照らし出される自我と、畳の上の沈黙
「手放せないものを、どうしたら手放せるか」
この問いの先にあるのは、より深い内省と自我の解体だった。
カワギシの思想において、人間が何かに執着し、「これだけは絶対に譲れない」と抱え込む「我」こそが、すべての苦しみや対立を生む元凶とされていた。
手放せないものを脱ぎ捨てる作業――それは一見すると、あらゆる執着から解き放たれ、自由で穏やかな心を手に入れるための美しい道筋のように提示されている。
だが、車座の中に座りながら、ひかるの胸にはぬぐい去れない違和感と恐怖が深く居座り続けていた。
(手放せないものを手放す……それって本当に自由になることなのかな? 自分が自分でなくなってしまうんじゃないの?)
人間が大切に抱えているこだわりや、割り切れない怒り、譲れない感情。
そうしたものまで「不要な我」として削ぎ落としてしまったら、あとに残るのはただの空っぽな存在ではないのか。
それは自由への道などではなく、自分という自我そのものを放棄させられているのではないか――そんな疑念が、ひかるの頭から離れなかった。
会場となったのは、広大な和室だった。
畳が30畳ほどは敷き詰められているだろうか。
古めかしくも丁寧に拭き掃除がされたその部屋は、20人前後の参加者が大きな輪になって座っても、まだ周りに十分な余白が残るほどの広さがあった。
参加者たちの下には、一枚ずつ使い古された薄い座布団が敷かれている。
部屋を出たすぐの廊下には、長時間の話し合いで喉が渇いた時にいつでも飲めるよう、大きなお茶のポットと清潔に重ねられたプラスチックのコップが整然と置かれていた。
静まり返った館内には、時折そのポットからお茶を注ぐコップの音や、廊下を渡るかすかな足音だけが響いていた。
研鑽会では、参加者が一人ずつ自らの「手放せないもの」と、それをどう克服するかについて意見を出し合っていった。
「私は、どんな事でも素直に受け入れて暮らせない自分を手放したいです。自分の考えを挟まずに、すべてを受け入れたらいいなと思います」
「私は、人の話を素直に聞けない自分を手放したいです。自分の殻に閉じこもって相手の言葉を拒んでしまう我を捨てて、すべてに耳を傾けられるようになりたいです」
一人また一人と、自らの自我を否定し、共同体への服従と調和を誓うような言葉が紡がれていく。
そして、全員が一通りの発言を終えたときだった。
車座の中央に座っていた研鑽学校の世話係の女性が、静かな、しかし拒絶を許さない整った声で全員を見回した。
「はい、みなさん素晴らしい研鑽でしたね。では次に、他の方の『手放せないもの』についての発言を聞いて、どう思いましたか? お互いに感じたことを言い合ってみましょう」
場の空気が、一瞬でピリッと張り詰めた。
それは、単なる感想の分かち合いなどではなかった。
互いの発言に含まれる「我」や「甘え」、「思想からのズレ」を参加者同士で指摘させ合い、相互監視と自己批判を深めさせるための仕組みだった。
「〇〇さんの発言は、まだどこか『自分を良く見せたい』という計算が残っているように感じた」
「『人の話を聞けない』と言いながら、大人に対する不満を心の底で引きずっているんじゃない? それで本当に手放せるのかな」
車座のあちこちから、容赦のない言葉が飛び交う。中には、厳しい表情で辛辣な批判を浴びせる者もいた。
周囲と同調し、より高い「正しさ」を証明しようとするかのように、言葉の刃は互いの内面へと向けられていく。
ひかるは、その光景の中でただじっと、自分の膝の前にある畳の目を凝視していた。
(どうして、そこまで言わなきゃいけないんだろう……)
畳の青く乾いた匂いと、イグサの細かい網目だけが、ひかるの視界を埋めていた。
発言を求められないよう、存在感を消し、息をひそめて畳を見つめ続けるしかなかった。
反抗してしまう気持ち、素直になれない頑固さ、誰かを嫌ってしまう感情――そうした「負の感情」は、村の思想においてはすべて克服すべき「悪」であり、「我」のあらわれとされていた。
けれど、ひかるは心の中で静かに問いかけていた。
(そういう、負の感情だって、大切にしちゃダメなんだろうか……?)
怒りや反抗心、割り切れない葛藤があるからこそ、人は自分という存在を確かめられるのではないだろうか。
嫌なものは嫌だと感じ、傷つき、悩み、誰かに反発する――そうしたドロドロとした負の感情も含めて「人間」なのではないか。
それをすべて「我」として排除してしまったら、心の中には何が残るというのだろう。
カワギシの根底にある理念――「共生共存」。
争いのない理想郷を目指し、誰もが争わず、愛と平和の中で調和して生きるというスローガンは、言葉だけを聞けば美しく、誰も反論できない正論だった。
けれど、いまひかるが感じているのは、その美しさの裏にある圧倒的な息苦しさだった。
それはまるで、人間の心の中に存在する暗がりや影のすべてを、逃げ場のない眩しい蛍光灯の光でどこまでも、どこまでも照らし出していくような感覚だった。
隠れる場所のない明るさ。影を一切許さない絶対的な正義。
心の隅々に残る個人的な感情や負の思いまでを「不純物」として白日のもとに晒し出し、漂白していくようなそのやり方が、ひかるはたまらなく嫌だった。
薄暗い場所にひっそりと隠しておきたい大切な自分のかけらまで、強烈な光で焼き尽くされてしまうような恐怖を覚えた。
「ひかるさんは、どう感じましたか?」
ふと、世話係の声がひかるの頭上から降ってきた。
ハッと息を呑み、ひかるはゆっくりと顔を上げた。
30畳の和室を照らす白い蛍光灯の光が、眩しすぎて一瞬視界が眩む。車座になった全員の視線が、じっと自分に集まっているのが分かった。
ひかるは、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じながら、廊下に置かれた冷たいお茶のコップを思い浮かべた。
そして、自分の心の中にある本当の感情を、眩しすぎる光から隠すように、固く閉ざして畳の上に視線を戻した。




