楽園と教室の間で
「転校生なのに……」
始業前、先生はひかるを壇上に呼んで紹介することもなかった。
ただ「わからないことがあったら、同じカワギシの子に聞きなさい」とだけ告げ、そのままいつものホームルームを始めてしまったのだ。
クラスメイトたちがひかるに話しかけてくることはなかった。
腫れものに触るかのような目線や、無関心な通りすがりの気配。
地元の生徒たちにとって、「カワギシ」からやってくる子どもたちは、毎日学園のお弁当を持ってどこか違う世界から通ってくる、少し不可思議で遠い存在なのかもしれなかった。
昼休み、声をかけてくれたのは、同じカワギシ中等部からこの学校へ通っている仲間たちだった。
自分たちだけで固まり、机を寄せて、同じお弁当箱を開ける。
蓋を開けると、色鮮やかな豚肉のケチャップ炒めとツヤツヤした味付け卵が目に飛び込んできた。
豚肉のケチャップ炒めを口に運んだ。
濃いめのタレと柔らかいお肉の旨味がご飯によく合い、思わずほっと息が漏れる。
「……すごく、おいしい」
「うん。今日のおかず、当たりだね」
同じ背景を持つ仲間と交わす言葉は安心できるはずなのに、ひかるの心にはどこか寂しい風が吹いていた。
同じ教室の中にいながら、自分たちと地元のクラスメイトとの間には、目に見えない深い溝が横たわっている。
誰も自分の名前を呼んでくれない。
自分もまた、外の世界へ一歩を踏み出せないまま、学園という小さく広い領域の中に留まっているのだった。
昼休みが終わり、次の授業までのわずかな休み時間。
教室の隅で机を囲み、カワギシの仲間とお弁当箱を片付けていたひかるの耳に、ヒソヒソと囁く声が届いた。
「あいつ、カワギシだろ」
「あー、やっぱり。なんか雰囲気ちがうよね」
ヒソヒソ声と一緒に送られてくるのは、あからさまな好奇心と、どこか気味の悪いものを見るような冷ややかな視線。
悪意というよりは、得体の知れない異物に対する「差別的な壁」そのものだった。
ひかるは思わず視線を落とし、手に持ったお弁当箱の蓋を強く握りしめた。
先生からの紹介もなく、ただ「カワギシの子に聞け」と放置された理由が、その瞬間に痛いほど分かった。
ここでは、自分たちは最初から「普通のクラスメイト」としては見られていないのだ。
「ひかるちゃん、気にしなくていいよ」
察したように、同じカワギシの子が小さく声をかけてくれた。
聞き慣れた優しい声。
でも、その言葉自体が「自分たちはあちら側とは違う」という壁をより強固にしているようにも思えて、ひかるの胸はキュッと締め付けられた。
朝、冷たい水で泥を落としたジャガイモ。
無所有の楽園でみんなで分かち合う安心感は本物だったはずなのに、この教室で感じる孤独感もまた、紛れもない現実だった。
同じ空気を吸っているはずの教室の中で、自分だけが透明なガラス越しに外の世界を眺めている。
手元に残ったお弁当箱のほのかな温もりだけが、ひかるの小さな居場所だった。
放課後、地元の学校を出たひかるは、学園の仲間たちと並んでバスまでの道を歩いていた。
教室で受けた冷ややかな視線や「あいつカワギシだろ」という囁き声の痛みが、まだ胸の奥に重く残っている。
「ひかるちゃん、今日どうだった?」
歩幅を合わせてくれた3年生の先輩が、覗き込むように笑いかけた。
「……うん。なんか、クラスの人たちと全然話せなくて。すごく遠くに感じちゃって」
小さく打ち明けると、一緒に歩いていた2年生の仲間も深く頷いた。
「わかるよ。私も最初そうだった。学校に行くと、自分だけ浮いてるみたいで怖いよね」
「でもね、ひかるちゃん。私たちは朝、冷たい水で一緒にジャガイモを洗って、他の仲間は学園みんなの分のお弁当を作ったじゃない。畑に行く人たち、洗濯担当の人たち、清掃担当の人たち……みんなが繋がって生きているんだよ。あのお弁当を食べた学園のみんなは『今日のおかず美味しかった!』って笑顔になってる」
先輩はひかるの肩を優しく叩いた。
「外の学校でどう思われても、ここには味方がたくさんいる。学園の仲間はみんな、家族みたいなものだから」
バスに乗り、帰路に着く。
17時までは「実学=作業」の時間だ。
重いカバンを置くとすぐに作業着へ着替え、農場や加工場へと散っていく。
昼間の学校で感じた冷ややかな視線や浮遊感は、土の匂いと汗を流す身体の感覚の中にすーっと溶けていった。
無心で手を動かしている間だけは、自分がこの大きな世界の確かな一部であると感じられた。
17時。
作業終了を告げる合図とともに道具を片付け、そのまま浴場へ向かう。
温かいお湯に浸かり、1日の土汚れと学校での心の緊張を洗い流す。
湯船の中では、仲間たちと「明日は何のお弁当かな?」「作業、疲れたね!」と湯気越しに笑顔を交わした。
さっぱりとした体で18時前に向かうのは、学園の「愛和館」だ。
巨大な木造の食堂には、学園で暮らす中等部生、高等部生たちが集まり、決められた席に着いていく。
ズラリと並んだ大きなテーブルの上には、大皿に盛られた出来立ての料理。
「いただきます!」
18時、響き渡る声とともに全員で囲む夕食の時間が始まる。
昼間、地元の学校の教室で感じたあの孤独な空気はここには微塵もない。
外の世界でいくら壁を作られても、一歩ここに戻れば、すべてを分かち合える温かい家族と安心感が待っている。
愛和館の熱気と温かい湯気が、外の世界で小さく傷ついたひかるの心を包み込んでいく。
大皿の料理に手を伸ばしながら、ひかるの脳裏に、ふと記憶の底に沈んでいたあの頃の光景が蘇っていた。
――小5のあの頃、お母さんはカワギシの特別講習会に行った。




