考えるのをやめた日の黒板〜5年生2学期
2学期が始まると、教室の喧噪がひかるを待ち受けていた。
「ひかるちゃん、すごく日焼けしてる! 夏休み、どこか行ったの?」
真っ黒に日焼けしたひかるの腕を見て、クラスの女子が声をかけてきた。
1学期のあの冷え切った空気からすれば、思いがけない歩み寄りだった。
「うん……農作業したり、鶏の卵を集めたり、豚の部屋の掃除をする体験に行ってきたの」
ひかるが答えると、後ろで話を聞いていた他の同級生がクスクスと声を漏らした。
「えっ、農作業? 夏休みにわざわざ農作業だって」
嘲笑うような言葉。
けれど、楽園村で「よく見て、よく聞く」ことを叩き込まれたひかるの頭は、瞬時に相手の意図を察知し、自分を守るための言葉を弾き出した。
「そうだよね。わざわざ農作業をやりに出かけるなんて変だよね……。」
「そういえば、私、1学期の時、変なこと言っちゃってみんなに変に思われたかもしれない。ごめん、悪いことだったと思う」
波風を立てないよう、自分から先回りして自分を貶め、頭を下げる。
そのおかげで露骨なイジメに発展することはなかったが、ひかるの心は二重の仮面を被ることになった。
家では、楽園村で「変わった」と喜ぶ母親のために、明るく活発な娘を演じる。
学校では、誰の邪魔にもならないよう、余計なことを一切口にせず気配を消す「おとなしいひかる」を演じる。
クラスで誰かが誰かを褒めていれば「すごいね」と一緒に褒め、誰かが誰かの悪口を言っていれば「そうだよね」と気まずそうに頷いて同調した。
自分の意見を持たず、その場の空気と他人の顔色にひたすら合わせることだけが、自分が傷つかないための唯一の防壁だった。
しかし、そんなひかるの必死の処世術は、思わぬ形で裏目に出ることになる。
ある日、ひかるは廊下の陰で男子たちが話しているのを耳にしてしまった。
「あいつ、表では誰にでも合わせてヘラヘラしてるけど、影じゃ一緒になって悪口言ってるじゃん。性格悪いよな」
胸がドクンと跳ね、血の気が引いていく。
波風を立てないために周りに合わせていただけなのに、男子からは「裏で悪口を言っている調子のいい奴」として映っていたのだ。
いくら大人しくしていても、他人に合わせても、結局自分は攻撃される。
(どう思われるか、どう行動するのが正解なのか……考えるの、もう面倒くさいな)
自分の頭で必死にグルグルと考えて答えを出そうとすればするほど、裏目に出て傷つくだけ。
次第にひかるの心には、自分を取り巻く状況や感情そのものについて「深く考えること自体が面倒くさい」という投げやりで冷めた感覚が芽生え始めていた。
学校でも家でも息が詰まりそうな毎日の中で、唯一の息抜きとなっていたのが、家で飼っている愛犬コロの存在だった。
夕方、重い足取りで学校から帰ると、コロは千切れんばかりに尾を振り、全身で喜びを表現してひかるを出迎えてくれた。
「ただいま……」
ランドセルを置くと、すぐにリードを手にして散歩へ連れ出す。
夕暮れの公園のベンチに腰掛け、毛並みを撫でながらボールを投げたり、駆け寄ってくるコロのあたたかい体を抱きしめたりする時間。
難しく考える必要もなく、言葉を発さなくても自分を丸ごと受け入れてくれるコロと過ごすそのひとときだけが、すり減ったひかるの心をそっと癒やしてくれる唯一の救いだった。
けれど、学校での不器用な迷走は終わらなかった。
ある放課後、一人の女子がひかるに近寄ってきた。
「ねえ、ひかるちゃん。前、男子グループに悪口言われてたでしょ? 私も言われたんだよね。黒板に日直の名前書いてあるじゃん。あの男子、そのグループだから名前の横に『バカ』って書いてよ」
自分の代わりに仕返しをしてほしいという身勝手な頼み。
断ったらどうなるか、書いたらどうなるか……
そうやって思案することすら億劫だったひかるは、何も考えず、ただ促されるまま吸い寄せられるようにチョークを握り、黒板に「ばか」と書いた。
次の日の朝の会。
担任の先生が怒りを滲ませた声でクラスを見渡した。
「黒板の日直の横に、悪口を書いたのは誰だ?」
重苦しい沈黙が流れる中、ひかるは迷わず、すぐに手を挙げた。
何を考えても無駄だという諦めが背中を押した。
「ひかる、なんでこんなことを書いたんだ?」
「……ただ、書きたかったからです」
本当の理由を説明するのも、それによって巻き起こる人間関係の揉め事を予想するのも、今のひかるにはただただ面倒だった。
だから「ただ書きたかった」と短く吐き捨てた。
当然、クラスの前で酷く叱られた。
放課後、職員室に呼び出された。他の学年の先生たちが忙しく行き交う独特の緊張感の中、担任から再度追及された。
「本当に『ただ書きたかった』だけなのか? 正直に言いなさい」
先生に叱られた後、その男子を見たら泣きそうだったので、悪い事をしたと思った。
(でも、友達に頼まれたからって言えない)
本当の理由を言えば、頼んできた女子が怒られ、また新たなトラブルが生まれる。
それを防ぐためというよりは、これ以上人間関係のややこしい渦に巻き込まれて思考を割かれるのが嫌でたまらなかった。
ひかるは何も深く答えず、ただ理由をうやむやにして誤魔化し続けた。
先生は呆れたように溜息をつき、ひかるを解放した。
帰り道、いつもならコロの元へ急ぐ足取りも重かった。
素直に言っても嫌われ、我慢して他人に同調しても「裏で悪口を言っている」と叩かれ、頼まれるがままに行動すれば自分だけが叱られる。
(もう、どうでもいいや。考えるの、やめよう)
家では本当の自分を出せず、学校でも本当のことが言えない。
散歩のときにコロを見つめるひかるの瞳には、感情をシャットアウトしたような静かな絶望の色が滲んでいた。
思考することを放棄することでしか自分を守れないほど、ひかるの心は追い詰められていた。




