朝の光と芽生える不穏
7月の終わりから8月末までの約1ヶ月間、学校は夏休みに入った。
ひかるが通う学校からバスで40分ほど揺られたところにある隣の市は、海沿いに広がるちょっとしたリゾート地だった。
沿道には南国風のヤシの木が立ち並び、海岸線沿いには数件のリゾートホテルが建っている。
誰もが知る大観光地というほどではないものの、夏になれば都会から羽を伸ばしにやってくる客で普段よりずっと賑わっていた。
ひかるは夏休みの期間中、勉強の時間をしっかり確保しつつ、生活費や将来の足しにするため、その隣の市にあるホテルでのアルバイトに応募してみた。
1日4〜5時間程度で働ける客室の清掃係として、無事に採用が決まった。
初日、制服を渡されたひかるは、手元に1着しかないことに気づいて担当者に尋ねた。
「あの、制服の洗い替えはどうしたらいいですか?」
「みんな1着しか渡してないから、毎日帰ってから洗って乾かして着てね」
あっけらかんと言われ、ひかるは「そうなんだ」と納得した。
仕事は毎朝7時から始まり、お昼頃には終わるシフトだった。
客室清掃の仕事で最も神経を使うのはベッドメイクだった。
シワひとつなくシーツを張り、毛布とカバーを美しく巻き込む作業は、見た目以上にコツが必要だった。
慣れない最初の頃は先輩スタッフから「ちょっとシワが残ってる」「畳み方が雑だよ」と指導を受けることも多かったが、教えられた手順を忠実に守り、毎朝何部屋もこなしていくうちに、指先が自然と動きを覚えていった。
夏休みが終わる頃には、先輩から「ひかるちゃん、ベッドメイクすごく綺麗にできるようになってるじゃない!」と褒められるまでになり、その言葉が胸にしみるほど嬉しかった。
作業に汗を流しながらふと気づいたのは、自分の「朝の起きられなさ」が完全に克服されていたことだった。
学園にいた頃のひかるは、朝起きるのがとにかく苦手で、朝起きられないことを理由に責められたり、「意志が弱い」「サボっている」と詰られたりすることが日常茶飯事だった。
しかし、外の世界に出て一人暮らしを始めてから、朝食をきちんと毎日食べるようになると、自然と排便のリズムが整い、朝もすっきりと目が覚めるようになっていたのだ。
村の「1日2食」という食生活のルールが、ただ単にひかるの体質に全く合っていなかっただけだった。
(あんなに長年苦しんで、自分がダメな人間なんだと思い込まされていた悩みが、朝ごはんを食べるだけで解決しちゃうなんて……)
自分の体が欠陥品だったわけではなく、単に環境が合っていなかっただけなのだと分かり、拍子抜けすると同時に深い驚きを覚えた。
ホテルのアルバイトの現場には、他県からリゾートバイトとして住み込みで働きに来ている同年代の若者たちもいた。
彼らの背景は実に様々だった。
難関大学に合格したものの遊ぶのが楽しすぎて6年も大学に在籍している人、大学を休学して全国をワーキングホリデーのように旅しながら働いている人、将来の留学費用を貯めるために汗を流している人、そしてひかると同じように学生生活を送りながら少しでも将来に備えるためにバイトをする人――。
誰もが自分のペースで、それぞれの目的や人生の形を持ってそこに集まっていた。
外の世界にはこんなにも多様な生き方や価値観が存在するのだと知るだけで、ひかるの視野は少しずつ広がっていく気がした。
賑やかな彼らは仕事が終わった夜になると、スタッフ用のスペースなどに集まり、頻繁に飲み会を開いていた。
ひかるも同年代との付き合いとして2、3回ほど顔を出してみた。
けれど、ひかるはお酒を飲むとすぐに気分が悪くなってしまう体質だった。
まわりが酒を汲み交わし、テンション高く盛り上がる中で、しらふのまま輪に混ざっているのはどこか居心地が悪かった。
(みんな、何がそんなに楽しくて笑ってるんだろう……。何をおしゃべりすればいいのかな……)
彼らのノリや会話の輪にうまく入れず、自分にはこういう場所があまり楽しく感じられないのだと気づいた。
無理をしてまで参加する必要はないと悟り、それ以降は誘われても断り、自分のペースを守るようになった。
夜の集まりに行かなくなった分、ひかるは自室で机に向かった。
夏休み中であっても、専門学校の課題やプログラミングの復習、パソコンの勉強は1日も欠かさず続けた。
朝はバスで隣の市へ向かい、清掃作業で身体を動かして汗を流し、午後は涼しい自室で黙々と知識を吸収する。
自分の生活と時間を自分でコントロールできている確かな実感があり、確かに自分の足で歩めているという強い手応えを感じる日もあった。
――しかし、そんな充実した夏休みが明け、専門学校でのいつもの学校生活が再び始まったある日のことだった。
講堂に集まった生徒たちのざわめき、教員の形式的な指示、そして集団の中で整列させられる独特の空気感。
何気ない日常の1コマであったはずのその光景を目にした瞬間、ひかるの胸の奥で、カチリと不吉なスイッチが入った。
脳裏に突然蘇ってきたのは、あの学園での息苦しい集団生活の記憶だった。
研鑽会の重苦しい空気、何をするにも他人の目を気にしなければならなかった逃げ場のない日々、自我を挫かれ責め立てられたあの冷たい和室の記憶――忘れたはずの過去の泥のような感情が、暗い記憶の底から一気に噴き出し、喉の奥を突き上げてきた。
(なんで……急にこんなことを思い出してしまうんだろう……)
さっきまでの手応えや自信が、まるで足元から崩れ去っていくかのような強い嫌悪感と不安がひかるを襲った。
せっかく手に入れたはずの平穏な日常のすぐ隣に、過去の影が今もなお濃くへばりついていることに気づかされ、ひかるは激しい動悸を覚えながら、ただじっと自分の手元を見つめることしかできなかった。




