①楽園村〜きゅうりの長さとお茶碗の余白
8月の旧盆辺り、両親に連れられてたどり着いたカワギシの「実顕地」。
初日の夜、浴場でお風呂を済ませた後、愛和館での夕食となった。
丼に盛り付けられたメニューは中華丼。
けれど、ひかるの丼に盛られた量は、思ったよりもずいぶん少なめだった。
(楽園村の夜ご飯って、これだけなのかな……)
実はこれは、最初から普通の量を出して残されたら困るから、おかわりが欲しければ自分から言うだろうという世話係の大人の考えからだった。
けれど、当時のひかるにそんな仕組みがわかるはずもない。
「おかわりしていい」ということすら知らなかったひかるは、こういうものなのかと黙って受け入れ、空腹を抱えたまま静かに箸を動かした。
◇
2日目の朝。部屋に時計はなかったが、感覚でだいたい朝の7時くらいだと分かった。
身支度を整え名札を付けると、参加している子どもたち全員で朝の散歩へ出かけることになった。
案内された農場は、ひかるが想像していたよりもずっと広大だった。
牛舎:たくさんの大きな牛たちが並び、のんびりと息を吐いている。
鶏舎:1棟につき4つの大きな部屋がある。
ひとつの部屋の中にはたくさんの雌鶏が放し飼いになっていて、雄鶏は3羽ほど。
部屋の隅には箱状の産卵スペースがあり、雌鶏たちが好きな時にやってきて卵を産む。
それを大人が手際よく採卵していた。
豚舎:1棟につき三畳ほどの部屋が左右に5つずつ(計10部屋)並び、そこには愛くるしい子豚が6頭ずついた。
隣の違う棟へ行くと、すっかり大きくなった中位の豚たちが勢いよく餌を食べていた。
およそ1時間半たっぷり歩いて動物たちを見て回った後、手洗いを済ませて食堂(愛和館)へと向かう。
ここでは、1日2食だった。
夕方の食事を「第1食」と言い、午前中10時ごろの食事を「第2食」と呼んでいた。
なぜ夕方の方を「第1食」と言うか、それは、明日の活力とするためお肉やお魚類が多いためだったか。
そして、今から「第2食」の時間。
1つのテーブルに子どもが10人、そして世話係の大人が1人。
昨日の夜と同じだ。
ひかるのテーブルには、20代くらいの優しそうな女性が座った。
テーブルに並んだメニューは、温かいご飯に、丸ごと一本の胡瓜、焼いたウインナー、そしてカボチャとナスとチーズの重ね焼き。
テーブルの真ん中に置かれたおひつから、20代の女性がお茶碗にご飯を装って配っていく。
端から2番目の席に座ったひかるは、周りの動きを伺っていた。
隣に座った子が、要領よく大皿から近くに置いてあったお皿に乗せ、そのまま隣の人へよそったお皿をまわしていく。
どうやら、自分の目の前にあるおかずを近くのお皿に取り分け、隣へと順に回していくのがこの場所のルールのようだった。
言葉で細かく説明されなくても、周りの様子を見て察し、出しゃばらずに流れに乗る。
最初は、戸惑ったが、浮くこともなく静かにそのルールに適応しようと努力した。
食後はみんなで並んで歯磨きをし、1時間ほどのお昼寝時間。
体を休めた後、全員で車座になって座り、午後の作業についての説明を受けた。
「1班と2班はきゅうりの収穫へ行きます。作業着に着替えてね。3班と4班は採卵へ向かいます。同じく作業着に着替えてください」
説明が終わると、それぞれの班に分かれて作業場所へと向かう。
普段の学校生活では体験したことのない、本格的な「作業」の時間が始まろうとしていた。
ひかるの所属する2班は、緑の匂いが立ち込めるビニールハウスへと向かった。
各自、手にプラスチックのカゴを一つずつ抱えている。
「いい? 今日採るきゅうりの基準は『長さ』だよ。この見本のきゅうりの大きさを、しっかり目に焼き付けてね」
世話係の人が掲げた見本のきゅうりを、ひかるは静かに見つめた。
太さといい長さをいい、自分の手のひらよりも一回り大きい。
「作業を始める前に、今日のテーマをみんなで復唱しましょう。『よく見て、よく聞く』!」
「『よく見て、よく聞く』!」
周りの子どもたちと一緒に声を揃える。
「もし長さが微妙で迷ったら、勝手に判断しないで、近くにいる高等部のお兄さんにすぐ聞くこと。いいね?」
ハウスの中は湿気が多く、葉のざらついた匂いが充満していた。
ひかるはカゴを抱え、ツルがどこまでも伸びる緑のトンネルの中へと足を踏み入れ、慎重に葉をかき分けた。
見本と同じくらいの長さのものを探す。
習い事の書道で半紙に手本をじっと見渡す時のように、ひかるの鋭い観察眼が光った。
これかな、と思うきゅうりに手を伸ばすが、あと数センチ足りない気がする。
頭の中でグルグルと考えて迷ってしまうのはいつもの癖だったけれど、ここでは「わからないなら聞く」という明確な指示があった。
「あの……すみません」
意を決して、近くでテキパキと収穫していた高等部のお兄さんに声をかけた。
「これ、採っても大丈夫ですか?」
ひかるが差し出したきゅうりを目線に合わせて覗き込み、高等部の先輩は優しく微笑んだ。
「うん! バッチリだよ。よく見分けられたね、ひかるちゃん」
名前を呼ばれ、自分の観察力が認められた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
学校でのあの冷たい沈黙や、「考えすぎ」と叱られた記憶が、青くフレッシュいきゅうりの香気の中に少しだけ溶けていくようだった。
無心で葉をかき分け、基準にぴったりのきゅうりをカゴに収めていく。
気づけばカゴは緑色の実でずっしりと重くなり、ひかるの額には心地よい汗が滲んでいた。
きゅうりの収穫作業が終わると、ビニールハウスの前の空いたスペースに、2班のメンバーが車座になって腰を下ろした。
汗で張り付いた額の髪を指で払いながら、ひかるも静かに座り込む。
「じゃあ、今日の実学が終わったので、やってみてどうだったかな」
世話係の女性がノートを開き、柔らかく微笑んだ。
「今日は『よく見て、よく聞く』がテーマだったけれど、実際にどうだったか、思ったことや気づいたことを『出し合って』みましょう」
「出し合う」——その言葉を聞いた瞬間、ひかるの胸が小さな痛みを覚えて跳ねた。
家でお母さんが何度も口にしていた言葉。
素直な気持ちを出さなきゃいけないのに、言えば誰かを傷つけてしまうのではないかと、身構えてしまうおなじみのフレーズだった。
「最初に見た見本よりちょっと小さめのを選んじゃって、途中で高等部生に聞いてよかったです!」
「葉っぱの裏に隠れてるのがいて、探すのが面白かった!」
隣の子どもたちが次々と感じたままを口にしていく。
ここでの「出し合う」には、人を攻撃する鋭さも、誰かを責め立てる空気も一切なかった。
ただ思ったことをそのまま言葉にして、それを全員が「うん、うん」と肯定するように頷いて聞いている。
「ひかるちゃんはどうだった?」
優しく名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。
みんなの温かい視線が、一斉にひかるへ向けられる。
(また頭で考えすぎちゃう……でも、思った通りに言っていいのかな)
ひかるは手元に視線を落とし、さっき自分の手で確かめたきゅうりのツルツルとした手触りや、迷ったときにお兄さんがかけてくれた言葉を思い返した。
「……見本の長さをよく見たら、迷わないで採れました。わからないときに聞いたら、高等部のお兄さんが教えてくれて……嬉しかったです」
つっかえながらも最後まで言葉を紡ぐと、世話係の女性は「そっか、よく見てしっかり聞けたんだね。素晴らしいよ」と深く頷いてくれた。
周りの子たちも「ひかるちゃん、採るの早かったもんね」と口々に笑いかける。
頭でぐるぐると考え抜かなくても、自分の気持ちをそのまま言葉にして受け止めてもらえた。
その事実に、ひかるの肩の力がふっと抜けていくのがわかった。
「はい、じゃあ 汗もたくさんかいたし、お風呂にいきましょう!」
「はーい!」という元気な声とともに、子どもたちが一斉に立ち上がる。
夕方の心地よい風が吹く中、ひかるはカゴを片付け、同じ楽園村の仲間たちと並んで浴場へと向かった。
さっきまで胸の奥に仕えいていた重苦しさは消え去り、これから入る温かいお湯のことだけを静かに楽しみにしながら。
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お風呂の湯気に包まれた浴場には、同じ「楽園村」に参加している子どもたちと世話係の姿しかなかった。
地元の学校のクラスメイトも、ひかるを冷たい目で見つめる人も、ここには誰一人としていない。
全員が同じように泥にまみれ、同じ作業着を脱ぎ捨てて、ひとつの大きな湯船に身を沈めている。
温かいお湯に体を沈めると、きゅうりの葉で少しチクチクしていた腕のチリチリとした痛みが、じわじわと和らいでいった。
「ひかるちゃん、今日何本くらい採れた?」
「ひかるちゃん、手際よかったよね。高等部のお兄さんにも褒められてたでしょ」
湯気の向こうから、同じ班の仲間たちが気さくに声をかけてくる。
学校での「あいつ」呼ばわりも、居場所のない静かな罰も、ここでは存在しない。
ただ、同じように汗を流した体を等しく温める湯船と、同じ時間を過ごした仲間たちがいるだけだった。
「……うん、いっぱい採れたよ」
ひかるは小さく微笑みながら答え、お湯を両手ですくった。
自分を排斥するものが誰もいない空間の居心地の良さに、心の底からホッと息が漏れた。
◇
18時。さっぱりとした体で向かった愛和館は、昼間よりもいっそう熱気に満ちていた。
「いただきます!」
響き渡る声とともに始まった第1食。
テーブルには、自分たちが今日収穫したばかりのみずみずしいきゅうりを使った料理や、大皿に盛られた温かいおかずが並んでいる。
ひかるはお腹が空いているのを感じながら、周りの動きに合わせて手際よくお皿におかずを取り分けた。
1日目の夜とは違ってルールもわかり、おどおどすることなくスムーズにお皿を隣へ回すことができる。
「ひかるちゃん、きゅうり美味しいね」
20代の世話係の女性が優しく微笑みかけてくれた。
ひかるは小さく頷き、自分が収穫したかもしれないパリッとしたきゅうりを口に運んだ。
学校では自分の性格を責められ、家では母の期待に応えられずに傷ついていたひかる。
けれど、この同じ楽園村の仲間だけに囲まれた温かい空間の中で、ひかるの心は、少しずつ解きほぐされていくようだった。




