解かれたカラクリ静かな諦絶
引き戸にしがみつくようにして静かに閉め、畳の上に腰を下ろしたひかるの正面で、世話係の女性が静かにこちらを見つめていた。
和室特有のイグサの匂いと、静まり返った室内を包む緊張感が、ひかるの身体をこわばらせる。
「『研修生』になる……本気でそう決めたの?」
世話係の問いかけは、ひかるを責め立てるような強さではなく、どこかひかるの真意を慎重に探るような落ち着いたトーンだった。
ひかるは膝の上で固く握りしめた自分の指先を見つめたまま、小さく首を縦に振った。
世話係は深く息を吐き出すと、手元の書類から目を離し、ひかるの顔をまっすぐに見つめ直して言った。
「ひかるちゃんは……大検を受けたいって言っていたよね。本当にそれでいいの?」
その言葉が落ちた瞬間、ひかるの胸の奥がちくりと痛んだ。
学園の外の世界へ出て、普通の人たちと同じように大学を目指すための資格――「大検(高等学校卒業程度認定試験)」を受けたいと、かつて自分の中でささやかな希望として温めていた言葉だった。
自分の力で勉強し、この閉じられた世界からいつか羽ばたくための小さな足がかり。
それを自分自身の手で捨てようとしているのだと、改めて突きつけられた気がした。
静まり返った和室に、世話係の静かな声が淡々と響き渡る。
「ひかるちゃん、研鑽学校っていうのはね……すごく特殊な場所なの」
世話係の口から出た言葉は、ひかるが研鑽会の最中にうっすらと肌で感じながらも、恐ろしくて言葉にすることができなかったカラクリそのものだった。
「前半の日程で、参加者の自我を一度木端微塵に壊すの。周りの参加者からひどい言葉を投げかけられて、作業を休んだことをサボりだとか意志が弱いだとか責め立てられて、逃げ場をなくしていく。『自分は何もできない、ちっぽけでダメな人間なんだ』って、心の底から思い込ませるために作られた仕組みなの」
畳の目を渡る薄暗い光の中で、世話係は包み隠さず事実を突きつけるように続けた。
「自分一人では何もできないと思い知らされたあとに、みんなで暮らせば解放された気持ちになる、カワギシのような共同体へ取り込んでいく……それこそが研鑽学校の本当の狙いなの。」
「あそこで出会った養鶏の村人さんが優しかったのも、全部その一環よ。最初に極限まで辛い思いをさせて、心も体もボロボロに傷ついたところで、あとから優しい態度や言葉や包み込む。そうやって安心させて、ここしか生きる場所がないと思い込ませて逃げ場を失わせる方法があるの。ひかるちゃん……本当に、それで良いの?」
世話係の言葉は、冷たく透き通っていた。
研鑽会のあの30畳の和室で照らし出された蛍光灯の眩しさ、畳の上で泣きじゃくった自分の屈辱と情けなさ、そして愛和館で食べた温かい食事と村人の優しい笑顔――そのすべてが、村を好印象づける「方法」として白日のもとに晒されていた。
自分の弱さも、救われたと感じた安堵感も、すべて誰かの手の上で踊らされていた結果に過ぎなかったのかもしれない。
自分が自分の意思で選んだと思っていた「委ねる」という救いすらも、仕組まれた劇のシナリオ通りだったのではないか。
部屋の中に、逃げ場のない重苦しい沈黙が降り積もっていく。
ひかるは顔を上げることができなかった。
ただじっと、座布団のすぐ先にある畳の青く乾いた網目を見つめ続けていた。
畳の目の規則正しい網目が、視界のなかで少しずつぼやけていく。
世話係の言っていることは、頭では正論だと分かっていた。
自分は巧妙に自我を挫かれ、この共同体に依存するように導かれただけなのかもしれない。
大検を受けて外の世界へ飛び出す勇気を失わされ、甘い保護のもとへ逃げ込もうとしているだけなのかもしれない。
けれど――。
ひかるは乾いた唇をかすかに震わせ、ゆっくりと、諦めと自嘲が混ざり合った声を絞り出した。
「私は……何もできない人間なので……本当に、この村でしかやっていけないように思うんです」
畳の目を指先でなぞりたくなるのを必死で堪えながら、途切れ途切れに言葉を繋いだ。
「……研鑽学校に行って、そう……今は思い込まされているだけなのかもしれません」
その声には、怒りも、取り乱した様子もなかった。ただ、深い徒労感と、外の世界へ踏み出すことへの決定的な恐怖だけが漂っていた。
たとえそれが仕組まれた罠であろうと、からくりであろうと、自分自身に外の世界で独り立ちしていく力がないという感覚はあまりにもリアルで重かった。
1から他者と競い合い、自分の足で立っていかなければならない外の社会に飛び込む恐怖に比べれば、自我を放棄して共同体に身を委ね、与えられた役割をこなして生きていく道の方が、どれほど歪であったとしても「安全な避難所」に見えてしまったのだ。
「思い込まされているだけ」と頭の片隅で分かっていながら、その温かな諦極の中に留まることを選んだひかるは、そのまま「研修生」としての道を歩み始めることになった。
3月の終わり頃、学園の卒業式――「出発式」と呼ばれる式典が行われた。
講堂にはどこか張り詰めた空気が漂い、生徒たちは各自いつもとは違う慣れないスーツ姿に身を包んで整列していた。
会場の最後列には、遠方から見にやってきていた親たちの姿もあった。
厳しい表情で見守る親、どこか寂しげに目を細める親――その視線を背中に受けながら、ひかるは卒業式に出席し、学園生活に別れを告げた。
式が終わると同時に、荷物をまとめて研修生の宿舎へと移動した。
しかし、そこで始まった暮らしは、思い描いていたような「村人としての新しい生活」とは程遠いものだった。
日々のスケジュールや厳格な規律は学園時代と何一つ変わらず、ただ毎日が同じことの繰り返しだった。
早朝の起床、決められた作業、愛和館での食事。
生活の枠組みは学園のそれと違わず、村人になったという実感など微塵も湧かなかった。
相変わらず学園生活をそのまま延長して過ごしているかのようだった。
「研修生」という立場でありながら、自由な時間などどこにも存在しなかった。
自由に外の街へ遊びに行ったりするようなことも許されず、ただひたすら朝から夕方まで現場で働き続ける日々が続いた。
(これじゃあ……相変わらず学園生活を続けているのと変わらない……)
ひかるは相変わらず体調を崩しがちで、周囲の環境や作業にどうしても馴染めずにいた。
朝起き上がろうとしても体が鉛のように重く、周囲の研修生や村人たちの輪の中で、自分だけが浮いている感覚が消えなかった。
心も体も擦り減っていく中で、研修生になってから3ヶ月が過ぎた頃、ひかるの心の中で繋ぎ止められていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
学園と同じ生活をただ繰り返しているだけで、自分がこの村にいる意味がどうしても分からなくなってしまったのだ。
「委ねて生きていけば救われる」というあの甘い言葉も、日々の作業の中で消え去っていた。
ひかるは意を決して研修生の世話係の元へ向かい、「地域に帰る」という選択を伝えた。
引き止められる言葉を背に、逃げるように村を離れ、そのまま実家へと帰っていった。
久しぶりに戻った実家の自分の部屋。その天井を見上げながらひかるを包んだのは、解放感ではなく重く湿った陰鬱さだった。
学園や研鑽学校での日々を乗り越えたという達成感など、どこを探してもなかった。
ただ途中で投げ出し、惨めに逃げ帰ってきたという感覚だけが残った。
(私は結局、何ひとつやり遂げられなかった。中途半端)
学園にも馴染めず、研鑽学校の仕組まれた優しさに縋りつき、最後は村からも逃げ出した自分。
強烈な劣等感が容赦なくひかるの胸を締め付けた。
自分はなんてバカなんだろう、と愚かな自分を責める暗い感情だけが、虚しく心の中に渦巻いていた。




