二次方程式のいらない楽園へ
小5の2学期以降、ひかるはクラスの中で目立たぬよう息をひそめて過ごした。
仲良しグループを作ることも、輪に入り込むことも、考えること自体が面倒くさくて出来なかった。
それでも、誰の顔色も伺わずに没頭できる書道や図工の時間は好きだったし、難しくなってきた勉強についていくため、父親に頼んで『進研ゼミ』を始めてみたりもした。
クラスの5、6人は中学受験を目指し、半数近くが塾に通うような環境の中、ひかるは冬休みや春休み、夏休みが来るたびに各地の「楽園村」へと向かった。
三重県の伊賀や長野県など、全国の実顕地を巡る時間は、息苦しい日常からの唯一の避難所だった。
6年生になったある日、ひかるは高熱を出して倒れた。
なかなか熱は下がらず、結果は肺炎。
数日間の入院を余儀なくされ、その学期は体力が戻らず体育の授業をずっと見学することになった。
同じ敷地に住む祖母が、病弱なひかるのことで母親に嫌味を言っているのが聞こえてきて、胸が重くなった。
6年生の冬休みが終わった頃、母親が突然「子どもに学園を贈る」と目を輝かせ始めた。
「お母さんはね、ひかるが自分から『学園に行きたい』って言ってほしいの」
その押し付けがましい勧め方が、ひかるは嫌でたまらなかった。
けれど母親と揉めるのはもっと嫌だったし、楽園村での経験を思い出せば「頑張ればあそこでもやっていけるかもしれない」という思いもあった。
ひかるは渋々了承した。
しかし、「学園に行きたい」と切り出したひかるに対し、父親は断固として反対した。
「ダメだ。学業が一番大事なんだぞ。大人になったとき学歴がなければ、仕事をして生きていけないんだ」
娘の将来を一般常識に基づいて真剣に案ずる父親。
何度も何度も頭を下げてお願いするうち、ひかるの目からボロボロと涙が溢れ出してきた。
行きたくて泣いているのではなかった。
熱を帯びて暴走する母親と、正論で守ろうとしてくれる父親の板挟みになり、もう何もかも考えるのが疲れてしまったからだ。
このままこの世界で学校生活を送り、壊れてしまった人間関係の中で息を潜めて生きる辛さ。
色々なことが嫌になり、心が悲鳴を上げていた。
結局、父親の反対を押し切れず、ひかるはそのまま地元の公立中学へと進学した。
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ひかるの母親は、3人兄弟で、出来の良い姉と兄がいる。
小さい頃から少し劣等感を感じていたらしい。
結婚後は、専業主婦になり、父が仕事で忙しいなかほぼワンオペで子育て。
趣味は、絵を描くこと。
時間の合間に行っていたが、時々、祖父祖母が、「お金にならん仕事だ」と嫌味を言う。
家の周りの掃除が行き届いておらず「汚い」「近所に恥ずかしい」と祖父から酷く叱られたこともあったらしい。
どこにも吐き出せないストレスを抱え込んだ母にとって、社会の「常識」や「評価」は自分を苦しめる鎖でしかなかった。
だからこそ、母は学園の思想に強く救いを求めたのだ。
ひかるは、熱っぽく語る母親の顔をじっと見つめていた。
「ねえひかる、学園に行けばね、誰かと比べられて傷つくことも、嘘をついて自分を偽る必要もなくなるの。みんながみんなのために助け合って、心から笑って暮らせる場所なのよ。ひかるもそこに行けば、絶対に『本当の幸せ』になれるわ」
母の言葉は相変わらず一方的で、押し付けがましかった。
けれど、その真っ直ぐな瞳の奥にある真剣さに触れたとき、ひかるの胸の奥で、小さく麻痺していた感情がゆっくりと動き出した。
(本当の幸せ……)
楽園村で過ごした7日間の記憶が、静かに脳裏によみがえる。
朝の澄んだ空気の中で食べた、温かいご飯。
泥にまみれながら採ったきゅうりのツルツルとした手触り。
自分の言葉を誰も笑わず、ただ「うん、うん」と頷いて受け止めてくれたあの研賛会。
学校ではどれだけ気を使っても「裏で悪口を言っている」と叩かれ、家では母の顔色を伺い、本当の自分を隠して呼吸することすら息苦しかった。
どこに行っても間違えてばかりで、自分の居場所なんてどこにもないと思っていた。
(でも……あそこなら)
楽園村でのあの「肯定された感覚」は偽物ではなかったはずだ。
もし母の言う通り、私有も争いもないあの実顕地で、周りのみんなと「よく見て、よく聞く」を徹底して生活できたなら。
我慢して自分を偽るのをやめて、本気で集団の中に溶け込む努力をしたなら——私も、あの笑顔で歌っていたスタッフのお兄さんたちのように、何も恐れずに笑えるようになれるのかもしれない。
「頑張れば、私も変われるのかな……」
ぽつりと漏れた小さな声に、母親の顔がぱっと華やいだ。
「そうよ! ひかるなら絶対に変われるわ! 本当の幸せになれるのよ!」
母の喜ぶ姿に胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
学校での冷たい視線や、壊れてしまった人間関係に怯え続ける日常から逃げ出せるなら。
そして、頑張ることで自分も「本当の幸せ」とやらに辿り着けるのだとしたら、その賭けに乗ってみるのも悪くないかもしれない。
諦めと逃避の中に、かすかな「希望」のような憧れが混ざり合う。
ひかるは静かに息を吸い込み、自分を納得させるように小さく頷いた。
再び父親へ「学園に行きたい」と訴えた。
折れた父親の承諾を得て、ついにひかるは「カワギシ学園」へ完全に移住することが決まった。
息苦しい実家と学校を離れ、中学1年生の秋からひかるは「楽園」と呼ばれる実顕地での共同生活へと、足を踏み入れることになった。




