら、ルークの紋様あった。そっくりだよね?」
と、探せばいくらでも見つかる証拠を突き付けてくる。
ポムルの片親がどんな星座を持っていたのかに関しては、僕も知らなかったので、
「いや、それだと片親の星座の形がおかしいだろ」
みたいに否定できなかった。
おかげで、ポムルはずっと僕に認知要求をしてくるのだった。
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ある日、万屋に戻ると、ポムルは居間で本を読んでいた。建国のドラゴンライダーの英雄譚だ。昔からのポムルの愛読書で、古い文献を片端から読み漁っている。
「ルーク、知ってた? 昔のドラゴンは自分のことを『我』って言ってたんだよ」
「そうらしいな」
「かっこいい。我も使ってみようかな」——一拍置いて——「やっぱやめた。なんか偉そう」
飽きるの早いな。
ポムルはぱらぱらとページをめくりながら、思い出したように言った。
「この本のドラゴンライダーはね、ドラゴンと魂を共有してたんだって。ドラゴンが子どもを作るのと同じ技術だってさ」
「……ふうん」
「僕の推理では、この2人には子どもがいたと思うよ。つまり前例はあるってことだよ、ルーク」
金色の瞳がこちらを見ている。証拠を積み上げる目だ。
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またある朝、ポムルが起きてこなかった。
どうしたのかと思ってのぞいてみると、猫くらいの大きさの白い竜が、本棚の前で本の山に埋もれて寝ている。モンスター図鑑、星座理論の入門書、フィーナの薬学書、ドラゴンライダーの英雄譚。全部開きっぱなしだ。徹夜で読んでいたらしい。
以前なら片手で持ち上げられたが、最近はそうもいかない。肩で押してどかそうとしたが、びくともしない。竜は寝ているときが一番重い。誰が言ったか知らないが、本当だ。
「起きろ。朝だ。顔を洗え」
「……んー」
「起きろ」
ポムルは目を半分だけ開けて、寝ぼけた声で言った。
「最近さ、朝、鏡見ると、人間に見えてくるんだよね」
「……何を言ってるんだお前は」
「目のかたちとか。口元とか。なんかルークに似てきてる気がして」
「お前は白い鱗に覆われている。角もある。翼もある」
「そういうことじゃなくて。表情がさ。似てきてる気がするの」
ポムルは大きなあくびをした。牙が見える。どう見てもドラゴンだ。どう見てもドラゴンなのに、その目だけが、確かに何かを確かめるように僕を見ている。
「ポムル、何回も言ってるだろ」
「……」
「僕がお前の卵の生成に関与していたとしても、お前の父親だ。関与していなかったとしても、お前の父親だ。どっちでも同じだ」
「……そうじゃなくて」
ポムルは小さく言った。
「そうじゃないんだけど……うまく言えない」
僕は黙って、ポムルの頭に手を置いた。白い鱗は朝の冷気で少しひんやりしていた。
「パンが冷める。顔を洗ってこい」
「……はあい」
ポムルはのそのそと起き上がって、洗面台に向かった。途中でガルモおばさんに「おはよう」と言って、パンを一つもらっていた。
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その夜も、ポムルは本棚の前で眠ってしまった。
読みかけの本を胸に抱えたまま、暖炉の明かりの中で寝息を立てている。白い鱗が橙色の光を受けて、柔らかく光っていた。星紋が微かに浮かんでいる。ポムルだけの星座。見るたびに複雑さを増している気がする。成長しているのだ。
僕は毛布を持ってきて、ポムルにかけた。
本を胸から抜こうとしたが、小さな前脚がぎゅっと抱えていて離さない。ドラゴンライダーの英雄譚。人間とドラゴンが共に空を飛んでいる挿絵のページが開いたままだった。
いいか。そのまま寝ろ。
僕は暖炉の前の椅子に座って、天井を見上げた。
ポムルが本当に聞きたかったことは、たぶん、血の繋がりのことじゃない。あの子は——自分がここにいていいかどうかを、確かめている。何度も、少しずつ、角度を変えて。言葉にできない問いの輪郭を、言葉にできる問いで撫でている。
だから僕も、何度でも同じことを言う。どっちでも同じだ、と。それがあの子の問いへの答えになっているかは分からない。でもいつか——毎朝パンを食べて、本を読んで、寝坊して叱られて、暖炉のそばで眠る、そういう日々の全部が、言葉より先に届くといい。
ポムルが寝返りを打った。毛布がずれた。かけ直す。
「……むきゅ」
寝言だ。
万屋の夜は静かだ。冬が近い。暖炉の火が揺れている。窓の外は曇り空で、星は見えない。カボが不愉快な天気だ。
でも暖炉のそばは温かい。ガルモおばさんのパンが棚の上にある。フィーナの台帳が帳簿棚に並んでいる。窓辺にかぼちゃがいて、裏のパン窯に窯番がいて、縁側に村長のおばあちゃんが来る。
そういう場所だ。ここは。
いていいに決まっている。




