一般社会の作法とかすかな繋がり
スーパーでの初出勤の日、ひかるは指定された通りにバックヤードの事務所へ向かった。
部屋に入ると、面接をしてくれた店長が立ち上がり、「よろしくお願いします」とまっすぐひかるの目を見て頭を下げた。
ひかるはその言葉に、一瞬どう反応していいか分からず固まってしまった。
村にいた頃、挨拶という行為が重要視された記憶はほとんどなかった。
「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」といった言葉は、親や大人から「きちんと言いなさい」と教育された覚えもなかった。
あくまで「言いたければ言えばいい」というスタンスであり、日常の会話の中に自発的な挨拶が組み込まれることは稀だった。
村の中であれば、新しい作業場に入っても大人から「ひかるちゃんっていうのね」「じゃあ、これやってな」と言われてそれで終わりだった。
仕事が終わった時も「お疲れ様」と声を掛け合う習慣はなく、「仕事終わりました」と報告すれば「わかった」と返ってくるだけ。
社会において「よろしくお願いします」という言葉が、人と仕事を開始する際の絶対的な挨拶の作法なのだということすら、ひかるは知らなかったのだ。
立ち尽くすひかるに対し、店長は少し語気を強め、苛立ちを滲ませながらもう一度言った。
「……よろしくお願いします」
(あ、言わなきゃいけないんだ……)
ひかるは焦って「よ、よろしくお願いします」と小声で繰り返した。
こちらの社会では、相手が言った言葉をそのまま復唱すれば何とかなるらしい――この時はそう理解したひかるだったが、挨拶は年下や立場が下の者から先に言うべきなのだという常識を知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
事務所で、エプロンと長靴が支給された。
仕事場で渡された長靴については、一人ひとり足のサイズが全く違っていたため、ひかるが使うべき一足は最初から明確に決まっていた。
だが、エプロンの方は違った。布地には誰の名前も書かれておらず、サイズも一律に見えたため、ひかるにはそれが「自分専用のもの」なのか、それとも「職場で共用しているもの」なのか区別がつかなかった。
村の生活では、作業用のエプロンや道具には名前など書かれておらず、共有の棚に置かれたものを誰でも自由に使うのが当たり前だった。
だからこそ、名前の書かれていないエプロンを見て「ここでも共用なんだ」と完全に勘違いしてしまったのだ。
そのため別の出勤日、自分のエプロンが見当たらなかったひかるは、深く考えずに近くにあった先輩のエプロンを借りて身につけようとした。
「ちょっと! 何やってるの? それ私のエプロンなんだけど!」
先輩の厳しい叱責が飛び、ひかるは「すみません」と縮こまった。
名前が書いていないから共用だと思い込んでいたこと、そして共有するのが当たり前だった共同体の感覚と、個人管理が徹底されている外の世界のルールの違いに、ひかるは足元がぐらつくような思いがした。
しかも、その職場にはひかると同い年の仲間はおらず、周りは全員年上の先輩やパートの大人たちばかりだった。
同世代の気安さもなく、ただでさえ緊張する環境の中で、外の世界の「当たり前」が分からない孤立感がひかるに強く重くのしかかった。
実際の作業が始まると、覚えなければならない業務の波が押し寄せてきた。
たとえば鮮魚コーナーでは、ボウルに入った貝をタオルで一刺しずつ丁寧に拭いて水分を取り、手際よくパックに詰める。
それが終われば、次は作業台のトレーに乗っている切り身の鮮魚のパック詰めに取りかかる。
一通り先輩から教えてもらい、ひかるも必死にメモを取った。
だが、カワギシでも作業を休みがちであったため、作業を覚えるのが下手だった。
ひかるは、日々の定常作業とイベント時の作業の区別がどうしても頭の中で整理できなかった。
特売日などのイベント時には「今日はこちらの商品を優先して出す」といった変形ルールが加わる。
全体像が掴めないまま、目の前の作業だけに追われる毎日が続いた。
年上の職場の人たちも「やりながら覚えていって」というスタンスだったため、分からないことがあればその都度質問はしたものの、(本当にこれで合っているのだろうか……)という不確実な不安が、作業中ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた。
緊張と戸惑いに耐えながら頑張って出勤を続けていたが、結局、3ヶ月ほど経った頃にひかるはそのスーパーを辞めてしまった。
仕事の難しさだけでなく、職場の人々の「視線」も耐え難いものだった。
どうやらひかるの経歴について噂が回っていたらしく、休憩室などで「ひかるちゃんって、カワギシという場所にいたんでしょ? 大変だったんじゃないの?」と、好奇の眼差しで尋ねてくる人がいたからだ。
哀れみと野次馬根性が混ざり合ったその視線に晒されるたび、ひかるの心はすり減り、そこに居続けることが苦痛になっていったのだった。
スーパーのアルバイトを辞めたあと、ひかるは同じように学園を出て一般社会で暮らしている元学園生の子と連絡を取り、1日遊ぶことになった。
その子は高等部を卒業したあと、村には残らずに実家へ帰った子だった。
約束の場所に現れた彼女の姿を見て、ひかるは少し息を呑んだ。
学園にいた頃の素朴な面影は薄れ、髪は明るい茶髪に染められ、耳にはピアスが開いていて、どこか洗練された派手な雰囲気を纏っていた。
2人は賑やかな繁華街にある落ち着いた喫茶店に入り、パフェとコーヒーを注文した。
運ばれてきた甘いパフェをスプーンですくいながら、彼女は今の暮らしについて近況を語り始めた。
「今はね、物流センターでピッキングのバイトをしてるんだ。でもさ、携帯の料金払うだけでも本当に大変で……。やっぱり高校行ってないから、中卒だと働ける場所がすごく少ないんだよね。親とも全然仲良くなくてさ」
彼女の口から漏れ出る言葉は、どれも外の世界で生きる厳しさを物語っていた。
さらに彼女は「マッチングサイトで友達を募集して、知らない人と会ったりもしているんだ」と笑いながら話した。
ひかるは(そんな危険なことをして大丈夫なのだろうか)と、密かに彼女のことが心配になった。
それでも、学園という特殊な環境を共有し、外の世界の生きづらさを同じように抱えている彼女との会話は、ひかるの心をふっと軽やかにしてくれた。
パフェの冷たい甘さと香ばしいコーヒーの味覚が、傷ついた心にじわりと沁み渡っていく。
「今日、久しぶりに会えて楽しかった。また会おうね」
ひかるがそう言うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「うん、絶対会おう! じゃあ今度会う時は、あの子も誘ってみるね」
学園時代に一緒だった共通の知人の名前を挙げ、彼女は明るく微笑んだ。ただ逃げ帰って引きこもっていただけのひかるの日々に、ほんの少しだけ「次の楽しみ」という光が差し込んだ瞬間だった。
夕方、久しぶりに晴れやかな気持ちで家に帰ったひかるは、リビングにいた母親の元へ向かった。
「お母さん、今日ね……すごく楽しかったよ」
頼んだパフェが美味しかったこと、久しぶりに友達とたくさん話ができたこと。
ひかるの口から自然とこぼれ落ちた明るい報告を、母親は静かな笑顔で受け止めていた。
外の世界に出て初めて感じた小さな温もりが、ひかるの胸の中で静かに灯っていた。




