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女子が終わり、一時間の休憩をはさんで、男子ショートプログラムが始まった。
俺は、第3グループの5番滑走。たった今、第3グループの1番滑走が演技を終えたところだ。そして2番滑走の選手がリンクに姿を現すと、今日一番の歓声が沸き起こった。
――白河悠人の『白鳥の湖』が始まる。
純白の衣装に見を包んだ彼は、白いリンクに同化することなく、独特の輝きを放っていた。
演技の冒頭は、トリプルアクセル――じゃない。
アクセルの場合普通長めの助走を取るのが、今、彼はステップから急カーブを描いた。これは――トリプルフリップだ。さらにそこからトリプルトウ。
以前まで、彼は演技の冒頭にトリプルアクセルを持ってきていた。それなのに、今日はまず三回転+三回転のコンボから入った。
そして、本来三回転+三回転があった場所で、代わりにスピンコンビネーション。
これは、演技の構成を変えてきているだ。
だが、男子ではトリプルアクセルは必須の技。プログラムに組み込まないということは、即ち敗北を意味する。そしてこの大舞台で彼がそんなことをするわけがない。
となれば。前半でやらないということは、もしや……
続いてトリプルルッツを軽やかに決める。
そして、ステップシークエンスを挟んで演技が後半に。
フリーなら演技後半は得点が1.1倍になるボーナスタイムだが、これはショートだ。ショートでは演技のどこでジャンプを跳ぼうが、ジャンプの基礎点は一緒。
おそらく、彼はファイブコンポーネンツ、つまり演技全体の評価を少しでも上げるために、後半に組み込んできたのだろう。
彼は、あの特徴的な、片足に全てを載せてバランスを取るような助走に入った。そして振り返るとともに、逆の足に全ての体重を移して踏み込む。
トリプルアクセル――完璧なジャンプ。高さ、飛距離、ランディング、すべてが完璧だった。
ステップシークエンスで会場を盛り上げ、最後のフライングシットスピンとコンビネーションスピンをレベル4で揃えてフィニッシュ。
演技を終えた瞬間、彼はこぶしを天高く突き上げた。
そしてそれを勢いよく振り下げてガッツポーズ。珍しく感情をあらわにした。
今期の彼はかなり安定している。特に今シーズンショートではほとんどミスをしていない。
だが、今日はただミスをしなかっただけではなかった。全てのエレメンツが加点をとれるような完成度だった。スピンはすべてレベル4。ステップももしかしたらレベル4かもしれない。スケーティングそのものも伸び伸びとして、エッジもいつもより深い。
投げ込まれる花束とプレゼントの嵐。フラワーガールが全員出動しても、拾いきれないほどの数。
彼はリンクに投げ込まれた特大のぬいぐるみを拾い上げて氷から上がる。観客たちに手を振ってから、キスアンドクライに入る。カメラ越しにが手を振ると、高得点を望む拍手が会場から巻き起こった。
これは高得点が出るに違いない。問題はどこまでの点数がでるかだが……。
――白河さんの得点。84.50。現在の順位は第1位です。
当然、パーソナルベストを超えてきた。国内大会はISUの大会よりも得点が高く出る傾向にあるとはいえ、それを考慮しても十分高い点だ。俺のパーソナルベストにも迫るほど高得点。
白河の演技でハードルが急激に上がってしまった。そしてその後登場した選手たちは、白河が作り上げた熱気に圧倒され、ものの見事にジャンプを失敗していく。彼が銀盤に刻み付けた軌跡は、もはやある種の呪いともいうべきものになっていた。
ならば、俺が白河の描いたものを上書きしてやる。
『17番、高橋勝也さん、クリスタルパレス』
両手を広げ、大歓声を一身に受ける。
だが、俺が定位置に着くと、会場は一瞬で静まり返る。
静寂を切り裂くように、アラビアのロレンスが鳴り響く。
まずは四回転。今季全ての大会で成功させている。だから恐れるものなど何もない――だが。
ジャンプへの助走に入る直前、急にそれは起こった。果敢に四回転に挑戦した君崎――その転倒の映像がフラッシュバックしたのだ。
――集中しろ、俺。今は自分の演技に集中するんだ。
スピードを上げていき、ハーフターンで右足のインサイドエッジに切り替え、左足のトウを突いて跳びあがる。
よしイケる――ッ
跳びあがった瞬間はそう思った。
だが、歯車が狂った。いや、そんなに大げさなものじゃなかった。ただほんの少しだけ、俺の身体の中心を貫いていたはずの芯が、本当にほんの少しだけ傾いたのだ。
次の瞬間、俺は冷たい氷の上に膝をついてひれ伏していた。
……わけがわからなかった。
どういうことだよ。
なんでだよ。
果たして俺が今倒れ込んでいるこの氷は、現実のものなのか。もしかして夢なんじゃないか。
時間にしてほんの数秒の空白。俺はすぐさまアラビアの砂漠へ戻っていく。
だが、身体のどこかに、氷の冷たさがまだ残っていた。
――そんなものは関係ないと振り払う。誰にだって、ジャンプの失敗くらいある。それは仕方がないことだ。ここから切り替えていかないと。
次のジャンプも決して油断はできない。
左足のバックスケーティングから、振り返って急ブレーキをかけ、その力を垂直方向への跳躍に変換――トリプルアクセル。やや高さが足りず、着氷が詰まる。だがなんとか成功だ。
よし、大丈夫。大丈夫。なんとかなるぞ。
今のはジャンプに入るにわずかに躊躇してしまった。だから高さが出なかったのだ。
次は、いつも通り、おもいっきり行こう。
3つ目のジャンプ、ステップからのトリプルッツ、だが今度はスピードが出すぎて、勢いを殺しきれずステップアウト。とっさの判断でセカンドジャンプのトリプルは諦め、ダブルにする。
ショートで三回転+二回転を跳んだの一体いつぶりだろう。たぶん3年ぶりくらいだ。少なくともシニアでは今まで一回もない。
四回転で転倒、さらにコンボのトリプルがダブルになった。あまりに致命的なミスだ。 しかし演技はまだ終わっていない。なんとか引きずらないようにと、スピンとステップをこなすが、身体がうまく動かなかった。嫌な汗が流れ、動悸がする。
最後のストレートラインステップに入るのが遅れる。なんとか遅れを取り返そうとするが、身体が言うことを聞いてくれなかった。まるで古いパソコンで動画を再生したみたいに、音と振付がかみ合わない。
そのまま最後のスピンに入るのも遅れ、仕方なく予定の半分で回転をほどきフィニッシュ。
なんとか観客たちにお辞儀だけして、逃げるようにリンクサイドへ向かう。
迎えたコーチは優しく俺の肩を叩いた。
「大丈夫。これくらいならフリーで逆転できる」
キスアンドクライにストンと座り込む。カメラに手を振る元気はなかった。
ただ、点数が出るのを黙って待つ。
内容を考えると低い点数が出るのは不可避。だが、これは国内大会だ。採点は甘めになるし、スケート連盟の“意向”が反映される。もしかしたら実力者である俺の点数は、高めにつけてくれるかもしれない……なんて、まさかこんなことを願う日が来るとは。自分がみじめで情けない。もういっそ今この瞬間、引退を宣言してしまいたかった。
――高橋勝也さんの得点。
画面には、おおよそ自分のものとは思えない得点が映し出されていた。
技術点だけでなく、演技構成点でも、白河を下回っていた。いや、それだけじゃない。ジャンプ2つの失敗はやはり致命的で、なんと――
『現在の順位は、第3位です』
五輪に出るのは当然だと思っていた。だけど、今日の点数でわかってしまったのだ。
代表枠は2つしかない。もし明日のフリーでも失敗すれば、世界チャンピオンたるこの俺が、代表になれないという現実が待ち受けているのだ。
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