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バンクーバーオリンピック、男子フリースケーティング。
最高のパフォーマンスを発揮する者。
はたまた、自分を見失い、ミスを連発する者。
その全ての演技が、4年分のドラマの最終回。その結晶とも言える演技の連続に、会場はどんどん熱くなっていた。
だが、祭りは永遠には続かない。オリンピックも――2人の演技を残すばかりだ。
『リプレゼンティングジャパン、ユウヤ・シラカワ!』
ショートトップの選手が登場したことで、場内は今日一番の盛り上がりを見せる。
上位の選手は各々パーソナルベストを更新し、高得点を上げている。いくらショート一位とはいえ、ミスすればその瞬間金メダルは消える。そんななかで、白河は演技に挑むのだ。
白河悠人の演技が始まる。
チャイコフスキー『ロミオとジュリエット』。そのあまりに定番な曲を、しかし彼はすでに自分だけのものに仕上げている。
指の先までコントロールされた最初の振付けに、会場はあっという間に飲み込まれた。
冒頭はトリプルアクセル+ダブルトウループの予定。彼のプログラムで一番難しい技。ここさえ決めてしまえばぐっと気が楽になるだろう。
――だが、その軌道は、アクセルのそれではなく、トリプルルッツのものだった。
このジャンプを彼は完璧に成功させる。
「構成を……変えた?」
そして続くジャンプ。ここはトリプルアクセルの予定。
だが、今度は代わりにトリプルループ。
なんと演技冒頭の最重要ジャンプを二つとも回避。
まさか、トリプルアクセルを捨てた?
そんな疑念が一瞬だけ沸いた。だが、理性が打ち消した。
そんなわけない。トリプルアクセルは男子シングルでは必須の技。金メダルには絶対必要な技だ。そしてトリプルアクセルは彼が得意とするジャンプだ。
それなのに、ここでトリプルアクセルを跳ばない。
その意味は――
「まさか」
そこで気が付く。
『僕は自分の限界に挑む』
彼はそう言った。
確かにそういったのだ。
なら、最初にトリプルアクセルを組み込まなかったのは、つまり――二つのトリプルアクセルを、演技の後半に持ってくる気だ。
演技後半は得点が1.1倍になる。そこに最も得点の高いジャンプ二つを持ってくる。そうすれば更なる得点を稼ぐことができる――ただし、完璧に成功すればだ。
だが、彼にはそれをする理由がない――ないはずだった。ショート一位の彼は、完璧な演技をすれば、それで金メダルに手が届くのだ。わざわざ危険を冒す理由はどこにもない。そして今までの彼はずっとそうしてきたのだ。
それなのに、彼はここに来て大きな賭けに出た。彼の言葉が嘘ではないことを証明するために――。
トリプルループを決めると、一転、曲調は明るいものに変わった。その瞬間、彼の表情も一転して花が咲いたようになる。ジュリエットとの甘いひと時を過ごすロミオが、そこにはいた。
改めて見ると、彼の演技がいかに洗練されているかが分かる。
ジャンプなどの技以外のところでも、決して手を抜かない。スケーティングの一蹴り一蹴りが優雅でよく滑る。そしてどの角度からみても、常に美しいポジションニング。彼にとって、プログラムとは、技の集合ではなく、絵画のような一つの作品なのだ。
といっても、エレメンツも決して疎かになっているわけではない。ジャンプは助走からではなく、ステップから直接行い加点を狙う。
スピンはバリエーションが豊富で、しかも軸がブレない。
ステップシークエンスは、多彩な種類をディープエッジで、確実にこなしてくる。
認めよう、あいつは、俺が持っていないものをたくさん持っている。
――演技後半。ここから5連続のジャンプ。これがどれだけハードかは、俺もよく知っている。
万が一ミスをしたら、そのまま負の連鎖が起きてしまう。
そしてなにより、ここにきて今日の彼は最大の技を二つも残している。
この五輪、今までの人生をかけたこの舞台で、彼はそれに挑戦しようとしているのだ。そのプレッシャーたるや。
アクセルの軌道。来るか――いや、片手をあげてダブルアクセル。それは決して回転が抜けたのではなく、最初からダブルのつもりで跳んだものだ。
「後半の最初に跳ない……」
演技後半は、ジャンプが1.1倍になる。だが、演技後半の二分間であれば、どこで跳んでも倍率は1.1倍だ。
だから普通は後半の最初に大技を持ってくる。
だが彼はそれをしなかった。
さらにトリプルフリップ。トリプルサルコウと鮮やかに決める。
そしてコンビネーション、フリップからダブルトウ、ダブルループの三連続。
ここまで完璧に成功させ、しかしトリプルアクセルは一つもない。
そして、残りのジャンプはあと二つ。
「おいおい冗談だろ。」
やや助走を眺めにとる。これは間違いなく。
左足アウトエッジで踏み込み、そして宙を舞う。
――見事に着氷。高さ、飛距離、ランディング、どれをとっても非の打ち所がない、完璧なトリプルアクセルだった。
そして立て続けに。今度はイーグルから直接踏み込む――
トリプルアクセル!
さらに立て続けに、スピードを落とさずにトリプルトウループ!
演技の最終盤に三回転半+三回転のハイパーコンビネーションを成功させたのだ。
だがこの超高難度のジャンプを成功させたときでさえ、白河の表情は、あくまで役者のそれだった。彼はいまスケーターではなく、ジュリエットに恋するロミオなのだ。
そして鳴りやまない拍手の中、最後のステップシークエンスへ向かう。
普通、ブレードが氷を削る時、大きな音を立てるものだ。だが、彼の場合、その音が極限まで小さい。まるで真っ白な半紙の上を、筆が流れるような、流麗なスケーティング。
ブランケット、ロッカー、カウンター……そのターン一つ一つが難しいだけでなく、拍を完全に捉えている。ブレードと身体が一体になっているからこそできる離れ業。
確かに振付はシンプルではある。だがそれは決して無難な演技を意味しない。
エレメンツだけではなく、一滑り、一滑りに至るまで、コントロールされた、どこまでも精密な演技なのだ。そしてシンプルさの中に、極限まで追求された美しさがある。
これが、彼にとっての「限界に挑戦した演技」。俺とは全く違う、至高のスケート。
最後のエレメンツ、スピンコンビネーション。一切軸をブラさず、しかもスピードが落ちない。
キャメル、シット、アップライト、足を変えて、キャメル、シット、そして最後のアップライトスピン。身体を引き絞ってスピン中に加速、目にもとまらぬ高速スピン――
完成にかき消されて、曲の終わりがわからなくなった。
そう、気が付くと彼は演技を終え、観客が叫んでいた。
4分半の中で、一寸の乱れがない完璧な演技を、この五輪の大舞台でやり遂げたのだ。いや、やり遂げたなんて言葉は、彼には似合わないかもしれない。もっとスマート。演じきった、そんな言葉がぴったりだ。
白河がリンクから上がる時、一瞬だけ目が合った。
――君のスケートを見せてみろ。
そう言われている気がした。
俺は未だ歓声が鳴り止まないリンクに入る。
最後の調整をしているうちに、白河の得点が出る。
【ザマークスフォー】




