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――公式練習。
練習なんて言葉がついているが、実はもうここから試合は始まっている。
実はこの練習、ジャッジが同伴で行われるのだ。ここで、ジャッジはそれぞれの選手のスケーティングのレベルがどうなのか、どの技がどれくらいの確率でできるのかと言ったことを査定、選手ごとの<ランク>を決めるのだ。そしてその結果が演技構成点のベースになってくる(ジャッジは当日の演技を見て即座に点数をつけているのではないのだ)。
公式練習の時間は30分。各選手の曲が1回ずつ流れる。
全日本から必死で練習してきたステップを入念に確認する。もちろん練習する意味もあるが、ジャッジに俺の成長を少しでもアピールしておきたいのだ。
「氷はどんな感じ?」
コーチが聞く。
「いつもより少し硬めかな」
氷が硬いと、跳びあがるときにしっかり踏み込めるので、高さと飛距離を出しやすい。だが一方、着氷の時には衝撃を吸収するのが難しく、ブレードを弾かれやすい。つまり転倒しやすいってわけだ。
「まぁトウジャンプが得意な勝也には追い風ってわけだ」
コーチが笑みを浮かべて言った。
俺はトウループやルッツといった、踏切りにトウを使うジャンプが得意な一方、トウをつかないエッジジャンプはあまり得意ではない。
そして氷が柔らかいとエッジジャンプでミスしやすい。逆に、このリンクみたいに氷が硬ければ、苦手なエッジジャンプをミスしにくくなるのだ。
「氷の感じはつかめてきた気がする」
あっという間に時間が経ち、公式練習は終了。
ホテルに戻り、食事を済ませて、コーチにまた明日と言ってから自室に向かう。
すると、なんだか急に手持無沙汰になった。
できることは全てやった。後はおとなしく明日を待つばかり。だが、いつも練習漬けの毎日を送っているから、急に時間ができてもやることがないのだ。
漠然と天井を見上げて、明日の試合について考える。
オリンピックには魔物が住むという。他のスポーツのことはさほど知らないが、フィギュアスケートほど番狂わせが多い競技も珍しかろう。前回の大会、女子シングルでは、優勝候補たちが皆五輪の魔物にのまれ、逆に誰も注目していなかった一人の日本人が完璧な演技で金メダルを取った。強靭なメンタルを持ち、世界選手権をはじめ多くの主要大会で結果を残してきた猛者たちが、なぜかこの五輪という舞台に立つと力を発揮できない。それはこれまでのフィギュアスケート史上何度も起きたことなのだ。
だから、必ずしも俺や白河が金メダルを争うとは限らない。もしかしたら二人ともボロボロの演技をするかもしれないのだ。
と、自然とそんなことを考えてしまう自分がいた。……一人でいても、なにもいいことがないような気がした。
そうだ、君崎がそろそろ着く頃じゃないか。俺はそのことを思い出し、携帯を取り出してメッセンジャーを立ち上げた。
――ホテル、ついた?
そんなメッセージを送る。すぐに既読はつかない。だからしばらくネットサーフィンをしていると、独特の電子音が鳴り響く。
――さっき着いたよ
正直、一人でいても駄目なことを考えるだけ。だからどうせなら人と話していたかった。が、自分から「話したい」なんていうのも癪で、結局、
――暇
その漢字一文字にすべてを乗せて届けみる。すると、
――何号室なの
どうやら意図は伝わったようだった。部屋の番号を伝えると、数分後ドアをノックする音が部屋に響いた。
「よぉ、君崎」
俺がそういうと、
「試合前で不安だから人呼ぶなんて、可愛いとこあるじゃん」
小悪魔な笑みを浮かべながらそんなことを言ってきた。
「いや、だれもそんなこと言ってませんが」
「顔に出てるよ、顔に」
冗談なのか、それとも本当に俺が不安な表情を浮かべているのかはわからない。
部屋にはイスがなかったので、代わりにベッドに腰かける君崎。バネの軋む音が響く。
「どうだった、バンクーバーの氷は」
「んー硬かったよ。高さが出そう」
「硬いと言えば、まだ少し硬いって言ってたあの靴、どんな感じ?」
「いや、滑りこんでるうちにいい感じになってたよ。たぶん本番で使う。ちょっとキツい感じはあるんだけどね」
「もう一足は痛いって言ってたもんね」
「うん」
そんな当たり障りのない雑談がしばらく続く。まるで試合前のウォームアップみたいに、身体が少しずつほぐれていくような気がした。
そしてある時、ふいに会話のシークエンスに切れ目ができて、それでしばらくの沈黙。その時君崎の口から何かが出かかっているのを感じて、俺はあえて新しい話題を振らずに待つ。
そして彼女はベッドの後ろに両手をついて天井を見上げる。そして言う。
「正直、あんたを見てると悔しい」
彼女だって、五輪を目指していたのだ。そして彼女は誰よりもそれに値するだけの力を持っていた。そのために努力もしてきた。それなのに、ほんの少しだけ何かが狂っただけで、彼女は夢の舞台に立てなくなったのだ。悔しくないはずがない。
「私がずっと夢見てきた舞台に、あんたは今立とうとしてる」
「そうだな。うん。確かに」
「私も跳びたかったな。この五輪の舞台で四回転を」
それは切実な気持ちだろう。男子と違って、女子の技術的なピークは10代後半だ。ジャンプは特にそうだ。だから、次の五輪の時、もしかしたら君崎は四回転が跳べなくなっているかもしれない。
時期的に、今回がベストだった。その機会を彼女は逃してしまったのだ。同じ四回転ジャンパーとして、その気持ちは痛いほどわかる。
そして、それは俺にとっても――今回が時期的にベストなのだ。
男子の場合、技術的なピークは20代後半。だが、一方で四回転は体に負荷がかかる。それゆえ、若いころから四回転を跳び続けていると、慢性的に故障を抱えることになりかねない。やはり俺も、四年後も満足にスケートができる状態とは限らないのだ。
「だからさ、私が跳べなかった分。挑めなかった分。勝也が四回転を跳んできて」
「ああ」
君崎は拳を突き出してきた。
「勝也、勝ってきて」
俺は拳を突き返す。
「勝ってくる――四回転で」
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