世間の風と剥ぎ取られた記号
実家のリビングの隅に、一冊の本が置かれていた。
カワギシ学園親の会が編纂したその書籍には、学園の理念や教育がいかに素晴らしく、子どもたちを健全に育んでいるかが美辞麗句で綴られていた。
本のページをめくると、学園を卒業して社会や村へ出発していった子どもたちの姿が、誇らしげに描かれている。
彼らは誰もが明るく素直で、文句ひとつ言わずに仕事に打ち込み、どんな場所へ行っても重宝される素晴らしい人間へと成長する――そうした肯定的で理想に満ちた記述ばかりが並んでいた。
ひかるの親たちは、この本を心の底から信じ切っていた。
自分たちの子どもが学園で理想的な教育を受け、素晴らしい人間に育っているのだと、何一つ疑うことなく自信満々な様子だった。
しかし、当事者であるひかる本人が感じていた現実は、その本に書かれている理想像とはあまりにもかけ離れていた。
学園を出たからといって、自分の性格が前向きで素直な人間に生まれ変わったわけでは決してなかった。
むしろ逆だった。集団生活の中で頻繁に起きる盗難事件に怯え、仲の良かった子もいたが、「なんでも言い合える仲間」というスローガンのもと、容赦ないきつい言葉を投げかけてくる村の子たちとの揉み合いに晒され続ける中で、ひかるの心はすり減り、性格は以前よりも尖り、キツくなっているとさえ感じていた。
自分の内側に残ったのは「素直さ」などではなく、人間に対する不信感と強い警戒心、そしてどこへ行っても馴染めないという敗北感だけだった。
本に書かれた理想の子ども像と、傷だらけで戻ってきた自分自身との間にあるあまりにも大きなズレに、ひかるは深い虚しさを抱くしかなかった。
村から逃げるように実家へ帰ってきた直後、ひかるは完全に気力を失っていた。
何をしようという意欲も湧かず、ただ部屋の中で時間を押し潰すように過ごした。
朝が来ればぼんやりと起き上がり、家族の用意した食事を口にして、また布団の中に潜り込む。
寝て、起きて、食べる――ただそれだけの生気のない日常を、来る日も来る日も繰り返していた。
暗い室内で天井を見つめていると、研鑽会で投げかけられた鋭い批判や、研修生の宿舎で感じた息苦しさが蘇り、胸を圧迫した。
そんな無気力な生活が数ヶ月ほど過ぎた頃、ひかるは切実な問題に直面した。
手元には、自由に使える小遣いが一銭もなかったのだ。
学園や村での生活では現金を扱う機会がほとんどなく、実家に戻っても自分で自由に使えるお金がないという現実は、ひかるの行動を完全に縛り付けていた。
いつまでも親の庇護のもとで無気力に寝ているわけにはいかない。
世間の仕組みも、社会の常識も何一つ分からない状態だったが、ひかるは「自分で働いてお金を稼がなければ」という焦りに背中を押されるようになった。
これから先、かつて諦めかけた学業を再開するにしても、大検を目指すにしても資金が必要になる。
まずは家から近い場所で、自分にできそうなバイトを探すことにした。
最初に面接を受けたのは、家からほど近い場所にある小さなラーメン屋だった。
募集されていたのは皿洗いや雑用の仕事だった。
社会経験の全くないひかるは、緊張でガチガチになりながら店主の前に座った。
選考の中で自分なりに精一杯の不器用な誠意のつもりで、正直にこう切り出した。
「私は……あまり人と関わることが苦手だと思うのですが、皿洗いや裏方の雑用をしっかりやって、お店の役に立ちたいと思っています。これから学業のことなども考えているので、そのための資金にしたいんです」
自分の苦手な部分をあらかじめ伝え、それでも懸命に働きたいという意思を示したつもりだった。
だが、店主はひかるの言葉を聞くと、呆れたように小さく首を振った。
「うーん……いくら裏方でもね、人と関わるのが苦手だっていう人は、うちじゃちょっと困るな。お店の役に立つ以前の問題だよ」
店主のあっさりとした拒絶の言葉に、ひかるは一言も返せなかった。
結果は言うまでもなく不採用だった。
世間では「人と関わるのが苦手」と口にすること自体が、働く資格がないと判定されることなのだと、ひかるは冷や水を浴びせられたような衝撃を受けた。
落ち込んでいる暇はなく、次にひかるは大手外食チェーン店のアルバイト面接へと向かった。
接客も含めた店舗スタッフの面接だったが、前回よりもさらに重苦しい空気が漂っていた。
面接官を担当した店長は、ひかるのぼそぼそとした話し方に終始不満そうな表情を浮かべていた。
「君、ちょっと声が小さすぎるよ。それとね、今回の募集には君の他に3人も応募があってね。接客業だから、明るくハキハキ話せる他の人の方がいいかなって思っちゃうんだよね」
明確な難色を示されたあと、店長は手元の履歴書に目を落としながら気怠そうに尋ねてきた。
「で、ここに来る前は、あなたは何をやっていたの?」
ひかるは一瞬言葉に詰まったが、正直に答えるしかないと思い、口を開いた。
「……カワギシという場所にいて、野菜の加工や、畑での作業をしていました」
その名前を聞いた瞬間、店長の目の色が露骨に変わった。眉をひそめ、探るような、どこか気味の悪いものを見るような視線をひかるに向けてきた。
「カワギシ?……あそこって確か、何年か前のテレビで『変な宗教みたいな場所』って紹介されていたところじゃない? 変な指導者がいて集団生活させてるっていう……大丈夫なの、君?」
当時のテレビのワイドショーなどでは、ひかるが学園を離れて外の世界に出てくる数年ほど前、そうした共同体に関する特集が大々的に放送されていたらしかった。
その後も再放送や追跡番組などが定期的に流れていたようで、世間の人々の記憶には今なお「洗脳施設やカルト的な宗教施設、怪しげな指導者がいる危険な場所」というネガティブなイメージがくっきりと残っていたのだ。
一応は農業法人として活動していた場所であったにもかかわらず、世間の認識は異様な集団生活を行う怪しい組織そのものだった。
ひかるは何も言い返せず、ただ俯くことしかできなかった。
後日、当然のように不採用の連絡が届いた。
学園や村で過ごした自分の過去そのものが、世間からは「関わってはいけない異常な履歴」として排除されるのだという事実は、ひかるの胸に重く突き刺さった。
二度の連続した不採用を経て、ひかるは痛感していた。
自分の正直さや過去の生真面目な開示は、世間では何の武器にもならず、むしろ足枷にしかならないのだと。
三度目に面接に向かったのは、近所にあるスーパーマーケットの食品売り場のパート・アルバイトの仕事だった。
ひかるはこれまでの失敗を頭の中で反芻し、対策を練っていた。
「人と接することが苦手」などというネガティブな本音は絶対に口にしないこと。
そして、世間を騒がせている「カワギシ」という具体的な固有の名称は完全に封印すること。
面接室でスーパーの店長と対峙した際、ひかるは努めて普通を装い、声のトーンを意識して上げた。
案の定、店長から「今まで何をしていたの?」と経歴について尋ねられた。
ひかるはあらかじめ準備していた言葉を、静かに口にした。
「自給自足にて暮らしている村で生活していました」
「カワギシ」という名は一切出さず、単なる地方の田舎暮らしであるかのようにぼかしたのだ。
すると店長は身を乗り出し、興味深そうに問いかけてきた。
「へえ、自給自足の村? 具体的にはどんなことをやっていたの?」
「野菜の出荷作業や、食品の加工、あとは畑での農作業などをしていました」
作業内容そのものは嘘をつかず、事実だけを淡々と伝えた。
店長はひかるの顔を見つめ、ふっと笑いながら言った。
「なるほどねえ。ちょっと変わった子だね」
その言葉には、前の外食チェーン店の店長にあったような警戒感や蔑みの色は一切なかった。
ただ単に「珍しい経験をしてきた若者」として受け止めてくれているようだった。
後日、自宅の電話が鳴った。スーパーの店長からの、採用を知らせる連絡だった。
受話器を置いたひかるの胸に込み上げてきたのは、採用された喜びよりも、どこか冷めた自嘲の念だった。
本当の自分を隠し、過去の名称を偽り、世間が受け入れやすい形に自分を切り貼りすることでしか、この社会に足を踏み入れることすらできない。
しかし、ともかくとしてひかるは、世間の冷たい風が吹き荒れる外の世界で、自分の力で生きていくための小さな、最初の一歩を踏み出すことになったのだった。




