言葉の往復
「今日ね……すごく楽しかったよ」
リビングの食卓で、ひかるがぽつりと言った言葉に、母親は包丁を止めてゆっくりと振り返った。
ひかるの口からそんな前向きな言葉を聞くのは、村から帰ってきて以来、初めてのことだった。
部屋に引きこもり、布団の中で一日を押し潰すように過ごしていた数ヶ月間の暗い表情が嘘のように、ひかるの瞳にはかすかな温度が宿っていた。
「久しぶりに学園の友達と会ってね。繁華街の喫茶店でパフェとコーヒー頼んで、いろいろ話したの。携帯の料金とか仕事の苦労とか……あの子も外で生きるの大変みたいだけど、また今度、他の友達も誘ってみんなで会おうねって言ってくれて」
注文したパフェの見た目や美味しかったこと、友達の少し派手になった姿への戸惑いや心配、それでも共有できた時間の心地よさを、ひかるはひとつひとつ丁寧に母親に伝えた。
母親は穏やかな笑みを浮かべ、「そう、良かったわね……」と温かく頷きながら、ひかるの言葉に耳を傾けていた。
一通り今日の出来事を話し終えると、部屋の中に心地よい静けさが漂った。
ひかるはテーブルの上で自分の指先を少しこねるように動かし、胸の奥で温めていた本題を切り出す決意をした。
「お母さん……私、これからの進路のことなんだけど」
ひかるの声が少し引き締まったのを察して、母親も正面の椅子に腰を下ろした。
「スーパーのバイトは上手くいかなかったけど、やっぱり少しでも働いてお金を貯めて、大検を受けたいと思ってるの。でも、世間のこと全然分からないし……中卒のままじゃ働ける場所も限られてるし、どうやって進んでいけばいいのか、迷っていて」
村での挫折、スーパーでの不採用や失敗を経て、外の世界で一人立ちしていくことへの不安と焦りを、ひかるは素直に母親に打ち明けた。
自分なりに道を模索しようとするひかるの真剣な相談だった。
しかし、母親から返ってきた言葉は、ひかるが想像していたような「一緒に考えよう」という具体的な助言でも、親らしい寄り添いでもなかった。
母親は少し困ったような、どこか他人事のような柔らかい苦笑いを浮かべながら、静かに口を開いた。
「そういうことはね……同い年の子たちに相談してみたらどうかしら? 今日会ったお友達みたいにね、同じような年齢で、同じように外の世界に出てがんばっている子たちに話してみるのが一番だと思うのよ。同い年の子なら、ひかるの気持ちもよく分かるでしょう?」
母親の言葉に、ひかるは一瞬言葉を失ったが、今回はそのまま引き下がるわけにはいかなかった。
食い下がるようにして声を張った。
「確かに同い年の子の方が話しやすいのはあるよ。でも……大人として相談には乗ってくれないの? 私、どうやって勉強したら良いのかすら分からないんだよ?」
苦し紛れの問い詰めに、母親は一瞬戸惑ったような顔を見せたが、やがて思いついたように言った。
「そうね……じゃあ、近所にこの前高校を卒業した子がいるから、その子に聞いてみるわ。使った後の教科書が残っていればもらえるかもしれないし、近所の人に聞いてみるね」
その場しのぎのような母親の提案に、ひかるはそれ以上何も言えなくなった。
母親は口ではひかるの進路を気遣う素振りをみせつつも、本心ではひかるが再び村へ戻ることをどこかで期待しているのかもしなくもない――ひかるはそんな予感を拭えずにいた。
というのも、この地域に住むカワギシの会員たちは、月に一度のペースで定期的に「研鑽会」を行っていたからだ。
そしてその会場として、時折ひかるの実家のリビングが使われることがあった。
ひかる自身はもうカワギシとは距離を置き、関係を絶ちたいと切実に願っていたが、親たちは今なおその思想に熱中し、熱心に活動を続けていた。
家族の中に漂うその温度差が、ひかるにはたまらなく重苦しかった。
スーパーのバイトを辞めて暇になったひかるは、現実から逃げるように時々近所の図書館へ通うようになった。
静かな閲覧室で本を開き、活字を追う時間だけが、複雑な思いから心を解放してくれた。
そして、また元学園生の子たちと会う日が出訪れた。
今回の集まりには、前回会った友達に加え、去年見事に大検(高等学校卒業程度認定試験)に合格し、今は大学の受験勉強をしているという別の元学園生の子もやってきていた。
喫茶店で席につくと、大検に合格したというその子は、どこか誇らしげな表情で語り始めた。
「大検ってね、全体の6割くらい答えがあっていたら合格できるんだよ。でも、受ける教科がたくさんあるから、そこが本当に大変だったかな」
ひかるが興味深そうに耳を傾けていると、その子はさらに続けた。
「私は大検受験のために予備校に通っていたし、今も大学受験のためにそこに通ってるの。次は◯◯大学を受験するために頑張ってるんだけど……正直、ストレスがすごくて」
「へえ、予備校……」
「ひかるちゃんって何にも知らないんだね」
「予備校には模擬試験があるから、それを何回も受けると良いよ」
「試験が終わるたびに、成績順に席が変わって、私、やっと前列になれたんだよ」
「すごいね、頑張ったね」
「うん。ありがとう。でも、ひかるちゃんは、私が勉強している時、何してたの?」
「他の受験生に負けないよう、私、もっと頑張らないといけないの」
具体的なアドバイスを教えてくれたものの、その子の口調や視線には、どこかひかるを侮るような冷ややかさが混ざっていた。
進路に対してまだ具体的になれず、どこかのんびりとしているひかるの態度に対して、イラつくような素振りを見せたのだ。
(この子、すごく競争心を持ってるんだな……)
ひかるはそのトゲのある視線の理由を、静かに悟っていた。
世間一般の大学受験は、「受験戦争」と形容されるほどの激しい苛烈さを極めている。
高校を卒業した18歳から20歳くらいの年齢までに希望の大学へ合格できなければ、社会人になるにしてもストレートで現役合格した人に対して圧倒的な遅れをとってしまう。
一発で現役合格した者は「優秀で勝ち組」と称賛され、浪人した者はどこか「劣った人間」という暗黙のレッテルを世間から貼られてしまうのだ。
その歪んだ重圧とストレスの中にいるからこそ、彼女の言葉にはそれほどまでの鋭さが刺さっていたのだろう。
一度正規のレールや「正解」の道から外れてしまった人間に対して、社会は暗黙の了解で「劣った人」という不名誉なレッテルを貼る。
そしてその冷酷さは、外の世界に限った話ではなかった。
ひかるが身を置いていた学園の中でも、まったく同じ構造が存在していたのだ。
学園の集団生活に馴染めず、やっていけなくなった子どもは、途中で親元へと送り返される。
親が一般地域にいる子の場合はその実家に戻されるのだが、同世代の周囲が当たり前のように高校へ通う中で、自分ひとりだけが世間から取り残されたような深い孤立感を味わうことになる。
一方、親が村に住んでいる子の場合は、その親が暮らす実顕地へと移動させられ、「実習生」という曖昧な立場で生活することになる。
しかしその「実習生」という存在もまた、学園の輪にいられなくなった子=「問題児」という陰湿な偏見の目で見られるのが常だった。
親が地域にいようと村にいようと、レールから外れた子どもに貼られるレッテルと居心地の悪さは変わらない。
どちらにせよ、居場所を失った子どもにとっては、あまりに過酷でよくない環境だった。
学園という特殊な閉鎖社会でも、外の世界の受験戦争という現実でも、人間は常に「道を踏み外した者」を淘汰し、優劣で評価しようとする。
学園という共通の背景から抜け出してきたはずの目の前の子ですら、自分を守るために必死で「格差」を作り出そうとしている。
その刺々しい競争意識と冷ややかな眼差しを感じながら、ひかるの心には、追いつけない焦りと逃れられない世間の冷たさが、深く重くのしかかっていくのだった。




